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玄関のチャイムが鳴って私は飛び起きた。
私は慌てて玄関へと向かい扉を開ける。
「ココノさん!ごめんなさい今起きました!これから顔を洗ってくるので中で待っていて下さい!」
やや早口でそうまくしたてる。
玄関の前にはいつものコートを着た青縁眼鏡の女性、ココノが驚いた表情で立っている。
私は顔を洗うために急いで洗面所へと向かう。
「栗田さん、突然来てしまって申し訳ありません。今日は土曜日なので急がなくて大丈夫ですよ」
後ろからかけられて声に私は驚いて止まる。
時計を見るといつもであれば電車に乗っているような時間だった。
「お休みなのですがご予定はいかがでしょう?」
振り返ると玄関先で困ったように笑うココノと目が合った。
私も苦い気持ちで笑い返す。
「いえ、特に予定はないので。立ち話もあれなのでどうぞ上がって下さい」
「では遠慮なく」
私がそう言うとココノは慣れた様子で部屋へと上がってくる。
よく見れば今日はいつものボストンバッグのほかに紙袋を持っていた。
「今日はどうしたんですか?」
私は目をこすりながら聞いた。
眠気はもうどこかへ行ってしまったが、なんとなくまだ眠たい気分だ。
「本日は栗田さんに化粧と普段の手入れに関しての指導をさせてもらおうと思いやってきました」
「指導?」
「はい、今までは時間がなかったので私が行っておりましただご自分で出来た方が便利でしょう?」
「そうですけども」
私はココノの魔法のような手際を思い出す。
正直出来る気はしなかった。
そんな私の不安を読み取ったのかココノは優しく笑いかけてくる。
「大丈夫ですよ、お仕事の調子もだいぶ良くなっているのでしょう?」
「はい!そうなんですよ!在庫もだいぶ綺麗にまとまってきましたし、書類もココノさんの助言の通り捨てるところから始めたみるみるはかどっていって」
「それは良かったです」
ココノはそう言うと持っていた紙袋を机の上に置く。
「朝食を買ってきたのでご一緒しませんか?」
紙袋の中からは美味しそうなベーグルサンドとコーヒーが出てきた。
「わぁ、おいしそう!」
部屋にふわりと漂うコーヒーいい香りに思わず頬を緩めた。
「その前に洗顔と簡単なお手入れです。こちらも今日は説明させてもらいますので今後は出来るようにしてくださいね」
笑顔でココノはボストンバッグから化粧水やらコットンやらを取り出して並べる。
私は名残惜しくコーヒーを眺めながら洗面所へと向かった。
その後、机の上に並べられた化粧水類の使い方を学びつつ使っていく。
「これで終わりです。朝食を食べたら次はお化粧ですね」
化粧水を机からどかすと私はココノと一緒にベーグルサンドを食べた。
ベーグルサンドには厚切りのアボカドと薄切りのベーコンが挟まれており、こんがりと焼かれた玉ねぎの甘みとシャキシャキのレタス、さっぱりとしたヨーグルトソースが絶妙に絡み合うものだった。
大きな口を開けて中身をこぼさないようにかぶりつく。
「おいしいー!」
笑顔でそう言うとココノも食べながら頷いた。
コーヒーは少し冷めてしまっていたがむしろ猫舌の私にとっては飲みやすいくらいだった。
食べ終えるとココノは紙袋にゴミを纏めて机にスペースを作ると今度は化粧品類を並べていく。
「今日はこれらを使い栗田さんが自分で化粧をします」
「えっ!」
「化粧も慣れです、使う色なども今は私が指示しますので大丈夫ですよ」
にっこりと有無を言わせぬ笑みを浮かべたココノに私はぎこちなく頷いた。
私は幾度か簡易クレンジングも使いつつ2時間ほどかけなんとか化粧を仕上げた。
「最初にしてはいいのではないでしょうか」
出来上がりにココノも太鼓判を押してくれる。
「今後も慣れるまで練習には付き合いますので。そうそう、こちらの化粧品はすべて栗田さんに差し上げますので」
ココノの言葉に私は目を見開く。
どれも有名なデパコスで1つが三千円以上はするものばかりだ。
「だ、大丈夫なんですか」
ズラッと並べられた化粧品を見つめ、震える声でココノに尋ねる。
後で請求とかされたらものすごい金額になりそうだ。
「はい、当協会には理念に共感してくれるスポンサーがおりますので。栗田さんに請求が行くことはありませんのでご安心下さい」
笑顔でそういうココノを見て私は安心した。
「それにこれらの品はすべて栗田さん用に新しく購入していたものなんですよ」
「そ、そうなんですか?」
