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指輪転生  作者: ナーロッパ大使館員
一章 ピアルノー氏の蒐集品
18/40

ピアルノー氏の未亡人Ⅲ


 音は鳴らない。

 ウィル・オーデンの言う通り、アリシア・アンダマンは魔導(まどう)()

 少なくとも、この男はそう信じている。


 「ところで……先ほど(おっしゃ)っていた、アリシア様や家人達を ”()()()()()()()()()()()()()()” というのはつまり……僕が不正(ふせい)行為を(はたら)く可能性を憂慮(ゆうりょ)されているんですよね?」


 それまで伏せていた目線を上げてエリオンの顔を真っ直ぐに見て言った。


 「そうではありませんよ……可能性を挙げただけです」


 「なるほど。 確かに、僕がやろうと思えば、現状(げんじょう)()()って(わる)さをする事はできます。

 (まか)された御役目(おやくめ)を利用して、秘密裏(ひみつり)賄賂(わいろ)を受け取ったり……」


 ウィル・オーデンは一拍(いっぱく)置いて、変わらずエリオンの目を見ながら話を続けた。


 「でもそんな事をしても隠しきれません。 僕はそれを知っています。 いつか必ずバレます。

 そうなった時に、魔導師であるアリシア様を出し抜くなんてことが出来るでしょうか?」


 「どうでしょう。 貴家の事情は存じ上げないもので」


 エリオンもまた相手の目を見て淡々と言葉を返した。


 「そうですね、でも、アリシア様を出し抜くのは難しいと思います。

 色んな意味で大雑把(おおざっぱ)御方(おかた)ですが、決して(おろ)かじゃありません。

 ……そもそも僕がピアルノー様の御家族(ごかぞく)(がい)することなどあり()ませんけれど」


 ウィル・オーデンはそこで会話を切った。

 傷付いた様にも見える表情と最後の一言が、自身へと向けられた疑念(ぎねん)に対する彼なりの不快感(ふかいかん)(あらわ)していた。


 エリオンは一考(いっこう)するかのように、右手の指を(あご)に当てながら左手をそっと懐中(かいちゅう)に入れた。

 応接室に入ってから会話中もずっと、彼はその左手を握り込んで(てのひら)(なか)にある物を見られないよう隠している。

 上着(うわぎ)胸元(むなもと)仕舞(しま)い込まれた左手。 その中指には、銀色に輝く指貫(ゆびぬき)()められていた。


 「叔母上のことは初耳(はつみみ)です。 つまり、彼女は帝室(ていしつ)から認定(にんてい)を受けた魔導師という事でしょうか?」


 「認定は受けていないと思います。 いえ、ご本人に確かめた事はありません。

 でも僕が知らない以上、許認可(きょにんか)は受けていない(はず)です」


 認可を受けていない?


 「では、何の根拠(こんきょ)があって叔母上が魔導師であると断言(だんげん)するのですか?」


 「それはもちろん、()()()()からです。 万事(ばんじ)()いて物臭(ものぐさ)な方なので、日々(ひび)雑事(ざつじ)にもやたらと魔法を使っています」


 「いや、未認可(みにんか)でも魔法を使える人間はそこら中にいますよ。

 彼女の(ちから)()()()というのは、貴殿の見解(けんかい)でしょう?」


 「そうです。 学園の諸実(しょじつ)()(かよ)っていた時に魔法の基礎(きそ)(なら)っていますし、職業(しょくぎょう)(がら)南領主都(チタ・パルマ)市井(しせい)で魔法を(もち)いた道具やそれを使う専業(せんぎょう)術士(じゅつし)もそれなりに見てきました。

 そのうえで()えて言いますが、アリシア様に届く実力者は()()()()()()()()()()

 あの方が本当に導師(どうし)(きゅう)の使い手なのか、僕に確認する(すべ)はありません。

 それでも、僕はアリシア様が術士(じゅつし)(きゅう)師匠(ししょう)(きゅう)(おさま)る魔法使いでは無いと思っています」


 その返答を聞いたエリオンは、色々な意味で頭が痛くなった。


 ”魔法(まほう)行使(こうし)する(もの)(みな)諸国(しょこく)(たから)


 この、帝国が万民(ばんみん)に向けて標榜(ひょうぼう)している文言(もんごん)は、魔法を操る才能を持つ人々が帝国内でどの様に扱われているのか、その立ち位置を端的(たんてき)(あらわ)している。

