ピアルノー氏の弟子I
最初、真黒な布が吊り下げられている様に見えた。
さながら、透明の鉤に引っ掛けられて頂点から 末広がりに垂れ下がり、見ようによっては寝具の天蓋に似ていた。
応接室の天井に届かないまでも、スヴェンセンの身長を遥かに上回る高さがある。
「こいつは……何だ?」
エリオンが言葉を漏らすと、その呟きに反応するが如く、そいつの表面に波紋が広がる。
次の瞬間、目にも止まらぬ勢いで何かが射出された。
腹に響く振動と衝撃音。
彼が避ける間もなく、スヴェンセンが長剣を振るって、エリオンに届く前にそれを叩き落とした。
「エリオン、逃げろ!」
スヴェンセンがそう叫ぶとエリオンは反射的に彼女の方を向き、その姿を見た。
同時に、その全身鎧のあちこちに凹みと擦れがある事を改めて見て取る。
スヴェンセン自身も既に満身創痍といって差支えない状態だった。
「それは看過できない」
何処からか声が聞こえたかと思うと、黒い物体から新芽の様な突起がプツプツと生じ、瞬く間に成長して人間の胴体程の太さの、強靭な触手に成った。
のたくる蟒蛇を思わす、不気味な触腕が次々と伸び上がり、先ほどまでは滑らかな布の様だったその質感も、漆黒の硝子の塊に変化している。
その表面に浮き上がった、ギザギザの背鰭。
蛮族が振るう打製の石斧のような粗野で鋭利な無数の刃が、動きに合わせてキラキラと室内の灯りを反射していた。
叔父が話していた多頭竜という東方の怪物は、こんな姿をしているのだろうか。
エリオンが朦朧としながらそんなことを考えると同時に、黒い触腕が一斉に放たれた。
◇◇◇
荒れ狂う触腕の群れ。
その動きに合わせて、無数の破壊音が嵐の様に室内を暴れ回った。
丁度品は破壊され、床と壁は削ぎ飛ばされ、遂に燈明も吹き飛ばされると、室内は闇に落とされる。
動きが止む頃には、スヴェンセンが剣で触腕をいなす音も聞こえなくなっていた。
◇◇◇
暗闇の中、破壊された壁材と瓦礫から立ち上る砂煙に巻かれ、まともに目を開くこともできない。
エリオンは息を潜めながら、四つん這いで応接室の出口に向かって進んで行った。
扉に行き当たると彼は手探りで把手を見い出し、力一杯押し開けた。 が、何かの力で押さえ付けられているのかびくとも動かない。
退路を断たれた。
「動くな」
背後から、何者かがエリオンに話しかけた。
彼が振り向き、薄らと目を開けて相手を見ると、徐々に視界が闇に慣れ、少し離れた場所に声の主の影が浮かび上がった。
「私に何をした?」
影がエリオンに尋ねる。 それ迄とは打って変わって、丁寧さの欠片も感じられない口調。
エリオンは答えず、顔を動かさずに全神経を集中して周囲の様子を探っていた。
相手もエリオンを観察しているのか、何もして来ない。
その時、部屋の何処かで呻き声が聞こえた。
スヴェンセン。
空気が動き、鈍い音がする。 そして、灯りが点された。
黒い触腕がスヴェンセンの胴と頸に絡み、その身体を持ち上げている。
床から伸びる触腕の根元に、男が立っていた。
「質問に答えろ」
「何のことだ?」
エリオンがそう訊き返すと、ウィル・オーデンは頭を傾けて自分の首を摩った。 そこに一点、切り傷がある。
「首を刺しただろう。 どうやって傷を付けた?」
「質問の意味が分からないな。 何を知りたいんだ?」
ウィル・オーデンはエリオンを凝視したまま、スヴェンセンに絡んだ触腕を締め上げた。
「ぁあッ!……ぅ……」
彼女が苦しげな呻き声を上げる。
「止めろ! ……やめてくれ」
「答えろ。 次は無い」
誤魔化すべきか? いや、背に腹は代えられない……
「これを使った」
ウィル・オーデンから見えるよう、左手中指から魔道具を外し、掌に乗せた。