「はい、ですので基本的にはどの色を使っても似合うと思います」
私は並べられた様々な色合いのアイシャドウやチーク、口紅を眺める。
中には自分では絶対買わないような色もあった。
「これ本当に似合うんですか?」
私は紫色に近いカラーのアイシャドウを指差す。
「はい、栗田さんはパーソナルカラーってご存知ですか?」
「聞いたことはありますけども」
「簡単に言えばその人の似合う色の話です。栗田さんはタイプで分けるとWinterになりますね」
なんとなく頷くがいまいちピンとこない。
「Winterの方は割とくっきりとした色味が似合います。化粧品で言うならばアイラインやマスカラもブラウンより黒の方が似合いますしアイシャドウもブルー系が似合う傾向のはずですね。逆にぼやけたくすみ色系の物は似合わないと思います」
「嘘!」
ココノの言葉に思わず叫んでしまう。
今までアイラインなどの化粧品はブラウン系を選んできたし、アイシャドウもピンクやブラウン系の物を使っていた。
洋服も私自身淡い色味が好きであったし樹もふわふわとした、いかにも女の子といった色味の服を着ると喜んでいたのでややぼんやりとした色味ばかり着ていた。
愕然としながら私はクローゼットへと向かい改めて持っている洋服のチェックをする。
しかし洋服も大掃除のときにかなり捨てていたためあまり手持ちがなく参考にならなかった。
「そうそう、こちらで洋服も用意させていただきました」
そう言ってココノはボストンバッグからいくつか洋服を取り出した。
どれも私は着たことのないような色味だ。
「この程度では足りないと思いますので本日はこの後、買い物へ行きませんか?」
ココノは中身を出し切って小さくなったボストンバッグの中から細長い封筒を取り出す。
「ついでに映画に付き合って貰えると嬉しいのですが…」
封筒の中から映画の割引券を見せて、ココノははにかんだ。
私のテンションは急上昇した。
私は映画が好きだ。
恋愛物もホラー物も話題になればなんでも見る雑食で、監督にこだわりがあるタイプではない。
映画館で見るのが好きで学生時代には友人を誘ってよく見に行っていたのだが、樹は長時間座っている事が苦手なタイプだったので樹と映画を見る時は家で見ていた。
社会人になってからは友人と頻繁に出かける事も減り映画館へはあまり行かなくなっていたのだ。
「ぜひ!」
久しぶりの映画館だ。
私は何を見ようとわくわくしながらココノの用意してくれた洋服に着替えた。
電車に乗って近くの映画館の入った大きめのショッピングモールへと向かった。
ショッピングモールに着いてからはまずは買い物を楽しんだ。
私がいいなと思った洋服はことごとく却下されるか色味を変えられた。
最初は不満にも感じたが試着をしてみるとココノの見立てたものの方が圧倒的に似合っていた。
買い物の後半には私もだんだん似合う色というのが分かってきて却下される事が減った。
お金はスポンサーが払うからと言いながらココノがすべてカードで支払っていた。
まるでドラマの登場人物のようにたくさんの紙袋を持って歩くのは気持ちがいいものであったが、だんだんと手に袋の紐が食い込んで痛くなってきてしまった。
それを見越していたかのようにココノは宅配コーナーへ行くと配送の手続きをした。
身軽になったところで手近にあったパスタのお店に入り昼食を済ませると私達は映画館へと向かった。
見るものはココノとの協議の結果、話題になっている恋愛物だ。
「栗田さん、すみません私お手洗いへ行ってきていいですか?」
飲み物とポップコーンの乗った容器を持ったココノが申し訳なさそうにそう言った。
飲み物とポップコーンは例によってスポンサーが払うと言って二人分をココノが購入したものだ。
「どうぞ!私はさっきのお店で行ってきたので大丈夫です」
「ありがとうございます」
容器を受け取った私は邪魔にならないよう壁際に移動してココノを待つ。
しばらくすると肩に下げていたショルダーバッグの紐がずれてきて鞄が落ちそうになったため、私は容器をひっくり返さないように慎重に片手で持ち、ショルダーバッグの紐をあげた。
その時、容器が傾いたからか紙のような物がひらひらと落ちていくのが見えた。
よく見るとそれは映画のチケットだった。
飲み物との隙間にココノがチケットを挟んでいたの思い出して私は慌てる。
両手は塞がっているし無理に片手持ちしてしゃがむと容器をひっくり返してしまいそうだ。
