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とりあえず一回死んだということにして話を聞いてくれませんかという女性の勢いに負けた私は靴履いて柵を乗り越えた。
「良かったー、戻ってきてくれて助かりました。では詳しい話をしたいので行きましょうか」
「あっ、待って!」
くるりと背を向けてしまった女性を慌てて呼び止める。
「なんで名前を知っているの?話ってなに?行くってどこへ?」
やや早口で矢継ぎ早に質問を投げかける。
背を向けていた女性は再び振り向くと私と目を合わせてきた。屋上に明かりがないからか眼鏡越しの視線がひどく冷たいものに感じて背筋がゾクリとする。
「失礼しました。私は幸福復讐推進協会のココノと言う者です。話というのはあなたの復讐についてですね」
女性、ココノはにっこりと笑みを浮かべて明るい声で言う。
先程の視線はやはり明かりが少ないためだったのだと安心すると同時に言葉の内容が理解出来ず混乱する。
「幸福、復讐…?」
「はい、幸福復讐推進協会です」
ココノはにっこりと害のない笑みを浮かべて繰り返す。
「ふ、復讐ってどういう…」
私が復讐について考えたのはつい先程、思いつきのようなものだ。
なぜココノが知っているのだろう。
私の疑問が顔に出ていたのだろう、ココノは笑みを浮かべたままゆっくりと頷いた。
「我々協会の者は常日頃より復讐をしかねない方々を把握し、観察しております。そして幸福復讐の対象であると判断した場合のみこうして対象と接触し話を持ちかけるのです」
「持ちかける?」
なんだか詐欺のような話だと私はそっと身構える。
「えぇ、幸福になりませんかという話です」
違った、詐欺ではなく宗教の類だった。
身体的にも精神的にもさっと引いた私を気にすることなくココノはにこやかに話を続ける。
「復讐は悲しいものです。こういったセリフをよく小説や映画、あるいは漫画などで見かけませんか?」
私はココノの言葉に頷きながらも退路を探す。
しかし、ココノは屋上にある唯一の出入り口を背にして立っているため屋上から出るためにはココノの横をすり抜けるかココノを押しのけるしかない。
「そうですよね、皆さん復讐が悲しく何も生まないと分かっているのです。しかし、分かっているのにいざ当事者になるとやらずには居られないのが復讐です」
もはや質の悪い宗教勧誘者にしか見えないココノは何をしてるか分からない。
なるべくココノと関わらずこの場から逃げ出そうと、私は改めて屋上を見回して非常階段を探す。
キョロキョロと明らかに不審な私を気にする事なくココノは演説でもする様に話し続ける。
「自分を不幸に貶めた人たちの不幸を望み、行動に移してしまう。それが復讐です」
残念ながら非常階段の類は見当たらず、相変わらずココノは屋上の出入り口を背に立っている。
私は途方に暮れてココノへと視線を戻した。
「ですがその復讐はたいてい成功しません」
ココノの言葉と同時に風がふく、寒さに私は身を縮ませた。
「いいですか栗田さん。今、あなたが行おうとした復讐はきっと成功しなかったでしょう」
先程まで笑みを浮かべていたはずのココノはいつの間にか表情を消して私を見ていた。
私と目が合うと屋上のヘリを指差す。
「そこから飛び降りたあなたは重症を負う、もしくは死亡するでしょう。しかしその現場を見た後藤さんと八重さんは驚きこそすれ、さしたるトラウマも抱きません」
ココノは無表情で、しかし声の調子はそのままで話を続ける。
「なぜなら彼らにとってあなたという存在はそこまで重要ではないからです」
ココノの言葉に息が詰まる。動悸がして胸が苦しくなった。
「多少の罪悪感は抱くでしょうが、それまでです。そんなものは復讐でもなんでも無いただの自殺、いえ無駄死にです」
「…っじゃあ!どうしたらいいのよ!」
きっぱりと言い切るココノを思わず怒鳴りつけた。
「私だって、必死に頑張ってたのに!もう、なにをしても報われないのにアイツらだけが幸せになってるなんて我慢できない!」
私は膝から崩れ落ちた。もはや、ココノから逃げる気力もなかった。
目頭が熱くなって涙がこぼれそうになる。
「ですから幸福になるんです」
座り込む私にココノが近づいてくる。