 同時に、出自(しゅつじ)を問わず優れた魔法(まほう)適性(てきせい)を持つ国民に対して、帝国が与える特権と引き換えに”魔法使い”として()()()登録をするよう(うなが)すのが、この標語(ひょうご)目的(もくてき)だ。 

 これによって形式(けいしき)(じょう)魔法(まほう)適性(てきせい)持ちの帝国民は直接(ちょくせつ)(てき)ないし間接(かんせつ)(てき)に帝国軍部(ぐんぶ)魔法省(まほうしょう)(ぞく)す事になる。


 その一方(いっぽう)市井(しせい)の人々を(つぶさ)に見れば、良民(りょうみん)悪徒(あくと)を問わず世間(せけん)は未登録の魔法使いで(あふ)れ返っている。

 それでも帝国全域(ぜんいき)(おおむね)安定(あんてい)した統治(とうち)()(わた)っている一つの理由は、本当に(ちから)のある者達が社会(しゃかい)奉仕(ほうし)自己(じこ)研鑽(けんさん)御題目(おだいもく)(たずさ)えながら、帝室(ていしつ)()(もと)国家(こっか)運営(うんえい)貢献(こうけん)しているからに(ほか)ならない。


 「アリシア様は……叔母上は認定を受けていないとの事ですが、取り敢えず術士登録くらいはしてあるんですよね?」


 「いえ、一切何もしていないと思います。 帝国側の記録上は魔法が使えない……香具師(やし)級と同じです」


 ウィル・オーデンの(よど)み無い返しに対し、エリオンは文字通り頭を抱えた。


 過去に下位術士としての申請すら出していない、未認可の魔法使い。

 今回の場合、問題はアリシア・アンダマンが帝国貴族家の一員であることだ。

 例えば、魔道具(まどうぐ)を上手に扱えるそこらの店主が、その腕前(うでまえ)評判(ひょうばん)()ったがために高い魔法(まほう)適性(てきせい)を持っている事が発覚(はっかく)する。

 自身の才を知ってか知らずか、登録を(おこた)っていた店主は役人(やくにん)にしょっ()かれ、なんやかやあって帝室(ていしつ)公認(こうにん)登録(とうろく)魔法使いとなり、結果的には店の評判も上がる。

 こんな風に、庶民(しょみん)であれば箔付(はくづけ)にもなる笑い話だが、貴族の場合はそうもいかない。

 帝室(ていしつ)という権威(けんい)裏打(うらう)ちされた帝国貴族という特権(とっけん)階級(かいきゅう)

 その椅子に座る者には例外(れいがい)無く、相応(そうおう)責任(せきにん)義務(ぎむ)(ともな)う。


 ことが露見(ろけん)すれば間違いなく、彼女の生家(せいか)であるピナスター伯爵家かアンダマン辺境(へんきょう)(はく)家のどちらか……それか、両家(りょうけ)共々(ともども)何らかの(せき)()われる事となるだろう。

 (くわ)えて、もしもウィル・オーデンの言うようにアリシア・アンダマンが導師(どうし)(きゅう)の魔法使いであるなら……


 「出来るだけ早くピナスター家とアンダマン本家に帝室への取りなしを依頼したほうが良い。 魔法適性の隠匿(いんとく)は庶民ならまだしも、貴族が行えば背信(はいしん)(ざい)に問われかねません。 必要であれば、私が仲介(ちゅうかい)しますよ」


 「そうですよねぇ……でも僕から言ってもアリシア様に聞く耳を持って(もら)えないかと。 エリオン様からも直接お話しして頂けますか?」


 (こいつは何を言っているんだ?)


 ウィル・オーデンが家人(かじん)(つと)めを()たせない惰弱(だじゃく)な使用人なのか、それともアリシア・アンダマンが思っていたよりずっと傍若(ぼうじゃく)無人(ぶじん)主人(あるじ)なのか?

 この際、そんな事はどうでも良い。

 この男に対する扱い一つに、兄の命が()かっているかも知れないのだから。

 にも関わらず、立場上は魔法適正の話を無視するのも不自然となる。

 アーロンの(のろ)いの(かぎ)(にぎ)る容疑者を掌中(しょうちゅう)(とら)えたのに()()めきれず、その()に現れた(しん)情報(じょうほう)邪魔(じゃま)をして、どう動くべきか判然(はんぜん)としない。

