ピアルノー氏の義妹Ⅰ
「ア゛ァ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁあ゛!!!!」
「「アーロン!」」
咄嗟にリアンノンがグラスの中身をアーロンに打ち撒けた。
が、炎は一層燃え上がる。
エリオンは掛けてあった厚手の外套を掴むと、火煙に巻かれてヨロヨロと歩く兄に覆い被せた。
視界を塞がれてそのまま躓いたアーロンを何とか受け止め、側に置いてあった花瓶の中身を注ぎ、濡れた外套越しに兄から立ち上る焔を押し叩いた。
「何でもいい 水を!」
エリオンの遣り様を見たリアンノンも 家具に敷いてあった絨毯をアーロンに覆い被せると、水差し片手に息子の消火に加わった。
「誰か! 来てくれ! 早く!」
◇◇◇
間も無く、領主室に執事と衛士達が慌ただしく入って来た。
エリオンは彼等に医者を連れて来るよう指示を出し、次いで、侍従と女給達にも湯を沸かしてから医者の指示に従う様に、と告げた。
その時点ですっかり火は消えていたが、アーロンはその場に倒れたまま動かない。
リアンノンが懸命に声を掛けるも反応は無く、外套の下で力無く上下する胸部の動きから、辛うじて呼吸をしている事が見て取れた。
◇◇◇
子爵邸付きの医官とリアンノン・アンダマンに伴われ運ばれて行くアーロンを寝室まで見送ってから、無惨に荒れた領主室に戻り、改めてその惨状を見渡す。
……何故、いや 何が起こった?
混乱と失望で茫然と立ち尽くしそうになる気持ちに流されまいと、エリオンは無理繰り思考を働かせた。
考えろ。 突然燃えたのは、あの封筒だ。
アーロンが刃を入れた途端に発火した。 そう見えた。
その数迅前 私が手に持っていた便箋が先に燃え上がった。
……共通しているのは紙だ。 あの珍しい、緑色の植物紙。
考えながら漫然と視線を動かしていたエリオンは ふと、視界の端に白い物を捉えた。
近寄って 手に取る。
水を吸ってひしゃげているものの、それは 先程の便箋に使われていた植物紙と同じ紙に見えた。
「一体どこから……? 」
左右の角をつまむ様にして広げ、隅々まで検めた。
どう見てもただの紙 無地の紙だ。
しかし これも手掛かりになるかも知れない。
濡れた紙を元に戻すには、凹凸の無い平板に置き、広げて乾かす必要がある。
「誰か、近くにいるか?」
エリオンが声を上げた直後、両手で持っている濡れそぼった紙の表面にプツプツと無数の黒点が浮かんだ。
それに続く様に繊維の焼ける匂いが立ち上ると、エリオンは反射的に指を放していた。
べちゃっと音を立てて床に落ちた後、黒い部分はじわじわと全体に広がり、最後には紙の形をしたびしょ濡れの煤だけが残された。
「……何なんだ! こいつは!」
先刻まで酒杯を片手に、母と兄と談笑していた。
この場所で、二人の無事の帰還を喜んで。
家族揃っての晩餐を前に、穏やかな時間が流れていた。
兄に封筒を渡した自分を殴り倒してやりたい、そんな気持ちが無い混ぜになって、エリオン自身を苛んだ。
証人から渡された封筒?
これは一体何だ?
嵌められた?
誰に?
オーデン
「畜生共がぁあ!!」
エリオンが足下の煤の塊を力任せに蹴り飛ばす。
それは無数の黒い飛沫となって、領主室の漆喰壁に叩きつけられた。
◇◇◇
「失礼します」
領主室で呆然と立ち尽くしていたエリオンの入室許可を待たず、二人の人物が入って来た。
それは レナートとスヴェンセンだった。
「……レナート、ナヴィラク・オーデンとウィル・オーデンについて、徹底的に調べてくれ。
南領に基盤を置く元法衣貴族で、ピアルノー叔父上の遺産分割協議の証人に指名された人物と、その又甥だ」
「承知しました。 何が起こったんですか?」
至って平静に振る舞う二人の表情には、異様な様相のエリオンを心配する気持ちが滲んでいた。
「彼等から、証人から受け取った書状が発火し、アーロンが……
領主が負傷した」
そう、最早 オーデン一族を信用する事は出来ない。
これは何らかの魔術絡みの罠に違い無い。
……魔術。
「……ネコは? まだ戻っていないのか?」
「いる」
レナートとスヴェンセンの間から声がした。
二人が左右に身を避けると、そこに女性が一人立っていた。
◆◆◆
尖った耳 大きな目をした女性
身体に作り合わせた 軽やかな装い
手と踝と頭以外 顎下まで隠れている
傷も黒子も皺もない肌
白味がかった赤金色の瞳と頭髪
眉と睫
◆◆◆
「ネコ お帰り。
早速で悪いが、アーロンの容体を見て欲しい。
魔術で攻撃された可能性があるんだ」
「おけ」
「宜しく頼む」
この女性 ネコは、エルフだ。
どういう訳か二音以上の言葉は喋らない。
エリオンがイズーダン領内に築いている密偵網最古参の一人だが、困ったことにその職務に対する熱意は高いとは云えない。
しかし、神代を生きたとされる星明の民に属する彼女の、神秘と魔術への造詣はエリオンの知る限り余人の追随を許さない水準にある。
「……」
「どうした?」
ネコは人差し指でエリオンを指してから、その指先を横に逸らしてクルリと円を描いた。
会話の代わりに、彼女はしばしば身振り手振りで意思疎通を図ってくる。
この仕草が意味するのは〝後ろを向け〟だ。