「彼らより幸福になって、あなた達のおかげで今はとっても幸せですと笑って見せるんです」
ココノはしゃがみ込み、私の両手を取った。冷えきった私の両手にココノの体温が移る。
「栗田さんは幸福復讐の対象です。ですから私がこうして会いにきたのです」
温かいココノの体温に耐えていた涙がこぼれた。ココノはさらに手を強く握ると笑顔になる。
「幸せになることこそが一番の復讐。それが当協会の理念です、栗田さん幸福になりましょう」
私はココノの言葉にゆっくりと頷いた。
私が頷くのを確認するとココノはさっと立ち上がり私のことも無理やり立たせた。
「そうとなったらすぐに移動しましょう!ちなみこれから行く場所は私の部屋です」
そう言うとココノはまるで舞台役者のように大げさに両手を広げた。
「屋上は寒いですからね、詳しい話は温かい部屋でしましょう!」
いたずらっぽく笑うココノにつられて私も笑う。
ココノが怪しいと思う気持ちは消えて居なかったが、話くらい聞いてもいいという気持ちの方が大きくなっていた。
屋上から出るとココノはコートのポケットから鍵を取り出して屋上の扉を施錠した。
がちゃん、という音が階下まで響いていく。
階段を降りて8階のフロアに戻るとココノはまっすぐエレベーターホールへと向かいエレベーターのボタンを押した。
ちょうど8階で止まっていたのか軽快な音と共にエレベーターの扉が開く。
エレベーターに乗り込んだココノは5階のボタンを押した。
「え?なんで?」
思わず出た声にココノが不思議そうにこちらを見る。
「どうしました?」
「あ、いえ5階に住んでいるんですか?」
「えぇ、そうですね」
ココノの穏やかな笑みを見ながら私は複雑な気分になった。
5階は樹の住んでいるフロアだ。
「あの、やっぱり私」
樹たちと鉢合わせてしまうかもしれないと考えると怖くなり、やはり話を聞くのを断ろうとした瞬間にエレベーターが5階についてしまった。
エレベーターから降りるココノに思わず私も一緒に降りてしまう。
慌てて私はココノに呼びかけた。
「ココノさん!あの、私やっぱり…」
「こっちですよ、栗田さん」
見るとココノはすでに玄関を開けて私を手招きしている。
胃のあたりが痛くなった。
何故寄りにも寄って樹の部屋の隣なのだろう。
「どうしたんです?そんなところで立ち止まっていたら他の方に迷惑ですよ?」
ココノの言葉にはっとして振り返るがそこには誰も居なかった。
ここまで来てしまった以上は下手に戻るよりも一度ココノの部屋で過ごした方がいいだろうと思い私は覚悟を決めた。
「おじゃまします…」
「おじゃまされますー」
玄関の扉を開けてくれているココノの前を通り抜けて靴を脱ぐ。
玄関から先は軽い廊下のようになっており左手側に台所、右手側には2つ扉が並ぶ。
隣の部屋だからなのか樹の部屋とは鏡合わせのうような構造になっているため、おそらく2つの扉はお手洗いと洗面所だろうと予想する。
後ろで扉と鍵の閉まる音が聞こえて、私は思わずびくりとした。
密室にされたという事実に猜疑心が再び頭を上げる。
「あ、栗田さんちょっとそこで待っててください」
後ろに居たココノがそう言いながら私の横をすり抜けて、2つある扉の1つを開けて入っていく。おそらく洗面所だろう。
今のうちに逃げてしまおうと玄関の方を向いた時、ココノが戻ってきた。
「おまたせしました。栗田さん先程屋上で素足になってましたよね?汚れていると思いますので、すみませんがこちらのタオルで軽く足を拭いてください」
「あ、はい…」
渡されたのは軽く湿らせているタオルだった。
確かに先程、綺麗とは言い難い場所に直接立っていたため足が汚れていた。
少し気が引けたがタオルを使わせてもらう。軽く拭っただけだったのだが、タオルは真っ黒になってしまった。
「ごめんなさい、タオル結構汚してしまいました」
「お構いなく!良ければ靴の中も軽く拭いてはいかがですか?」
ココノは笑顔でそう言うと奥の部屋へと向かっていく。
「いえ、さすがにそれは」
「いえいえ、廃棄予定の雑巾のようなタオルなので本当に遠慮しなくて大丈夫ですよ」
「それなら、お言葉に甘えて…」
私は履いていたパンプスの中も軽くタオルで拭うと改めて立ち上がる。
「ココノさん、あのタオルはどうしたらいいですか」