すると、彼の背後から黒い触腕がエリオンに向かって延び、その手から囀りの鈴を拾い上げる。
その時、触腕がエリオンの掌に触れた。 ヒヤリとした、無機的で硬質な感触。
「これは何だ?」
触腕に囀りの鈴を持たせたまま、まじまじと眇めながらウィル・オーデンが尋ねた。
「魔道具だ。 嘘を検知することができる」
「どうやって使う?」
「……指に嵌めて、その先端を自身に刺す。 その状態で会話をすると相手が嘘をついた時、使用者は痛みを受ける。 それで相手が嘘をついた事が判る」
「いいや、嘘をつくな」
触腕が再度、意識不詳のスヴェンセンを締め上げる。
「次は無いと言った筈だ」
苦悶の呻き声。
「嘘じゃない! お前を傷付けたのはもう一つのやり方だ。
自分に刺すか対象に刺すかで、二通りの使い方があるんだ」
「……いいや、嘘だな。 エリオン・アンダマンは魔法使いどころか魔術士ですらない。
大した力を持たない者は分相応のちゃちな魔道具しか使用することが出来ない」
(なぜその事を……?)
この、思いもしないウィル・オーデンの発言に内心動揺しながらも、エリオンは平然と言い返した。
「私は魔術士だ」
「……確かに、嘘ではなかった」
ウィル・オーデンが片手を上げてエリオンに示す。
指に嵌められた囀りの鈴がその掌に食い込んで、彼自身の血を啜っていた。
同時に、スヴェンセンの拘束が緩んだ。
「興味深い。 魔法の力を殆ど消費しない魔道具か。
ピアルノーからくすねたのか?」
「違う。 譲り受けた品だ」
「……なるほど」
その時エリオンの死角から突如として触腕が襲いかかり、彼の脚を巻き上げた。
宙に吊られ、術もなく逆さにされたエリオンはそのままウィル・オーデンのもとに運ばれていく。
「抗うな。 二つ目の使い方とやらを試すだけだ」
「こんなやり方が……それがお前の本性か? ピアルノー叔父上を裏切ってまで、何をしたいんだ?」
「説明したところで理解出来まい」
ウィル・オーデンは無表情に、囀りの鈴をエリオンに刺した。
「エリオン・アンダマン。 何をしにここに来た? その目的を教えろ」
◆◆◆
遺言。 補佐役。 証人。
男……アーロン・アンダマンが焔に巻かれ、叫んでいる。
寝室…… リアンノン・アンダマンが椅子に座って項垂れている。
ネコとレナート……治療師、秘薬、解呪の魔道具。
ピアルノー・アンダマン……鍵と空の小箱。
◆◆◆
囀りの鈴がその身に突き立てられようとする前、エリオンは胸元の縫い目を力任せに引きちぎり、そこから一枚の便箋を取り出していた。
仄かな緑色に染んだ、植物紙製の便箋を。
今、苦痛に悶えるエリオン・アンダマンの手から離れたそれが、燃え上がりながらウィル・オーデンに向かって落ちていった。
燃える紙片を目にした途端、敵は恐怖の悲鳴を上げながら身を引き、触腕諸共応接室の壁に背をぶつけて、そのまま尻もちをついた。
それと同時に明かりが消え、室内は再び夜闇に包まれる。
解き放たれエリオンは地面に叩きつけられるも、何とか体勢を立て直し、ウィル・オーデンに相対した。
視界の隅でスヴェンセンが解放されたことを確認しつつ周囲を探ると、すぐ側に呼び鈴を見つける。
手に取って激しく振り掻き鳴らした。
「無駄なことを!」
その時点で便箋はとっくに燃え尽きていた。
恐慌から立ち直ったウィル・オーデンが、その足下から無数の触腕を具現化させ、即座にエリオンに迫る。
黒い塊が彼に覆い被さるその瞬間、応接室の扉が爆風によってこじ開けられた。
ウィル・オーデンは轟音と共に吹き飛ばされ、勢いそのまま窓を突き破ってエリオンの視界から消えていった。
◇◇◇
(助かったのか……?)
