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月曜日の朝が来た。
目覚ましを止め軽く伸びをしてから布団を出て顔を洗う。
化粧水を塗って蒸しタオルとパックを経由してさらに別の化粧水を手で軽く温めてから丁寧に浸透させていく。
丁寧に、丁寧にと心の中で唱えながら肌の手入れを終えるとタイミングよくチャイムが鳴る。
玄関を開けると今日もポンチョのようなコートを着て青いフレームの眼鏡をかけたココノがにこやかに立っている。
「おはようございます、栗田さん」
「おはようございます。いつもながらタイミングばっちりですね」
ココノは部屋に上がりながら私の顔をじっと見る。
「綺麗にお手入れ出来ていますね!では化粧をしていきましょうか」
「お願いします」
にっこりと満足そうに笑うココノを見て私はほっとしていつも通り机の前に座った。
「慣れてくるとおろそかになっていってしまうので丁寧に!を忘れないで下さいね」
「はい」
「あと髪の毛のお手入れに関してですが…」
ココノは手を動かしながら私へのアドバイスも同時にしていく。
それを私は真剣に聞いた。
アドバイス通りにすると綺麗になるのは実証済みだからだ。
「栗田さん今週末のご予定はいかがですか?」
アドバイスが一段落するとココノがそう問いかけてきた。
「恥ずかしながら今週も予定はないんです」
「動かないで下さい!今はダメです!」
「す、すみません…」
予定がないことの気恥ずかしさから思わず俯いてしまったためココノから怒られてしまった。
「でしたら今週末はお母様と映画に行かれてはいかがですか?」
「母とですか?」
化粧を終えたのかココノは私から少し距離を置いて顔全体を眺めると満足そうに頷く。
それから鞄を手に取ると見覚えのある細長い封筒を取り出した。
「実は割引券がまだまだあるのですが今週末は私用がありまして。確か栗田さんはお母様が退院されてからまだ会いに行かれてませんよね?」
「そう、ですね」
母の退院には立ち会ったが兄夫婦が同居している実家には近寄り難く、仕事を理由に引っ越しの手伝いもしなかった。
特に連絡もないからきっと同居も上手く行っているのだろう。
「軽度とは言えお母様は介助が必要ですし、お母様もお義姉さんもお互いに気を使ってなかなかお出かけ出来ていないと思うんですよ。それにお義姉さんもたまにはお母様抜きでのんびりしたいでしょうし…。なので栗田さんがお母様をお出かけに連れて行ってはいかがかなと思ったんです」
ココノは封筒を振って見せる。
「それに映画でしたら負担も少ないでしょうし、割引券もありますので」
栗田さんさえ良ければですけど、と言ってココノは問いかけるように首を傾げる。
私はココノの言葉に衝撃を受けていた。
兄夫婦の心配どころか母の心配すら今の今までしていなかった自分に気がついたからだ。
他人であるココノの方が私の家族のことについて考えていたという事実に愕然とする。
「やっぱり連続で映画は嫌でしたか?」
私が何も言わないため不安になったココノがそう言って封筒を持つ手を下ろした。
「いえいえいえ!映画は好きなので何の問題もないです!今でしたら母の好きな俳優の出演してるサスペンスがやっていた気がするのでそれを見に行きますね!ありがとうございます!」
早口で否定をしてココノから封筒を受け取るとココノは嬉しそうに笑った。
「良かった!映画楽しんできて下さいね!」
「…はい!」
にこやかに笑うココノに私も笑顔を返す。
「そうだ!栗田さんそろそろ会社の男性からお食事に誘われるかもしれませんが出来ればお断りしたほうがいいですよ」
私はココノの発言にキョトンとする。
「断るときは、ようやく仕事に慣れて来たところなので今はまだちょっと…。また今度私から誘いますねと残念そうに言えばあまり角も立たないでしょう」
「え?なんでですか?」