映画館のお手洗いの前は人通りが多いのでこのままではどこかへチケットが飛ばされていってしまう。
私は容器を手にオロオロとチケットを追いかけた。
「あ」
せめて見失わないようにと真剣にチケットを見ていると誰かがそれを拾い上げた。
チケットを目で追うと背の高い男性が穏やかな笑みを浮かべながら私へチケットを差し出してくれる。
「どうぞ」
低く優しげな低音に思わずドキリとして私は目を瞬いた。
チケットを受け取る事もせず動かないでいる私を見て、男性は吹き出した。
「ごめん、両手が塞がっているんだったね」
くすくすと笑いながら男性はチケットを容器を持つ私の指に挟むように持たせる。
ほっそりとした長い指が私の指に触れてまたも胸がときめく。
「あ、ありがとうございます」
なんとかお礼を言うと男性は首を傾げるようにして「どういたしまして」と言った。
これで会話は終わったと思ったのだが男性は私のそばからなかなか離れない。
なにか考えるような雰囲気で私を見ているので私も男性をまじまじと見た。
髪はナチュラルな茶色でおそらく染めている。前髪は軽く眉にかかっていて、瞳は明るい茶色、ベージュのコートの似合う柔らかい雰囲気の男性だ。
「あの…」
男性の声にはっと我に返る。
お互い様とはいえ、ジロジロと見すぎただろうか。
「栗田さん…だよね?」
「えっ?」
名前を呼ばれて私はもう一度男性をよく見る。
背はやや高めでベージュの似合うややタレ目の柔らかい雰囲気の男性だ。
服装や髪型がすごく似合っていてカッコいい。
「えと…」
「あ、やっぱり栗田さん?」
私の反応から私が栗田奈々であると確信したのか男性は嬉しそうな表情になる。
「久しぶりだね。と言ってもあんまり話した事無いから覚えてないかもだけど、高校の頃一緒のクラスだった…」
「どちら様ですか?」
自己紹介をしようとしていた男性の言葉を遮るようにココノが話しかけてきた。
「遅くなって申し訳ありません、少々混んでおりまして」
ココノは申し訳なさそうに私に近づくと男性と私の間に入り私をかばうようにして立った。
ココノの身長は私より小さく、さらに今日私はヒールのある靴を履いてきていたため私はココノの頭を見下ろすような形になってしまった。
「どちら様でしょう?」
ココノはもう一度そう言うと男性を睨むように見上げる。
男性はキョトンとして私を見る。
目が合った私はなんだか面白くて思わず笑みが溢れた。
「ココノさん、こちら私の高校の頃の同級生です。えっと…」
「六条です、はじめまして」
六条は笑顔を浮かべてココノに手を差し出す。
「丁寧にありがとうございます。映画が始まってしまうので失礼しますね、栗田さん行きましょう」
ココノは六条とおざなりに握手をするとさっさと行ってしまった。
私は慌ててココノを追いかける。
振り返りつつ軽くお辞儀をすると六条は笑顔で手を小さく振ってくれた。
「ココノさん、六条さんは私が落としたチケットを拾ってくれたんです。あんな冷たい態度を取らなくても大丈夫だったんですよ」
ココノに追いついた私は軽く息を整えつつそう言う。
「そうだったのですね、質の悪いナンパにしか見えなかったもので…」
ココノは顔をしかめながら苦々しくそう言った。
その後でふと何かを思い出したようにこちらを見ると容器と私の指の間にあるチケットを取った。
「申し訳ありません、私がこんな所にチケットを挟んでおいたせいですね」
しょんぼりと効果音が付きそうなほどココノは俯いた。
「大丈夫ですよ!結果としてチケットはなくしてませんし!」
「そうですね。先程の…えーと、六条さんには悪いことをしました」
やはりココノは顔をしかめて苦いものでも噛んでいるかのような表情になる。
「もし、万が一、もう一度出会う事があればきちんと謝罪したいものです」
「そうですか」
「ですが今の栗田さんはかなり魅力的な女性となっておりますのでナンパの類にも気をつけて下さいね」
「そうですか?」
「そうです」
そんな会話をしながら映画館の中へと入り指定の席へと座る。
六条に対して苦い表情をしていたココノに疑問は残ったが映画が始まってしまえばそんな事はすっかり忘れてしまった。
映画を見終わり、ココノとは駅で別れた。
久しぶりに夕飯を作ろうかと思いながらスーパーへ向かう。
歩きながら私は高校生の頃の同級生の顔を思い浮かべていく。
しかし六条の事は思い出せなかった。
「あんなにオシャレでカッコよかったら覚えてそうだけどなー…」
小さく呟くとどこかで缶の落ちるような音が聞こえた。