エリオンは顔を上げ、ウィル・オーデンが落ちていった窓の跡を呆然と眺めていたが、すぐに気を取り直してスヴェンセンの元に向かう。
倒れたスヴェンセンに声を掛けながら、慎重に彼女の状況を検めた。
呼吸はある。 特注品の鎧はボロボロで打撲や裂傷もあるが、大量出血や致命的な外傷は見られない。
「ヴェン! おい、起きろ!」
「……無事で……なにより」
意識がある。 エリオンは安堵で泣きそうになるのを、どうにか押さえて言った。
「あぁ、お互いにな……」
とそこで、破壊された扉の向こうから声が聴こえた。
エリオンが足音のする方、扉のあった場所に顔を向けると、背の高い人物の影が濛々と漂う砂煙を越えてフラフラと応接室に入ってきた。
「エリオン、大丈夫なの?」
それは、アリシア・アンダマンだった。
しかし、明かりの消えた応接室の中では分かり難いが、その眼は充血しており顔色も良く無い。 酒精の匂いをプンプン漂わせ、足取りも覚束ない。
彼女は明らかに悪酔いしていた。
「叔母上。 これは貴女が?」
「そうよ。 扉は開かないし、すごい音が聞こえたから……不味かったかしら」
「いえ、助かりました。 本当に」
「よかった……あら エリオン貴方、怪我しているわ。 いったい何があったの?」
彼女は、ウィル・オーデンの味方なのだろうか。
言い逃れができる状況では無いと知りつつ、どこまでアリシアに話しをすべきか、エリオンには確証が持てなかった。
「……申し訳ありませんが、話しは後ほど。 護衛が負傷しているんです」
エリオンがスヴェンセンの方に向き直ると、その向こうの破れた窓の外から黒い触腕が鎌首を擡げていた。
そいつは室内を伺うかの様に、鼻面をエリオン達の居る方に向けてモゾモゾと動かしていた。
あの爆風を受けてなお、生きているのか。
「アララック! イヴォルト!」
突然、アリシア・アンダマンが声を上げる。 すると彼女の左耳と首元が輝き、次の瞬間には巨きな影が二つ、その傍に立っていた。
「……おイタが過ぎるわ、ウィル」
彼女がそう呟くや否や、二つの影はウィル・オーデンの触腕に向かって突進して行く。
それぞれ人型と四つ脚の獣を模った一対の巨影が、勢い任せの強襲で触腕を打ち砕くと、それを口火として旧代官邸の庭園を舞台に凄まじい攻防が繰り広げられる事となった。
◇◇◇
窓越しに展開されるこの世ならざる光景、怪物達の闘いを横目に、エリオンはアリシアに尋ねた。
「貴方達は一体……何者なんですか?」
「ご覧の通り、魔法使いよ。 詳しくは後ほど話しましょ」
そう言ってフッと微笑むと、アリシアはエリオンの手を取って彼を立たせた。
「先ずはあの子を、ウィルを捕らえないと。
何を企んでいrn…… ヴぅぅぅぅぅぅぅゥ! ゔゥ! うぅぅぅ……
お゛ロ゛ろ゛ォオぉえヱええ゛えぇぇぇぇえあーーーー………… ロ゛ア゛ァーーーーー!!、!、、」
アリシア・アンダマンが突然身を屈めて、激しく嘔吐した。
「えぇぇ…… うっ う 気持ぢ悪い……」
一言呟いてから壁にもたれると、ズルズルと崩れて床に座り込む。 彼女はそのまま目を瞑り、俯いて動かなくなってしまった。
……まずい。
エリオンはまさかと思い、窓の外を見た。
すると、アリシアの召喚した影は二つとも薄れて消えていく最中に在った。
敵を見失った黒い触腕は暫く宙を相手に暴れていたが、程なく落ち着きを取り戻し、エリオン達のいる応接室の方に向かって移動を始める。
