ピアルノー氏の魔精Ⅱ
痛みは無かった。 熱さも寒さも……何も無い。
ただ、奇妙なほど解放感があった。
閉じた瞼の奥で明かりが揺れていた。
◇◇◇
エリオンが目を開くと、目線の先には使用人邸の天井がある。
真っ暗な部屋は仄かに揺らめく橙色の焔に照らされていた。
生きている。
彼が顔を動かすと、その目と口を覆っていた筈の黒い物質が剥がれ落ちた。
途端にエリオンは身を翻して、全身に付着した物質をはたき落とす様に立ち上がった。
半狂乱になりながらも彼は暖炉の上にかけられていた鏡の存在を思い出し、その前に移動して自分をまじまじと眇めた。
そこに映る姿は憔悴しているものの、着ている服にも火傷どころか煤の一欠片さえ付着していなかった。
服の前面が毳立って血が滲んでいることと顔に小さな切り傷が付いている以外に目立った怪我も無い。
どういうことだ? 間違いなく燃えていた。 何かが焼かれる時の、火花の爆ぜる音を聞いた。
エリオンは上着の懐に恐る恐る手を入れ、意を決して封筒を取り出した。
その全面を隈なく検めながら、もう一方の手で胸元に手を這わせる。
外套の内ポケットに穴が開いていた。
同時に鋭い痛みが走り、エリオンは咄嗟に指を離す。 指先を見ると、そこに乾いて黒ずんだ血の跡があった。
穴は完全に懐中を貫通し、皮膚まで到達している。
やはりこの封筒はあの時この外套と一緒に貫かれ、破れ、燃えて……そして、再生した。
エリオンが足下に目線を遣ると、床一面に黒い破片が散らばっている。
彼を拘えていた強靭な黒い物質はバラバラの欠片になって、今や再生する気配も無い。
その一つ一つの上には、未だ魔法の焔が燻っていた。
……これは、嬉しい誤算というやつだろうか?
ウィル・オーデンの黒い魔法は、封筒の焔によって完膚無きまでに破壊されている様に見える。
エリオンは徐ろに両手で封筒の一端を破って床に置き、自身も膝をついてその様子を観察し始めた。
封筒はその傷口から一条の煙を上げると、勢いよく燃え始める。
そこで何を思ったか、彼は自分の手を差し出し撫でる様にゆっくりと指を一本ずつ焔の上に晒しながら、封筒が燃え尽きるまでそれを続けた。
次に素早く封筒を拾い上げ、それが置いてあった箇所に触れ入念に床の上の確認を済ませてから、漸く立ち上がった。
思い違いを……それも、かなり大きな勘違いをしていたということか?
雑念を振り払うように激しく首を振ると、彼は封筒を真っ二つに破り、捩じ切った。
封筒を握ったまま、燃え盛る両の拳を扉に押し付ける。
瞬く間に黒い物質でびっしりと固められた扉に魔法の焔が燃え移り、激しく踊りながらその表面を侵蝕していった。
エリオンは焔の及ぼす作用を見逃すまいと、熱さに怯む素振りもなく目を見開き、全神経を集中してその様子を見守っていた。
◇◇◇
焔が燃え尽きる。
焼き尽くされ、ボソボソした飛礫と化した無数の黒い塊が、扉の周囲に散らばっていた。
にも関わらず、扉そのものには如何なる焦げ跡も無い。 魔法の焔の痕跡すらも残されていなかった。
部屋を離れる前にエリオンは奥の寝室へと続くもう一方の扉を綴じ込めていたウィル・オーデンの魔法を同じ様に封筒の焔で焼き払った。
長椅子で眠っていたアリエルを抱え上げその先にある天蓋付き寝台へと移動させると、小人夫婦の寝室に鍵をかけてからその場を後にした。
◇◇◇
人目に触れない様に注意を払いながらエリオンは倉庫棟を目指す事にした。
マリオとウィル・オーデン。 水と油の様な二人の利害関係。
それぞれの目的に共通する障害……それこそがアリシア・アンダマン。
小人族と魔導師を相手に戦うなら、彼女の復活こそが最優先となる。
どれだけの時間が経ったのか、見当もつかない。
いずれにせよマリオはフラム捕縛の為に小人族を中心にした面子で捜索を行っているだろう。
衛士隊にもその応援を求めるかも知れない。
その要請に対してスヴェンセンが衛士隊の人員を割くかどうかは分からないが、敢えて邪魔はしないだろう。
フラムを悪役に仕立て上げるなり、その理由は如何とでもなるだろうから……私がいない限りは。
仮に、マリオの要請を受けた衛士隊がフラム捜索に協力した場合でも、その為にスヴェンセンが倉庫棟で私の捜索を完全に放棄する可能性は極めて低い。
つまり、倉庫棟に行けば衛士隊がいる筈だ。
◇◇◇
「おい! そこにいるお前、動くな」
篝火に照らされた道を避けて進んでいたエリオンを何者かが呼び止める。
彼が声のする方へ振り向くと屈強な若い男性二人組が剣呑な面持ちで歩いて来るところだった。
先頭の一人は腰の剣に手を掛け、続く二人目は引き絞った弩を両手に構えている。
間違いない。 イズーダンの衛士隊だ。
内心胸を撫で下ろし彼らに向かって歩みを進めると、後方の弩兵がエリオンに照準を定めて叫んだ。
「止まれ! あと一歩動いたら撃つ!」
「落ち着け諸君! 私だ、エリオン・アンダマンだ」