 これまでの所、この男は(ほとん)(うそ)をつかなかった。

 だが、それでも()()()()(もたら)した張本人(ちょうほんにん)である事に()わり()い……まだ何かあるはず。


 「……当家(とうけ)も無関係とは言えませんから、私からも叔母上に話をしましょう。 無論(むろん)、貴殿にも同席(どうせき)してもらいますが」


 「有難うございます。 エリオン様」


 「お(れい)(もらう)筋合(すじあい)はありません。 貴殿はピアルノー・アンダマンの家人(かじん)自称(じしょう)しているが、私はそう思っていない」


 「え……」


 「当然でしょう。 そもそもアリシア叔母上が魔導師だとして、それでもたった三人でこんな郊外(こうがい)まで来るべきではない。

 主君への諌言(かんげん)御者(ぎょしゃ)の仕事でないのなら、(ほか)でもない()()()が彼女に危険を()いて、その無謀(むぼう)(いさ)めなければならなかった」


 「……」


 「それに先ほどから聞いていれば、不手際(ふてぎわ)の責任は叔母上に丸投げするつもりのようだ。

 (よう)するに貴殿は、不興(ふきょう)()ってでも主君(しゅくん)危難(きなん)から(とお)ざける努力を(おこた)っているに過ぎない」


 「そんなつもりは」


 「()()()()()()()()は関係がない。 心構(こころがま)えを持っていないのだから。

 貴殿は従者(じゅうしゃ)として、また家人(かじん)として主人を(いさ)める事が出来なかった失態(しったい)棚上(たなあ)げに、自身の(せき)を主人に(なす)り付けているんです。 ()ずべき(こと)だ」


 「……返す言葉もありません」


 「特に(ゆる)(がた)いのは貴殿の叔母上に(たい)する(あつか)いが、見方によっては()()()伴侶(はんりょ)を選んだ、人を見る目の無い故人(叔父上)への愚弄(ぐろう)になっていると()(てん)だ」


 エリオンはうんざりした気持ちそのままの表情で、吐き出す様に言った。



 「(かれ)愚弄(ぐろう)するつもりは無い!!!」



 その剣幕(けんまく)一瞬(いっしゅん)(きも)()かれたエリオンに対し、ウィル・オーデンは間髪(かんぱつ)(いれ)れずに頭を下げて謝罪した。


 「申し訳ありません」


 「……叔父上への敬意(けいい)をお持ちなら、今後は()()(かた)(あらた)められると()い。

 結果的に助かったとはいえ、軽率(けいそつ)な行動の所為(せい)でアリシア叔母上も貴殿も危機に()った……(ちが)いますか?」


 「仰る通りです」


 ウィル・オーデンが答えると同時に、鋭い痛みと(またた)く様な(かん)(だか)(ざわ)めきが聞こえた。

 ()()()()()()()。 


 叔父上に対して敬意(けいい)があるのなら

 軽率(けいそつ)な行動の所為(せい)

 アリシア叔母上も貴殿も危機に()った


 どれだ。

 ()()()()()()嘘をついた?


 ピアルノー・アンダマンに()()()()()()()()()

 軽率な行動では無く、()()()()()()だった?

 アリシア・アンダマンもウィル・オーデンも()()()()()()()()()()()()()


 (つい)に針にかかった獲物を前に、エリオンは内心の高揚(こうよう)(おさ)えつけるように ゆっくりと右手で顔を()ぜる。

 そうして考える(ふう)(よそお)うと同時に、左掌(ひだりてのひら)(はし)苦痛(くつう)が顔に(あらわ)れるのを(かく)していた。

 中指に()められた、その指貫(ゆびぬき)存在(そんざい)(さと)られぬように。



 ◇◇◇



 一羽の(つる)が巣に座りながら、胸元(むなもと)雛鳥(ひなどり)(かか)えている様子が精巧(せいこう)()られた、その金属製の指貫(シンブル)は、所々(ところどころ)(いろ)硝子(ガラス)七宝(しっぽう)装飾(そうしょく)されている。

 異様(いよう)なのは、雛鳥たちが親鳥の胸元に(くちばし)()()て、(したた)血潮(ちしお)(すす)っている事だ。

 真赤(まっか)色硝子(エナメル)の血液を()らしながら(てん)(あお)ぐ親鳥の(くちばし)は、雛鳥より(さら)(するど)い。

 その先端(せんたん)が、今やエリオンの左掌(ひだりてのひら)に食い込んで、文字(もじ)(どお)り彼の血を啜っていた。



 ◇◇◇



 「聞かせてください。 貴殿らは一体何が目的でここに来たのですか?」


 「それは、アリシア様がここに来たいと(おおせ)でしたので」


 「貴殿はどうなのです? ここに来る用があったのですか?」


 「? いえ、僕はアリシア様の従者ですから。 ほかの理由はありません」

 鈴の音。


 「しかし貴殿の大叔父殿はピアルノー叔父上の管財人(かんざいにん)遺産(いさん)()けの証人(しょうにん)だ。 ここが今()()()()()()で私が()()()()()()()()()存知(ぞんぢ)なのでは?」