食事に誘われるという発言にもそれを断れと言うことにも疑問を抱いた私は首を傾げながら問いかける。
「まだ時期ではないという感じですかね。まぁ、誘われた時に栗田さんがどうしても一緒に食事に行ってみたい!と思った方でしたらご一緒してもいいとは思いますけど」
あくまで食事に誘われる事が前提の話に私は内心でさらに首を傾げる。
「そろそろ時間ですね。では私はこれで」
詳しく話を聞こうとしたがココノはそう言うとさっさと帰ってしまった。
時計を見ると家を出る時間がだいぶ近づいていた。
私は改めて身支度を整えると会社へと向かった。
現在、仕事では主に紙ベースの書類の分別を行っている。
在庫関係はほぼ完璧と行っていいほどになり、ちょっとした時間に掃除もするようになったので地下倉庫は少しだが綺麗になってきていた。
誰も居ないため鼻歌交じりに仕事をする。
お昼休憩の時間にココノとの会話を思い出した私は義姉に今週末の予定と予定が無ければ母と出かけたいと言う旨を連絡をした。
義姉からは翌日「お好きにどうぞ」というそっけない文面が返ってきた。
義姉は明るくにぎやかな人という印象があったためこの文面には少し驚いたが深く考える事はなかった。
なぜならココノの言う通り会社の男性が食事に誘ってきたからだ。
備品を取りに来た時に「夜2人で一緒に食事でも行きませんか」と聞かれたのだ。
ランチであれば友人の範囲であるし、飲みに誘われたのであれば他にも誰か居るのだろうと思う。
だが、誘われたのはディナーだ。
しかも2人でという言葉付き。
これはデートのお誘いなのではと私の心は浮ついた。
しかし、どうしても行きたいと思うほどではなかったので、私はココノの言う通り仕事を理由に丁寧にお断りをした。
その事をココノに報告するとココノは頷きながら「そろそろだと思ってました」と言って眼鏡を軽く触るだけだった。
週末になり、母と出かけるために肌の手入れをしているとチャイムがなった。
玄関を開けるとココノが立っていた。
「おはようございます、栗田さん」
「おはようございます。あれココノさん今日は予定があるはずじゃ」
「はい、ですが朝はゆとりがありますので。栗田さんのメイク指導に来ました」
ココノは私の許可をもらうことなく部屋に上がりながらそう言った。
そしていつもの定位置に座ると急かすようにこちらを見る。
私は慌てて机の前に座ると化粧を開始した。
何度かダメ出しを受けつつも前回よりは早く仕上げることに成功した私の顔をココノはまじまじと見る。
「…いい感じですね。今後は平日もご自分で化粧まで仕上げましょうか」
「えぇ!?」
ココノの発言に私は思わず叫ぶ。
月曜日の朝、化粧が間に合わなくてパニックになる私がまざまざと見える。
「化粧も慣れですからね。大丈夫です、今日みたいにちゃんとそばに居ますので」
「ほんとですか!良かったー」
ほっとして私はため息を吐いた。
「では、今日私はこれで」
ココノそう言うと見送る間もなくポンチョのようなコートの裾を翻して出ていってしまった。
いつものことなので私ももう気にする事なく身支度を整えて家を出る。
久しぶりの実家に緊張しつつ私はインターフォンを押した。
ピンポーンという音が聞こえてしばらくすると玄関が開いて義姉が出てきた。
義姉はいかにも部屋着という格好で髪も引っ詰めるようにして纏めていた。
「いらっしゃい、お久しぶりですね」
記憶にあるよりも老けた印象の義姉は無愛想にそう言った。
「はい、お久しぶりです。えーと、お元気ですか?」
「えぇ、とっても。すぐに出かけるんですか?それとも一度上がっていかれるんですか?」
「…おじゃまします」
「どうぞ」
義姉の勢いに気圧されながら私は玄関に入ると靴を脱ぐ。
何か気に触るようなことでもしたのかと考えるが何も思い浮かばなかった。
靴を揃えている時にふと自分の手元が目に入る。
