ピアルノー氏の依頼
エリオン・アンダマンは執務室の窓から、忙しなく働いている従者たちの様子を眺めていた。
応接室がある本館を含むこの旧代官邸敷地は、表と裏に出入り用の門が設けられた石造りの外壁でグルリと囲われており、本館を中心に使用人邸、官邸、倉庫棟が建っている。
正門を入ってすぐ傍には、衛兵の詰所と宿泊施設付きの厩舎も併設されており、その門前で衛士と従者達が現地の住人や商人たちと会話をしているのが見える。
叔父とその使用人だけで使用するには 不釣り合いなほどの規模だ。
四十年ほど前に南都チタ・パルマの近郊にアンダマン家南領代官邸が新たに建造されるまでは、ここが周辺のアンダマン領一帯を取り仕切る現地代官の座所だった。
南領に赴任するにあたり、若きピアルノー・アンダマンは本家所有の旧い施設に修繕を施して当面の住処とする。
本館を改造した屋敷は代官職に必要な設備以外にも来客用の応接室と寝室、小規模な晩餐にも対応できる大部屋と厨房が併設され、住み込みで働く使用人のための寝室や食堂も備えた造りになっている。
十五年ほど前、突然の結婚を機に南都に程近い邸宅を購入するまで、彼はこの地で気儘な独身生活を過ごした。
そのためかこの場所には、叔父の残り香……その残滓のようなものが、未だ色濃く漂っている。
「若様、お茶をどうぞ」
「有難う。アリエル」
手に取って 一回、二回と口に含み 飲み下す。
(あたたかい……)
悪路に揺られて軋んだ身体がほぐれる。
「美味しいよ、香りも素晴らしい。
君の腕前か、水柳の家の薬草園か、どちらを褒めればいいのか迷うくらいだ」
「まあ……光栄ですわ」
クスクスと笑う 目元に残る腫れが赤らんで痛々しい。
白い肌に頭巾から覗く栗色の巻き毛、清楚な白装束の少女が小人族だと知らない者が見たら、ハンカチを差し出して その目元を拭ったかもしれない。
だが この地の小人族の風習を知る者は彼女が既婚者であること、それどころか既に子供を育て上げた経験豊かな母親である事を 頭巾に施された刺繍の紋様から見て取ることができる。
「若様はすっかり素敵な大人の男性になられました。 旦那様によく似ておられます」
旦那様とはアエル・アンダマンつまりピアルノー叔父の弟であり、私の父親の事だ。
「君は変わらない。 最後に会ったのはいつだったかな」
「それは、旦那様のお葬式…… ピアルノー様と、マリオと一緒に」
そう言ったきり俯いてしまったアリエルを長椅子に座るよう促しながら、エリオンはその時のことを思い出していた。
◆◆◆
雨が降っている。
帝国譜代の家臣アンダマン家の一員 アエル・アンダマンの葬儀は、名家の葬送が須くそうである様に、個々人の哀しみはさて置き、社交と政治の場として伝統に則って、厳粛に執り行われた。
葬式は、アンダマン本家の家長である大伯父が名目上の喪主を務めた。
生前に父が立ち上げた新領地イズーダンの次期当主として、長男である兄は母親と共に高位の弔問客への対応をしていた。
当主代行となった母は家宰を連れて従卒に指示を出したり、使用人の差配をしたりと、特に忙しくしていたように思う。
一方、エリオン・アンダマンは多忙な母に代わって弟妹の面倒を見ながら、その合間に来客の対応をしたりして、漠然とした不安を押し流すかの様に小間使よろしくソワソワと動き回っていた。
「エリオン」
弔問客達の訪問が一段落し、泣き疲れて眠ってしまった弟妹を寝室に置いてから応接室に戻ってきたエリオンに、背の高い人物が声を掛けた。
背筋の通った、分厚い胴体。
白髪混じりの豊かな頭髪に、刈り揃えられた顎髭と口髭。
明るい 緑色の瞳の持ち主。
その足元には子供が2人。
「ピアルノー叔父様! マリオ!アリエル!」
ピアルノーは駆け寄って来たエリオンに何も言わず、じっとその目を見つめながら、肩に手を置いた。
力強い手の感触と、無骨で温かい慣れ親しんだ優しさが、見知らぬ人々の接待に追われていたエリオンの緊張を解してくれた。
「兄と母にはお会いになられましたか? まだなら、案内します」
「いや、アンダマン本家の面々への挨拶は済ませてきた。
リアンノンにもアーロンにも、兄上にも会ってきた。 子供達はどうしている?」
