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人間の理想的な睡眠時間は8時間らしい。
だが、日本人の平均睡眠時間は6時間と理想よりも2時間も少ない。日本は夜でも休む事なく働くし、夜でも遊べる場所がたくさんあるからだ。
24時間営業のコンビニに24時間営業のスーパーやカラオケ店。
そういったものがあるから日本列島は夜、宇宙からは輝いて見える。
そんな時代なのに私の睡眠時間は1日10時間を超える。
まどろんでいる時間を足すと17時間は寝ている。
朝は出社時間ギリギリまで布団で過ごし最低限の化粧をして会社へ行く。そして会社につくとデスクに座り、就業時間までウトウトとまどろむ。定時になると真っ直ぐ家へと帰りお風呂に入り、身支度を整えてすぐに就寝。
移動などで動いている時間以外はほとんど寝ている日々を過ごしていたが、不思議と私は寝れないということがなかった。
いっそこのまま溶けて居なくなれたらいいのにと思いながら眠りにつく。
土日になると布団から一歩も出ないこともあった。
空腹も寝てしまえばなんてことはないため、枕元に水分の入ったペットボトルを置いて目が覚めてしまった時にはそれを飲んでまた寝る。
現実逃避だというのは分かっていた。
やらなければならない事や、やったらいい事は分かっている。しかし、それらから目をそらす事が楽だったので私は目をそらして眠る日々を過ごす。
いつものように会社のデスクでまどろんでいると、今まで一度も鳴ることのなかった社内電話が鳴った。
いきなりの大きな音にびっくりした後この電話はこんな音で鳴るのかと、音の原因を確認してそう思った。思わずまじまじと電話を見たところで私は慌てて受話器を取った。
「はい、地下倉庫です」
「あぁ、栗田さん?どう?作業は進んでいる?」
電話の主は以前私を呼び出し、移動の件を告げてきた上司だった。
「あ、えぇと。まだまだという感じです」
「そうか、大変だとは思うけどがんばって。あと近々そっちの様子を見に行くから」
上司のその言葉に私の心臓は縮み上がった。
様子を見に来る?この倉庫を?
私はそっと横目で散らかり放題の倉庫を確認する。
「え、あのいつごろ来られ…」
「それより体調とか大丈夫?地下は薄暗いからね、気が滅入る前にリフレッシュしないと体調も悪くなるよ」
「あと、それは大丈夫なのですけど」
「そう、それなら良かった。じゃ、また連絡するから」
「えっ、あの」
せめていつ頃来るのか確認しようとした私の言葉を遮るように上司は話すと、あっという間に通話を切ってしまった。
縮み上がった心臓が激しく動いて動悸と息切れがした。
クビという単語が頭を過る。
「どうしよう…」
転職活動もしていないし、実家に頼ることの出来ない今、会社をクビになってしまうと本当に露頭に迷ってしまう。
「どうしよう!」
叫ぶように呟く。
焦るのは気持ちだけで私は結局なにもすることなく定時を迎えた。
こみ上げて来るような気持ち悪さを飲み込むつつ、帰り支度をして外に出た。
だいぶ暖かくなってきたものの、まだ冷たい空気に包まれて私は途方に暮れる。
「いっそ死ねたらいいのに」
ポツリと呟くと私はゆっくりと駅に向かった。
その途中で私は前を歩く見知った人物に気がついた。
八重先輩だ。
八重先輩とはあれから顔を合わせることはなかった。
相変わらず小綺麗な服を着てヒールでカツカツと音を立てながら歩いている。
私と先輩の家は同じ方面であるためこのまま電車に乗ったら鉢合わせてしまうかもしれない。
正直まだ顔も見たくないし、見つかってまた大きな声で謝られるのも不愉快なので先輩とは別の車両に乗るため、あえて先輩の後をついて行った。
改札を通り抜けてホームへ降りると先輩は自宅とは逆方向の電車を待ち始めた。