エリオンはそう言って手を上げたが、二人とも全く警戒を解かない。
「顔を見れば分かるだろう?」
「オレ、殿様にお目にかかったことねえ」
「おらも。 遠くから見たことあるけど……」
……そんなあ。
「それによく見たらおめぇボロボロじゃねえか」
「そだ。 殿様はいっつもキレイなおべべ着とる」
「倉庫棟で奇襲を受けたからだよ……そのあと使用人邸で敵に監禁されていて、ようやく脱出したところなんだ」
「使用人邸?…… 倉庫棟と真逆だな」
「怪しいべ」
なぜだ……全てが裏目に出る。
「二人ともどうしたの? 何か見つけた?」
声がすると同時に彼らの後方から一人の衛士が小走りで走って来た。
「おう、怪しい奴だ」
先頭の衛士が得意満面で言った。
二人の大きな図体の隙間から三人目の衛士が顔を出してエリオンを見ると、途端に彼女の表情が凍りついた。
「この……糞馬鹿野郎共! この方は、エリオン・アンダマン様だろうが! テメエらの目は節穴なのか!?」
彼女の豹変とあまりに口汚い罵りに唖然としながらもエリオンはその女性衛士が昨日のルシャス・アンダマン旧代官邸来訪時、彼に報せをもたらしたのと同じ衛士である事に気がついた。
「申し訳ありませんエリオン様、この二人は衛士隊でも一二を争う馬鹿で……後ほど、責任をもって必ず重い処罰を下します!」
「あぁ……いや、私は大丈夫。 処罰も不要だ」
「しかし……」
「それよりもスヴェンセンは今どこにいる? 倉庫棟で私を探しているのか?」
「はい。 隊長は倉庫棟にいます」
「案内してくれ」
「それは……御意に。 では私が先導いたします。
……おい、二馬鹿は先行と殿だ! 位置に着け」
「いや オレら官邸に行く途中なんだよ」
「だ」
「官邸で何かあったのか?」
女性衛士の表情が見る見る変化するのを遮ってエリオンが二人に尋ねた。
「官邸に賊が立て籠っています……脱牢です」
すると二人に代わってエリオンの質問に女性衛士が応えた。
「説明してくれ」
「地下牢に入牢していた12人全員が逃げ出しました。 全員、雇い主の下に合流している様です」
あのゴロツキどもの雇い主。
「ルシャス・アンダマン」
「そうです。 何者かが外部から手引きしたみたいなんですが、方法は分かりません」
「コルゾ・キーリバは?」
「官邸内の状況は分かりません。 脱牢の詳細について看守に着けた隊員は気絶させられていて何も知らないと……念の為に尋問しましたが一貫して何も分からない、覚えていないと言っています」
「それで、彼らの目的は?」
「食いもんと水です」
「あと 馬も欲しいって」
男性衛士達が口々に答えた。
「人質を取られたのか?」
「はい。 交代であの二人を見ていた隊員四人、全員が」
状況は益々混沌としてきた様だ。
この混乱に乗じればマリオや小人族にもウィル・オーデンにも見つからず、想定よりは容易に叔母上達と接触出来るかも知れない。
……幾らかの犠牲と引き換えに。
◇◇◇
エリオンは目の前の衛士達を見た。
その顔を見るだけでそれぞれが異なる出自を持っているのが分かる。
イズーダン子爵領は帝国国境に面した辺境寄りに所在する、国内でもかなり歴史の浅い領地の一つだ。
亡き父アエル・アンダマンが初代領主であり現領主アーロンは二代目……つまり世襲貴族家が代々耕してきた土地では無い。
それゆえに他領地と比べてお世辞にも裕福とは云えないし、特段住み良い土地でも無いだろう。
しかし、そんなイズーダンの様な場所にも民は流れてくる。
彼らの多くはそれぞれの事情で元の土地から離れざるを得なかった人々であり、所謂流民や棄民がその大半を占めている。
皆総じて貧しく、住う場所には親兄弟さえ定かで無い子供達が犇めいている。
生きる術を持たない子供達は、帝国領内に在りながらその恩恵を受けることも叶わず、またそれを理解する間も無く多くが死んでいった。
この三人はそこから辛うじて取りこぼされず、生き残った者たちだ。
彼らイズーダンの遺児たちには……彼らには依る辺が必要だ。
そう大層なものではなく、例えば明日の朝日のような、当然在るべきもの。
生きる理由に価する、少なからず信じるに足るもの。
美味い食事を摂って心地良い寝床に潜る、その夜に見る夢……そういう日常に在る生き甲斐が。
◇◇◇
「君たちの名前を教えてくれ」
「あ はい! イトコ・モンチコ、二等衛士です」
「ジュウジ・イグサ三等衛士です」
「シャケ三等衛士す! 趣味は考古学と読書です」
「結構。 私はスヴェンセンのところに向かうから、案内はモンチコ衛士に頼む。
イグサ、シャケ両衛士には官邸の詳細な状況を確認次第私に報告をしに来て欲しい。 急ぎだ。 頼めるか?」
「「合点!」」
二人組はエリオンに向かって敬礼すると脇目もふらずに走り去って行った。
「ではモンチコ衛士、案内してくれ」
イズーダンの孤児たちをこの戦地へと引き摺り出した以上、私には責任がある。




