ピアルノー氏の奇妙な遺言
「つまり、遺言に従えば 君達はこの手紙の相続人ではない。 という事になる」
ここまで言って エリオンは顔を上げて二人に目を向けた。
アリエルは少し驚いた顔をしている。 一方のマリオは異様に静かだ。
「……勿論、スヴェンセンも相続人ではない」
アリエルが後ろを振り向き 扉の前に立つ衛士を見た。
「まっことに 残念ながら」
衛士はわざとらしく肩をすくめて呟いた。
アリエルは困った様な 可笑しみのある表情でエリオンを、次いで夫に顔を向ける。
「エリオン様、この遺言状の相続条件を私達に明かすべきではありません。
徹底して秘匿するべきでした」
マリオは厳しい面持ちのまま、恐縮する素振りも見せずに淡々と言い放った。
彼が言わんとしているのはつまり、ピアルノー・アンダマンの遺言に係る重大な情報を自分達や一介の武官スヴェンセンと共有すべきでは無い、と言う事だ。
口調は丁寧だったが、エリオンを暗に非難しているのは明白だった。
(変わらないな)
主君の実利を重視し、その為に諫言を躊躇わない、理想的な家宰。
老執事の変わり無い様子を改めて目の当たりにしたエリオンは、腹を立てる以前に何だか嬉しくなってしまっていた。
「懸念は分かるよ、マリオ。 でも君達なら問題無い。
少なくとも私は心配していないからね。
二人すらも信じられないなら、旧代官邸にいる人間……いや小人族もだが、誰も信用出来ない」
そして、これはスヴェンセンにも云える事だった。
エリオンはスヴェンセンの立つ後方に顔を軽く傾けながら、マリオを見て言った。
「それに見ての通りスヴェンセンは当家の筆頭武官で、領主から衛士長の職も賜わっている。 懸念は不要だ」
長躯と筋肉質な肢体。 真っ赤な毛髪。
イズーダン子爵アンダマン家の紋章入り外套の隙間から覗く、黒みがかった籠手。 目を凝らせば緻密な彫金が施されている事に気がつくだろう。
この銀灰色の全身鎧は領内随一の優秀な魔術師に依頼し、スヴェンセンに設えて作成した特注品だ。
しかし、伊達に資金を投じている訳では無い。
彼女は我が家の私兵部隊である衛士隊の長であると同時に、数少ない私の腹心なのだ。
エリオンの返答に夫婦はそれぞれ 頷き返しはしたものの、マリオの方は明らかに納得していない様子だった。
「若様、これがピアルノー様の遺言なのは間違い無いんでしょうか?」
アリエルが尋ねた。
「うん……この手紙は……これが届いた経緯は後ほど改めて説明させてもらう積りだが、ピアルノー叔父上から……いや叔父上を騙る何者かも知れないが、兎に角、巧妙なやり方で 私の元に届けられた」
と口に出した後、マリオの鋭い視線に圧されて 要領を得ない返答をしてしまった事に気が付いた。
「つまり、確信を持って叔父上の遺言だとは言えない。
しかし事実、これを捨て置く事が出来ない、奇妙な出来事があった。
そして今、ここに至ってその予感は益々強くなった」
エリオンの言葉を促すように小さく頷いてから、マリオが口を開いた。
「この植物紙ですね」
「如何にも。 君の指摘通り、この植物紙は大きな手掛かりになるかも知れない。 何せこれを手に入れるには君たちの助けがいる。
……叔父にもこの紙を卸していたのか?」
「いいえ私は……私達は旦那様にずっとお会いしていません。 可能性は低いですが、もしかすれば家の者は何か知っているやも」
「では植物紙を管理している者を呼んできてもらえるか?