 「……」


 「その沈黙(ちんもく)肯定(こうてい)(とら)えて(よろ)しいのか?」


 「耳には(はさ)んで、知っています。 しかし 違うんです! それとは関係ありません」

 鈴の音。


 「それ とは? 関係が無いとはどういう意味ですか?」


 「……ピアルノー様の遺産分けと、此度(こたび)の訪問は関係ありません」

 鈴の音。


 指貫(ゆびぬき)(とが)った先端(せんたん)親鶴(おやどり)(くちばし)がエリオンの左掌に一層(いっそう)食い込んでいく。

 (ざわめ)(すず)(おと)が彼の頭の中に(ひび)(わた)るたび、鋭い痛みに合わせて真紅(しんく)色硝子(いろがらす)()らめくように耀(かがや)いていた。

 それと同時に、ピアルノー・アンダマンの声が彼の脳裏(のうり)反芻(はんすう)される。 それはかつてこの地で過ごした記憶の一端(いったん)だった。



 ◆◆◆



 ”鋭いだろう? おっと 駄目だ、エリオン。 触ってはならない。

 この物騒(ぶっそう)指貫(ゆびぬき)は、飲血(いんけつ)の魔法使いの手によって(つく)り出されたと(いわ)れている。

 使(つか)(よう)によっては(きわ)めて危険な代物(しろもの)だ”


 ”発動(はつどう)する方法(ほうほう)(いく)つかある。

 だがこいつの特徴は、術士の(ちから)を消費する代わりに血液を(ささ)げることでも効果を発揮(はっき)出来る(てん)だ”


 ”もちろん私も試してみた。 気持ちの良いものではなかったが。

 しかし、能力そのものは悪くない。 ()()()()必要になるかも知れない”


 ”今はならん、まだだ。 貴族の義務(ぎむ)善悪(ぜんあく)(まな)んだ(もの)にしか渡すことはできん”


 ”まずは学園を卒業しろ、エリオン。 卒業祝いに渡そう。 約束だ。

 こいつの名前は……”



 ◆◆◆



 (さえずり)(すず)。 それがこの魔道具(まどうぐ)の名前。


 今朝、書物(かきもの)(づくえ)の引き出しの奥から転がり出て来た金属製の指貫(ゆびぬき)を見つけた時、エリオンは(おのれ)(まなこ)(うたが)った。

 その奇怪(きかい)な魔道具は(まぎ)れもなく、かつてピアルノー・アンダマンが()物語(ものがたり)(かた)った蒐集品(コレクション)の一つだったのだ。

 ついぞ自分に(おく)られる事のなかったこの秘宝(アーティファクト)を予想しない形で手に入れると同時に、彼は一切(いっさい)躊躇(ちゅうちょ)なくこの僥倖(ぎょうこう)()かす事に決めた。


 「では本当に偶々(たまたま)、叔母上の()(まま)でここまで連れて来られたと言うのですか?」


 「はい。 失敗してしまいましたが、アリシア様を止めようとしたんです」

 鳴らない。


 (さえずり)(すず)は発動に殆ど魔力を必要としない反面、血液を対価に能力を発揮するという、その外観(がいかん)同様(どうよう)奇妙(きみょう)な性質を持つ魔道具だ。

 使用者がこれを指に()めながら、自分の身体にその尖端(せんたん)()すことで発動(はつどう)するのが(さえずり)(すず)の一つ目の能力、(うそ)検知(けんち)

 使用者の(はっ)した質問に(こた)えた相手が嘘をついた時、痛みと音で()()()と知らせる。

 今まさにエリオンが実行(じっこう)しているこのやり方は使用者に苦痛とそれに等しいストレスを与えるものの、周囲に(さと)られること無く発動(はつどう)できるという利点があった。


 ウィル・オーデンの発言と鈴の反応を照らし合わせると……

 (ウィル)は従者として()()()()()()()()()。 これは嘘。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()()ここ旧代官邸にやって来ただけだ、というのも嘘。


 この地に来たのはアリシア叔母上の我儘(わがまま)(あらが)えなかったからだというウィル・オーデンの答えに(さえずり)(すず)は反応しなかったのが、唯一(ゆいいつ)気になるところだ。

 旧代官邸に来たのはアリシア・アンダマンの意向である。 これは間違い無いのかもしれない。

 だが、些細(ささい)整合性(せいごうせい)を追い求めて、掘り下げた質問を(かさ)ねる必要はない。

 確かめる事は一つ。

 結局のところ、()()()()()()()()()()()()()は何だろうか?