不思議に思いながら先輩とつかず離れずの距離を保つ。
ホームに電車が着て、先輩は乗り込んでいった。
家とは逆方向なのにもかかわらず私も乗り込んだ。
先輩はスマートフォンを触っているからか距離が空いているからか、私に気がつく様子はない。
いくつかの駅を過ぎたところで先輩は電車を降りた。
私も一緒に降りて尾行を続けると改札口を出たところに樹が居るのが見える。
改札から出た先輩は嬉しそうに樹に駆け寄って、樹も先輩を見つけて嬉しそうに笑う。
いつかのバレンタインの時と同じような光景だ。
すぅっと私の心が冷えていくのを感じる。
「あぁ、そうですか」
幸せなんですね、と声にならない声で呟く。
私を無惨なまでに落として手に入れた幸せを噛み締めている2人をこの時心から憎いと思った。
不幸になればいいと強く強く願い、なんとか彼らが不幸になる道を探す。
殺してしまうのは駄目だ。
私が犯罪者になってしまうのは避けたい。
私と同じ目にあってもらうのが一番なのだが、時間も手間もお金もかかる上に成功するかは不確実だ。
今すぐに不幸に落ちて欲しいのに。
何かないかと思考を巡らせていた時、近くに居た人の会話が耳に入った。
「そうそう、それからもうそこがトラウマで…。罪はないけどその時一緒にいた友人とも会えなくなっちゃったんだよね」
「えー、友人なんも悪くないのに可哀そう」
「でも、思い出しちゃうからさ」
なんて事はないその会話から私は彼らの目の前で死んで見せるという方法を思いついた。
目の前で人が死んだらトラウマものだろう。しかも自分たちが追いこんだ女だ。
この方法であれば、私は犯罪者にはならないし2人は一生消えないトラウマを抱える事になるだろう。
日々フラッシュバックに脅かされて、仕事にも手がつかなくなって、現場を一緒に見た彼らは一緒にいることが辛くなり別れてしまう。
周囲は自業自得だと詰るだろうし、私に対して同情心を抱くだろう。
まさに幸福な現状から一転、何もかもが悪い方へ向かっていく。
正当な復讐悲劇の筋書きに私は思わずニンマリと笑い、2人の後をついて行く。
食事をしてから帰るのか、2人はマンションへは向かわずレストランの入っているショッピングモールへと入っていった。
私も当然夕食を食べていなかったので近くのコンビニにへと向かい、イートインコーナーで惣菜パンを食べた。
パンをかじりながらどうやって死んで見せようと考える。
電車への飛び込みはもう電車から降りているため出来ないし、確実に死ぬ訳ではないので却下。
刃物で首の動脈を切ってみようか。派手に血飛沫かま上がればいいトラウマになりそうだ。
しかし、刃物で自分を傷つけるというのはなかなか勇気のいる行為だ。直前で私が怖気づかないとも限らないし、樹達の妨害に合う可能性もある。
樹の部屋に合鍵で入り、首を吊るもしくは服毒するというのはどうだろう。首吊りの死体はとても汚くなるらしいし、家に帰ったら死体があったというのはなかなかのトラウマ度合いだろう。
ところが調べて見ると首吊りには死ぬまでに時間がかかるらしく、ロープの強度などによっては上手く行かないらしい。毒も都合よく持っている訳もないし、確実に死ねるような薬が市販されている訳もない。
そもそも合鍵は大掃除の時に送り返したのではなかったか。
では、どう死ぬのがいいのだろうか
私が直前にためらっても確実に死ねて、トラウマになりそうな死に際になるもの。
飛び降りるのはどうだろう。
樹の住んでいるマンションはそこそこの高さがあったし、以前なにかの会話の流れで屋上へ出られると言っていた。
屋上から樹と先輩が帰ってくる瞬間を狙って飛び降りれば、いきなり目の前に人が振ってきて死ぬ瞬間を見せつけられる。
しかも今2人はレストランで食事をしているだろうから急いでマンションへ行けば屋上で待機することができる。