詳細な情報が得られれば、この遺言の相続人を見つける助けになる」
「それは 私達の氏族への要請ですか?」
「……いや、この件は今回の遺産分けの会合とは別にして考えて欲しい。
あくまで私から、君たち二人に対する依頼で、ただの……お願いみたいなものだ」
そう言って、今度は夫婦の顔を交互に見た。
◇◇◇
マリオとアリエル。 ピアルノー・アンダマン股肱の部下。
偉大な冒険家ピアルノー・アンダマンに付き従う小さな侍従たちは、傍目に文字通り〝お飾り〟の様な存在に見えた事だろう。
南領の富裕層にとって水柳の家出身の小人族を従者として雇うのは、芸事を愛する風雅人である事の証明だ。
それらの人々にとって二人の様な小人族は一種の装飾品であり、自身の富と教養を標榜する為の存在に過ぎない。
エリオン・アンダマンがそれを実際に目にしたのは、彼が故郷を離れて帝都の学園に入学した後のことだった。
しかし叔父とこの夫婦との繋がりがそのようなものとは一線を隔している事を彼は知っていた。
あの三人の間には、余所者には凡そ想像が及ばない程の確かな絆があった事を。
◇◇◇
エリオンは目の前の夫婦がピアルノー・アンダマンに関する事柄を無碍にできるとは考えていない。
寧ろ事此処に至って、この封筒が叔父に関係しているという予感は彼の中で確信に成りつつあった。
成果を得る為にもこの二人の助けが必要だ。
マリオは目を半睡にし、アリエルは片手で彼の手を握りながらその足元をじっと見つめていた。
二人とも考え込んでいる様子で、微動だにしない。
彼らからの返答を待ちながらその様子を観察しつつ、エリオンもまた口を噤んでいた。
そうしているうちに、旅の疲労から来る気の緩みからかその意識は徐々に物思いへと沈んでいった。
この二人は……三人の出会いは、ピアルノー叔父の学生時代にまで遡ると以前本人から聞いた事がある。
とても個人的な出来事の後……その詳細は話してもらえなかったが……マリオとアリエルは従者として叔父に仕えることを決めたそうだ。
それから間も無くピアルノー・アンダマンが己の道を貫いて父親と対立すると、日和見の親戚たち……つまりアンダマン本家筋のお偉方も祖父を慮って本家の跳ねっ返りを遠ざける方向に動き出した。
その代償として本家からピアルノー叔父への手切金として与えられたのが、ここ旧代官邸だったらしい。
謂わば御曹司が一転して問題児となった訳なのだが、変わらずこの二人は公私を越えて叔父を支えた。
それから後、南領の一官吏として始まり次に辺境の探索者として頭角を表し、果ては皇帝の友人と呼ばれるまでになったピアルノー・アンダマンの傍らには常に一対の影があった。
彼らが共に過ごしたこの土地とこの建物は三人の家だったと云って過言では無いだろう。
しかしピアルノー・アンダマンの妻子やその親族とは比較にならないくらい、ずっと長い間を叔父と共に過ごしてきたにも関わらず、彼の結婚を機にこの主従契約は呆気なく、一方的に解除されたと聞いている。
それも噂によれば、ピアルノー叔父の方から。
以後のことは詳しく分からないが、二人が叔父の探索行に随行することなくなったようだ。
自分達不在の遠征に出た旧友はいつしか行方知れずとなり、最後に彼の訃報が続いた……とすれば、二人の気持ちは如何程だろうか。
実際のところ、もしも私達からの依頼が無ければマリオとアリエルがこうしてピアルノー・アンダマンの遺産分けに関わることも無かっただろう。
互いを除けば、この件でマリオとアリエルの心中を察する事が出来る者はどこにもいない。
◇◇◇
「もうこんな時間か。 随分と長く付き合わせてしまったな。
スヴェンセン。 二人を宿房に送り届けてくれ」
急ぎ過ぎる事もない。 今日はここまでにしよう。
相続人達の到着まで、猶予はある筈だ。
二人が部屋を出た後、スヴェンセンは思い出した様にエリオンの方を振り返り、盆に乗った封筒を 軽く掲げた。
「こいつは どうしましょう?」
「そこに置いてくれ。 くれぐれも慎重にな」
◇◇◇
再び書斎で一人になったエリオンは、先程の封筒を目の前に置いて 黙考していた。
封筒が スヴェンセンによって彼らの眼前に差し出された時、一瞬ではあったが二人揃って封筒の中央、封蝋のあたりを凝視していた様に見えた。
しかし、封蝋に押されている印章には見覚えがないと言う……
深く、静かな溜息を漏らす。
権謀術数は貴族の常だ。
表面を朗らかに取り繕い、政敵と食卓を共にする。
二度と会うことのない相手と、再会を誓って 親愛の抱擁を交わす。
目的の為に、褒めそやし、監視し、貶める……
スヴェンセンには 彼らの行動 その一挙一動を監視するように伝えた。
……くれぐれも慎重に
エリオンは顔を上げ、書斎の隅に纏めてある一山の荷物に向かう。
その中から白く輝く金属製の水筒を取り出すと、蓋を外し、水筒の中身を蓋に注ぎ入れ、一息に飲み干し、フーーッ と大きな息を吐く。
酒気がエリオンの頭に沁みわたった。
長い一日だった。
それから少しの間天井を見つめた後、彼は上衣の胸元から手紙を取り出し、書物机の上に置いた。
仄かな緑色の紙で織られた封筒。
封筒の色も、封蝋の深緑色も、印章の紋様も、
先ほど二人に見せた封筒と まるきり同じ物だ。
違いが有るとすれば、エリオンがたった今取り出したそれは 開封済みである、という一点だろう。
二通の手紙。
これこそが私をこの地に呼び寄せ、遺言の見届け人、遺産の整理役に仕立てあげ……
そして、あの善良な夫婦に対してさえ吐露する事の許されない、際限の無い疑心をこの胸中に蔓延させている元凶なのだ。