そこで、エリオンの視界にレナートとスヴェンセンの顔が入った。
彼らは揃って驚愕の表情を浮かべ、その視線はエリオンの背後に釘付けになっていた。
振り向いたエリオンが目にしたのは、思いも依らない奇怪な現象であった。
◇◇◇
漆喰の壁。
真白の背景に散った無数の黒い飛沫。
エリオンが先ほど蹴り飛ばした煤灰の成れの果て。
その一つ一つが腐肉に群がる蛆虫の如く蠢いている。
壁、床、天井と、飛び散った先のあらゆる場所で動き回っていた群は、導かれる様に一点に向かって徐々に集合し、やがて一つの塊になると、突如停止して、その場に力無く広がった。
そこに残されていたのは、あの 緑色の便箋であった。
◇◇◇
目の前で燃え尽き、たった今煤から再生した植物紙。
これこそが最初に燃えた一枚……エリオンが手に取ったあの便箋だったのだ。
触れるだけで即時発火し、燃え尽きると再生する。
それを繰り返す。 何度でも、何度でも。
触れるものが居なくなるまで。
エリオンの脳裏に、燃え盛るイズーダン子爵邸が浮かんだ。
そこに込められた意図を認識した瞬間、言い様の無い憎悪が押し寄せた。
「エリ!」
「ン゛ッ」
ネコが背中に体当たりして来た。
彼女はエリオンの肩を両手で掴むと力任せに引き寄せ、彼と目を合わせながら頭を左右に振った。
その荒っぽい気遣いは、抑え難い怒りに支配されそうになった彼の気持ちを、不思議と落ち着かせてくれた。
そうだ。 今は考え込む時ではない。
「……ネコ、ありがとう。 ここはもう良いからアーロンを診に行って欲しい。
母さんも一緒にいるが、問題無いか?」
「ない」
そう答えるや、軽やかな足取りで領主室を出て行った。
エリオンは領主室の一角、アーロンが伏していた場所に向かうと、水浸しになった絨毯をひっくり返した。
思った通り、そこには植物紙の封筒があった。
あの時に一度燃え上がり、その後に再生したのだろう。
つまり、アーロンを燃やしたのが、この封筒。
……この植物紙が、触れた相手を巻き込みながら己を焼き、燃え尽きた後に再生するとするならば、直接触らなければ如何なる?
エリオンは領主室の暖炉傍に置いてあった薪用の螯を手に取って、それで封筒を摘み上げた。
そこからゆっくりと動かしてみたが、燃える事は無い。
そのまま長机に置いてあった、銀製の盆の上に移す。
燃えない。
最後に、床に落ちたままとなっていた便箋を摘んでその上に置いた。
エリオンは暫らく便箋を観察していたが やはり燃焼している様子は無かった。
よし。
「レナート、スヴェンセン。
この植物紙には何らかの悪意ある魔術が込められている。
私が戻るまで、この紙と封筒を誰も触ることがない様に見張ってくれ。 領主室には、誰も入れるな」
「合点」
スヴェンセンが言った。
「それから ……ここ領主室に、他にも罠が仕掛けられている前提で動いてくれ。
直ぐに戻るから、それまではくれぐれも慎重に行動して欲しい」
「くれぐれも慎重に……そりゃつまりいつもの 観察して、探って、見逃すな……ってやつですか?」
「ははっ。 符牒じゃ無いよ。 文字通りの意味だ」
スヴェンセンの揚げ足取りに、エリオンが笑った。
それを受けて彼女も口角を上げ、静かに頷く。
二人のやり取りを見ていたレナートもエリオンと目が合うとニコリと笑い、仰せの通りに、と言って軽く首を下げた
◇◇◇
イズーダン領主の屋敷は、未だに慌ただしく騒めいていた。
エリオン・アンダマンは通り掛かる先々で細かな指示を出し、自身の不安を押し殺しつつ、困惑した使用人達を安心させる為に心を砕いた。
◇◇◇
アーロン・アンダマンの寝室にエリオンが入室した時、医官は既に部屋を離れており、リアンノン・アンダマンとネコだけがその場にいた。
リアンノンは部屋の中央にある天蓋付きベッドの横に置かれた椅子に腰掛けて、寄り添うように息子の様子をじっと見守っていた。
ベッドには全身を包帯で巻かれたアーロン・アンダマンが横たえられている。
ゆっくりと上下動するその胸元の動きから、深く眠っている事が分かる。
「火傷の程度は、見た目ほど深刻じゃ無いそうよ。
医者は私たちの対応が良かったと言っていたわ」
気丈に振る舞っているが、その相貌は憔悴しきっていた。
突然の緊急事態が一段落してから、束の間訪れた静寂の中、眠る兄の傍で 母は何を思っていたのだろう。
「……母さん すまない。 確認不足だった。
……私の所為だ」
私の落ち度で、兄さんがこんな目に遭う道理は無い。
忙しさにかまけて後回しにしていた事柄が、今日、目の前に落ちて来た。
思いもよらない 最悪の形で。
リアンノンは少し驚いた顔をしてから、皮肉っぽく言った。
「じゃあ、あなたが開封して、アーロンの身代わりになるべきだった?」
その言葉に エリオンは無言で項垂れることしか出来なかった。
「……それとも 私か……使用人の誰かかしら?」
リアンノンはそう言って立ち上がると、何も言えずに俯いていたエリオンの手を取った。
顔を上げたエリオンの目に映ったのは、涙で歪んだ瞳で彼を見つめる 母親の顔だった。
「あなたの所為じゃない。 もっとずっと、恐ろしい事になる可能性も有ったわ。
アーロンは生きている。 今はそれで充分よ」
そう言って、息子を優しく抱き寄せた。