「妹は父の死を理解した時から狂ったみたいに泣きじゃくって、それに弟もつられて……今は二人とも 疲れて眠ってます」
「そうか 忙しくしている様だが、今は大丈夫なのか?」
「ちょうど落ち着いたところです」
「応接室には誰もいないな? では、一緒に休憩しよう。
マリオ、アリエル」
◇◇◇
応接室に着くと、小人族の夫婦は勝手知ったる手際の良さで、どこからか取り出した一揃いの茶器をテーブルに広げると、瞬く間に二人分のカップにお茶と焼き菓子を添え、恭しくそれぞれの面前に差し出した。
「いただきます」
春先の新芽の様な色をしたこの飲み物は、帝国南領に住む小人族が育てているハーブを使って作られたお茶で、彼らだけが作ることの出来る 南部の特産品だ。
(おいしい)
その後 マリオとアリエルも加わって、四人は暫し当り障りの無い会話を楽しんだ。
部外者に囲まれていた緊張感から解放され、気心知れた三人との時間は 若きエリオンにとって何よりも有り難かった。
◇◇◇
「実は……お前に頼みたいことがある、エリオン。 アエルにも関係のある事だ」
一通り近況報告を終え、弟妹の様子を見に席を立とうとしたエリオンに、ピアルノーが神妙な面持ちで切り出した。
エリオンにとっては、意外な言葉だった。
なにせ 叔父は普段人に頼み事をしたりしない。
というより、他人に何かを委ねる事を好まず、腹心の小人族を除けば 誰かに命令することさえ稀なのだ。
(僕に…… 父さんに関わることを 母さんではなく、ましてや兄さんでもなく…… )
「お手伝いできることなら、何なりとおっしゃって下さい」
考える前に、答えていた。
ピアルノーがマリオとアリエルを一瞥すると、二人はお辞儀をして応接室から出ていった。
「これを預かってほしい」
そう言ってピアルノーが取り出したのは 古びた小箱と鍵だった。
「これは…… 何でしょうか」
「見た通りの物だ」
「……中に何が入っているんですか? 高価なもの……宝石や金貨でしょうか」
「いや、箱には何も入っていない……今はまだ。 だから預かってほしいのは この鍵の方だ」
正直なところ、肩透かしだった。
あの、稀代の冒険家にして蒐集家のピアルノー叔父からのお願いにしては余りにも……
エリオンの様子を見てとったのか、返答を待たずにピアルノーが続ける。
「これは本来、アエルの役目だった。
お前の父……アエルが病に倒れた後、病床のアエルと相談して決めた。
エリオン お前に役目を託すと」
父さんの役目。 なぜ私に?
「なぜ僕なのでしょうか? 兄さんでは無く」
「これが家督やアンダマン家に関わるものではないからだ。
或いは、この役目を担うのがアーロンであったとして大きな違いはないかも知れない。
だが、アエルと私の意見は、お前に託すという点で一致した」
父さんと叔父が決めた? しかし家に関わるものではない?
空の箱の鍵を預かる事が役目? ますます分からない……
「よく わかりません……」
父が亡くなって以来、母と兄はずっと一緒だ。
妹は体力がある限り泣き続ける。弟は不安で泣く。
叔父と 二人が来てくれた時、嬉しかった。
嬉しくて それでも、泣いてしまいたいのを我慢して……
涙が ポタポタとテーブルの上に落ちた
◇◇◇
暫し 無言の時間が過ぎた後、ピアルノーが両手でエリオンの頬を包み、親指で彼の涙を拭った。
暖かく 乾いた指
「すまない エリオン
今は何を言っても納得させる事が、いや 確信を持って伝える事が出来ない……しかし、どうか この役目を担って欲しい」
エリオンが項垂れていた顔を上げると、張り詰めた表情が目に入った。
春先の新芽の色。
その瞳が、ピアルノーの切実さを物語っていた。
そうだ この人は誠実な人だった。 昔も、今も。
「……任せてください。 預かります。
その時が来るまで、守ります。 必ず」
◆◆◆
父の死後、いつしか私も兄アーロンの補佐として家業に参加し、瞬く間に十年以上が過ぎ去った。
あの鍵のことも、葬儀の日にピアルノー叔父と話した事もすっかり忘れた頃になって、事態は動いた。
叔父から手紙が届いたのだ。
ピアルノー・アンダマンの葬儀が済んだ後に。