まずいぞ。
「叔母上、しっかりして下さい。 奴らが向かってきます。 もう一度魔法を使って、さあ!」
しかしアリシア・アンダマンは返事をしない。 代わりに、鼾が聞こえてきた。
万事窮す。 いや、まだだ。
スヴェンセンを背に担ぎ、ノロノロと応接室の出口に向かう。 すると、応接室前の廊下に小さな影が現れた。
小人族の女性……アリエル。 なんで今、こんなところに。
「来ては駄目だ! アリエル、早くここから離れるんだ!」
いつもの無邪気な困り顔を浮かべながら、それでもアリエルはその場を離れず、心配そうにエリオンを待っていた。
「どうしたんですか、若様? 応接室がこんなに散らかって……」
「そんな事はいいから、早くここを離れるんだ。 スヴェンセンを頼む。
衛士を呼んで……待てよ、使用人達は何をしているんだ?」
ここでエリオンは、この異常事態に遭って誰も様子を見に来ていないことに、今更ながら気がついた。
応接室前の廊下に一人の衛士さえ居ないのは、それ自体が異常としか言えない。
と云っても、今のエリオンにその原因を確かめる術は無い。
アリエルにスヴェンセンを託し、叔母を回収する為、意を決して応接室に戻る。
すると、先程まで応接室に向かって来ていた、あの黒い触腕の姿が跡形も無く消えていた。
窓の破損箇所から下を覗いてみたが、庭園のいたる所に破壊と戦闘の痕跡は見られるものの、やはり触腕もウィル・オーデンも見当たらない。
そこに広がっていたのは、郊外の静かな夜。
敷地内に静寂が訪れ、荒れ果てた応接室にはアリシア・アンダマンの鼾だけが聞こえている。
エリオンの理解を置いてけぼりにして、戦いは突如として終わっていた。
◇◇◇
叔母を抱え上げて応接室を離れようとした時、窓の方から音がした。
彼が恐る恐る振り向くと、丁度、破れた窓の穴を抜けて小さな影が応接室に滑りこんで来るところだった。
その人物はエリオンに気が付くと会釈をし、手で膝に着いた汚れを払ってから彼に挨拶をした。
「只今戻りました、エリオン様」
小人族の執事は、さも平常運転と云わんばかりに丁寧にお辞儀をする。
いつもの涼しげな表情のまま、両手に持った曲刀を検め、その刃に付着した何かを拭って、胸元の鞘に納めた。
「マリオ……まさか、君が奴を追い払ったのか?」
「どうでしょうか。 私が相手をしたのは若い男で、黒い触手の様な奇妙な技を使う魔法使いです。
残念ながら、その曲者は取り逃がしてしまいましたが」
「……名実共に、君はこの地の守護者だな。 叔父上が羨ましいよ」
自然と表情に浮かんでしまう驚きと喜びを隠そうともせず、エリオンは老執事の底知れない能力に対し、表裏の無い称賛を贈った。
彼が戦闘面でも只者で無い事は知っているつもりだった。
だが、あの怪物じみた魔法使いウィル・オーデンを単独で追い払い得るほどの実力者だとは……
「過分なお言葉です。 ……ところで、そちらの御仁は? 私達の留守中に何かあったんですか?」
マリオはエリオンが肩に抱えたアリシアを見ながら、吐瀉物の臭いに気付いて顔を顰めた。
何かあった、か……本当に、今日一日で、一体何があったのだろうか。
いま考えてみても整理が付かず、彼等にどう説明したら良いものか、よく分からない。
「どうだろう。 まあ、思っていた以上に長い一日だったよ。
……ともあれ、お帰り マリオ」