「あ、そうだ!これお土産になります。お義姉さんシュークリーム好きでしたよね」
持っていた紙袋を手渡すが義姉はさらに不愉快そうな表情になった。
「ありがとうございます」
喜んで貰えると思っていたのだが、逆に嫌な顔をされてしまったたので私は落ち込んだ。
「…いいご身分ですね」
「え?」
義姉の声は小さくて聞き取れなかったので私は振り返って義姉の目を見た。
義姉は目を逸しながらボソボソと呟くように話す。
「たまーに来るだけで皆から褒められていいご身分だなーって。私は毎日毎日お義母さんと一緒でなかなか気が休まらないし。退院の手続きや通院に付き合ってるのも、ご近所さん付き合いとかそういった面倒なところは全部私がやっているのに。思い出したように遊びに誘ってきて。そんな気楽なもので手放しで褒められるなんていいですね」
私は驚いて目を見開いた。
てっきり同居は上手く行っていると思っていたのだが、そうではなかったのだろうか。
「引っ越しだってあなたの実家なのに掃除から整理まで全部私がやったのに。手伝いどころか連絡も寄越さないし。今更、悩みなんてなさそうな顔してのこのこ来るなんて」
シュークリームの入った紙袋を持ったまま義姉は床を眺めている。
兄の嘘つき、上手く行ってないではないか。
このままでは離婚案件だと思うぞ、主に私のせいで。
「ご、ごめんなさい。謝って済むことではないんですけどちょっと、えと、仕事が…忙しくて…。その…」
何か言わなければと思うのだが言葉のすべてが言い訳がましくなってしまう。
「いいのよ、そんな綺麗な格好出来るほど私生活が上手く行っている人には関係のない話だったわね」
義姉はそう言うと鼻を鳴らして踵を返した。
「あ、待って下さい」
私は慌てて義姉を引き止めた。
今話さなければもう義姉とは話せなくなってしまうような気がした。
「わ、私…彼氏と別れたんです!」
「…は?」
私の言葉に面食らった表情で義姉はこちらを見た。
「か、彼が…その、私の職場の先輩と浮気してて…」
視線を彷徨わせながらも私は続ける。
「最初は言い訳してたのに、最後には我儘なお前とは付き合ってられない、みたいに言われてしまって」
義姉を見ると義姉は唖然としたまま、ものすごい勢いでまばたきをしていた。
「向こうが悪いのに、私のほうが悪いみたいな言い方でして。仕事では先輩が上手く立ち回ったからか、なんていうんですかね。窓際職?みたいなのになってしまって」
はは、と乾いた笑いを漏らす。
「そんな時に母が倒れてしまって、その…ごめんなさい。キャパオーバーで現実を見ないようにしてたんです。最近ようやく現実が見れるようになって来て、遅いかもしれませんがこうして来た次第です」
口の端を上げて笑って見せるも義姉は相変わらずまばたきを繰り返すばかりだ。
「今後はちゃんとお義姉さんを助けるつもりです。あと、兄も母も私は上手くやってると思ってるので。本当に失礼ですがこの事言わないで貰えると助かります」
そう言って頭を下げた。
「何してんのー?」
「あ、なんでも無いの。今戻ります」
廊下の向こうから兄の声がして義姉が返事をした。
「奈々ちゃんがシュークリームくれたからあとでコーヒーと一緒に食べましょう!」
義姉はそう廊下の向こうへ言うと私の方へ向き直った。
「…事情は分かったけど納得は出来ないの」
義姉は眉間にシワを寄せてそう言った。
「でもシュークリームありがとう」
眉間のシワを伸ばして義姉はほんのりと笑った。
「はい!」
本日初めての義姉の笑顔に私はテンション高く返事をした。
「今後はたくさん連絡下さい!相談とかたくさん乗りますし、休日とかほとんど暇なので土日で兄とプチ旅行とか行って来て下さいよ。温泉とか!あ、良ければ平日こっち来て家事とか手伝いますよ?むしろ私も同居しましょうか」
調子に乗って話していると義姉は盛大に顔をしかめて「小姑まで居たら私ストレスで死ぬわ」と言ったので私は慌てて冗談だと言った。