私はパンを口に詰め込むようにして食べきると樹のマンションへ向かった。
管理人室の前を堂々と通り過ぎてエレベーターに乗り、最上階である8階のボタンを押した。
8階のフロアに到着すると私は住民の方に会わない事を祈りながら階段を探した。
奥まった場所に非常口と書かれた鉄製の扉があり、開けると階段があった。
なるべく音を立てないように扉をゆっくりと閉めてから階段を上る。
階段を上り切った場所には先程よりは薄い鉄製の窓付の扉があり窓からは外が見えていた。
緊張しながら取手に手をかけた時、取手の上に鍵穴がついているのに気がついた。
もしかして、鍵がかかっているのだろうかと思いながら取手を回す。
私の懸念とは裏腹に取手はすんなりと回り扉が開いた。
外のひんやりとした空気に詰めていた息を吐いた。
また、音を立てないように扉を閉めると辺りを見回す。
当然、屋上には何も置かれておらず広々としている。床は打ちっぱなしのコンクリートで、外だからか汚れで少し黒ずんでいた。
外周には転落防止用に腰ほどの高さに鉄柵が設置されている。
私は柵に近づくとマンションの入り口を探して歩いた。
マンションの入り口真上の場所を見つけると私は柵を乗り越えて屋上のヘリに立った。
こう言ったときのお決まりだと考え、靴を脱いで丁寧に並べる。
下を見下ろすととても高く感じて足がすくんだ。
恐怖心を頭を振って振り払うと私は2人の入っていったショッピンモールのある方面を見る。
日が沈んでしまっているため屋上は暗かったが、マンション近くの歩道には街灯がいくつも設置してあるため明るく良く見えた。
私は歩道を睨むように眺める。
遠くから男性が歩いてきているのが見えた。
全く知らない人だったが意外と人物を認識出来る事に私は満足した。
先輩と樹の服装は先程見て分かっているのであとはタイミングだけだ。
深呼吸を繰り返して自分を落ち着ける。
なるべく真下を見ないようにしながら樹たちが来るのを待ち構えていると
「もしもーし」
背後から女性の声がした。
思わず私は小さく息を吸うと体をびくりと震わせた。
「そうです。あなたですー」
勘違いではなく、その声の持ち主は私に向かって話しかけているようだった。
恐る恐る振り返るとそこには眼鏡をかけポンチョのようなコートを着た女性が立っていた。
目が合うと女性はにこやかに微笑む。
「こんばんは、自殺ですかー?」
突然の言葉になんの反応も出来ずただ女性を見つめてポカンとする私を気にする事なく彼女は話し続ける。
「隠そうとしても無駄ですよー。綺麗に靴揃えて屋上のヘリにいるなんて自殺にしか見えませんからねー」
「あ、いや。ち、違うんです」
なんとか否定しなくてはと私は慌てて口を開く。
「では、こちら側に戻ってきてもらえますか?」
女性は柵から内側、自分のいる方を指差して言う。
「いや。それは困ります」
戻ってしまったら飛び降りる事ができなくなってしまう。
今だって樹たちが帰ってきてしまったらタイミングを逃してしまうのにと、チラチラ下の歩道を確認しながら私は焦った。
「こちらも困ります。今日屋上の鍵を借りているのは私なのであなたが自殺してしまうと管理責任に問われちゃうじゃないですか」
女性の言葉にどきりとする。
やはり屋上は普段鍵がかかっているものだったらしい。
「えーと、それに私はあなたに話があるんです。なので死んでもらっては困ります」
続いた言葉に私は首を傾げる。
まじまじと女性を見てみるが記憶にない。初対面のはずだ。
「ちなみに私とあなたは完全に初対面です。面識はありません」
そう言うと女性は一呼吸置いて、さらに笑みを深めた。
「ですが、私はあなたを知っています。栗田奈々さん、よろしければ私の話を聞いてみませんか?」
いきなりフルネームを呼ばれて私はまた唖然とした。