「拭き終わったんですね。そうしましたらこちらへどうぞ」
奥の部屋の方からココノの声がした。
私は汚れたタオルを手に廊下を抜けて扉を開ける。
「わぁ…」
部屋を見た私は思わず目を丸くした。
「広い…」
「そうですか?一人暮らし用の普通のワンルームなのですが…」
私の呟きにココノが首をかしげる。
「いえ、その…。広く感じるといいますか」
ココノの部屋には驚くほど物がなかった。
部屋にはシンプルな机とベッドが置いてあるだけでテレビや時計すらなく、床もカーペットなどは敷いておらずむき出しのフローリングだった。
大掃除をした私の家でももう少し物があると感じるほどだ。
「物が少ないからでしょうかね」
こともなげにそう言うとココノは私の手に持っていたタオルを回収した。
そして、ベッドの下についていた収納部分を開けてパステルカラーのマカロンクッションを出した。
「こちらをどうぞ、空調はついてますがフローリングに直接座るのは痛いでしょうから」
「え、えぇ。ありがとうございます」
私はマカロンクッションを受け取ると机のそばに置いてその上にそっと座る。
ふわふわとした座り心地が落ち着かない。
「コートも脱いでくつろいでいて下さい。今、お茶を淹れますので」
自身もコートを脱ぎながらココノはそう勧めてきた。
私もコートを脱ぐとココノはコートをさり気なく受け取ってハンガーにかけるとカーテンレールへとかけた。
そして再びベッド下の収納を開けると今度は大きなショールを取り出して肩にポンチョのように巻き、お茶を淹れるために部屋から出ていってしまった。
手持ち無沙汰になった私はキョロキョロと部屋を見渡す。
見渡したところで部屋にはベッドと机しかない。
そしてカーテンもベッドカバーもモノトーンで統一されており、唯一の家具である机も黒い。
ミニマリストで潔癖症なのだろうか。
清潔で塵一つ無い空間の中、私は柔らかすぎるクッションの上に居心地悪く座り直した。
「お待たせしました」
しばらくするとお盆を持ったココノが部屋に戻ってきた。
お盆の上には湯気の出ているマグカップが2つと小さめのお皿が1つ。
お皿にはチョコレートが盛られていた。
「温かいうちにどうぞ」
そう言いながらココノは私の目の前にマグカップを置いた。
シンプルな白のマグカップを覗き込むと思ったよりも赤く透き通った液体が入っており、湯気からは優しい香りが漂ってきた。
「ローズヒップです。私ハーブティーが好きなので。お口に合わなければ別のものを淹れますので遠慮なく言ってくださいね」
そっとマグカップを持ち上げて一口飲むと普通の紅茶よりも酸っぱかった。
しかし、不味いと言うわけでもない。
冷えていた体に温かい物が染み渡る感覚に私はほっと息を吐いた。
「チョコレートもどうぞ」
勧められるままにチョコレートへと手を伸ばし、口にする。
口に含むとチョコレートは体温で溶けてきた。
溶けたチョコレートはカカオの香り強くしていき、口の中をほろ苦く染めていく。軽く噛むと中のガナッシュがふわりと溶け出てほのかな洋酒の香りと甘さがカカオの苦味を上書きしていく。もう一度噛むと練り込まれていたオレンジピールが爽やかな香りを放ちチョコレートは溶けて無くなっていった。
「美味しい」
私はうっとりとチョコレートの美味しさを噛み締めた。
「良かったです、バレンタインの余り物で申し訳ないのですが」
「いえ!とんでもない!このチョコすごい美味しいです!どこのですか?」
美味しいチョコレートにテンションの上がった私はそうココノに質問した。
しかし、ココノが教えてくれたチョコレートのブランドを聞いた私の気分は急降下する。
そのブランドは私が樹にいつもあげていたものだったからだ。
しばらくは口にすることがないだろうと思っていたブランドのチョコレートをこんなに早く口にするとは思わなかった。
ついでのようにバレンタインの出来事を思い出してしまい、俯いてお茶をすする。
優しい香りのするお茶が体も心も温めてくれるようだった。
「気分も落ち着いて来たでしょうし、お話を始めましょうか」
ココノは自分のマグカップを持ち上げながらそう言った。
湯気で曇ったココノの眼鏡を見るともなしに見る。
屋上では暗くて分からなかったが、ココノの眼鏡のフレームは鮮やかな青色をしていた。