 「では本当に、貴殿は叔父上の遺産に用は無いのですね?」


 「もちろんです」


 ウィル・オーデンが答えた瞬間、(さえず)雛鳥(ひなどり)達の泣声(なきごえ)がエリオンの頭の中でけたたましく響き渡る。

 それは囀りの鈴がこれまでエリオンに与えてきた不快感の最大値を(はる)かに上回っていた。


 (ざわ)めく(すず)()が今までに無いほど激しく一斉(いっせい)に、凄まじい痛みと共に彼の身体を駆け巡ると、その全身は反射的に硬直(こうちょく)し、不可(ふか)抗力(こうりょく)のまま(うち)向きに(ひしゃ)げてしまった。

 実際にはほんの一瞬、気が狂う程の音量と神経を揺さ振る苦痛の余韻(よいん)退()き、硬直が()けるのを待ってから、エリオンは(うつむ)いていた 上体(じょうたい)をゆっくりと起こす。


 「ッ ……すみません。 ()せてしまって」


 ()き込みながらカップに手を伸ばし、中身を飲んでから口を(ぬぐ)って言った。

 すると、その様子を見たウィル・オーデンが突如(とつじょ)立ち上がってエリオンに近づき、胸元から絹布(ハンカチ)を差し出す。


 「人を呼びましょうか?」


 尋常(じんじょう)では無いその表情を見てようやく、エリオンは失態(しったい)に気が付く。

 口元(くちもと)(おお)う左手。 指の隙間から血の(すじ)が伸びて、喫茶卓の天板(てんばん)にポタポタと(したた)り落ちた。

 

 「いや…… 大丈夫です」


 自前(じまえ)の絹布を取り出して口元に付いた血を()き、そのまま(てのひら)傷口きずぐち諸共(もろとも)左手に握り込む。

 エリオンが呼び鈴を鳴らす。 すると、ハーフリングの女給仕(メイド)が入室して来た。


 「水差しを持って来てくれ。 それと、片付けの準備をするようスヴェンセンに伝えて欲しい」

 

 明らかに何事かあったであろうウィル・オーデンとエリオンの様子に対し、彼女は(いぶか)しげな表情一つ(うかが)わせず、淡々(たんたん)と喫茶道具を台車に乗せると、応接室から引き揚げて行った。

 当然(とうぜん)そのまま誤魔化(ごまか)し切れるわけもなく、異様(いよう)沈黙(ちんもく)がその場を支配(しはい)した。


 予想外(よそうがい)()予想外(よそうがい)

 まずい事になった、とエリオンは思った。 それと共に、彼は()すべき事を考えていた。


 今さら(さわ)ぎ立てられるのは(よろ)しくない。

 不幸中(ふこうちゅう)(さいわ)いにしてウィル・オーデンは(さえずり)(すず)の存在には気づいていない。

 代わりに、私が吐血(とけつ)したと勘違いしている。


 本人は気付いていないが、折角(せっかく)ここまで尋問することが出来た。

 この男との話合(はなしあ)いは今晩で終わらせて、結論を出すべきだろう。

 そして何より、ピアルノー・アンダマンの遺産に対してこの男が(いだ)く強い執着(しゅうちゃく)(しん)…… 先ほどの鈴の反応から感じた、()()()()(ひと)しいだけの妄執(もうしゅう)

 その真意(しんい)を、確かめなければならない。


 エリオンは(ふところ)から薄緑色の封筒を取り出して、(テーブル)の上に置く。

 同時に彼は()(けっ)して、絹布の下に隠された(さえずり)(すず)諸共(もろとも)、ふたたび左手を握り込んだ。


 「オーデン殿、()()を覚えておられますか?」


※ 指貫ゆびぬき・シンブル・Thimble

 洋裁ようさい裁縫さいほう道具どうぐで、中指の指先に装着して使います。

 指輪型のものと指先に嵌めるキャップ型の2タイプがあり、さえずりすずはキャップ型の指貫ゆびぬきをもとに作られた魔道具です。


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