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バレンタインの日に樹と先輩を見てから私は急激に気力がなくなっていった。
相変わらず倉庫の備品は数えても数えても数が合わず、書類は整理しようとしても量が膨大で纏めていたものを解くだけ解いて放置してしまった。
日の差さない、塵っぽくカビ臭い空間で一人デスクに座ってため息を吐いて一日を過ごす。
仕事をしていなくても誰も気が付かなく、注意もされない。
物理的にも山になっている仕事を見ながらただぼんやりと机で姿勢悪く座っている。
考えようによっては最高の環境かもしれないが、正直頭がおかしくなりそうだった。
このままでは鬱にでもなりそうだ。
そう考えた時、ふと前任の人は実際に鬱になって辞めてしまったのではないかと考えてしまった。
ぞっとする考えを私は頭を振って振り払う。
そしてまた、ため息を吐きながら机でぼんやりと定時を待つ。
そんな鬱々とした日々を過ごしていたある日、私は昼食を持ってくるのを忘れてしまった。
普段は家でお弁当を作っていたのだが気力のなくなってしまった最近はほぼコンビニやスーパーで買っていた。
朝コンビニへ寄ろうと思い忘れてしまったのだ。
私がそれに気がついたのはすでにお昼になってからだった。
社食を食べに行く気にはなれなかったので、近くのコンビニへ行くことにした私は財布を持って地下倉庫から出た。
地下倉庫は他のフロアと違いエレベーターが直接来ない。エレベーターホールの奥にある階段から降りた先にある。
階段を上がり、こっそりと周囲を伺う。
幸いエレベーターホールには誰も居なかったので私は駆け足でエレベーターの前を通り過ぎる。
そのままの勢いで会社から出ると思わずホッとした。明るい日差しと冷たい空気に気分が少しだけ上昇する。
コンビニはお昼ということもあり、混んでいたが上昇した気分もあって普段は頼まない肉まんを買った。
肉まんの温かさと一緒に買ったペットボトルのお茶の温かさに思わず笑顔が溢れる。
冷めないうちに食べようと急いで地下倉庫へと向かう。
エレベーターホールの前を通り過ぎようとした時、ちょうどエレベーターが開いた。
急いで通り抜けようとしていた私は前をあまり見ずに出てきた社員の男性とぶつかりそうになった。
「おっと…」
「…す、すみません」
最近あまり喋っていないためか私の声は少しかすれていて驚くほど小さかった。
「こちらこそー」
男性はにこやかに笑ってそう言うと外へと向かおうとして、いきなり立ち止まった。
一緒にエレベーターに乗っていた同僚らしき人が男性にぶつかりそうになり同じく立ち止まる。
「うわ、なんだよ。いきなり立ち止まるなよ危ないな」
男性は立ち止まったままパタパタと何かを確認するようにスーツを叩く。
そして振り返り同僚を見る。
「悪い、財布忘れたわ。一回戻っていい?」
そう言ってへらりと笑う男性に連れの男性が呆れた声を出す。
「それともおごってくれる?」
「アホか、もうちょい早めに気がつけよな。あー、エレベーターいっちゃったし…」
そんな会話を聞くともなしに聞きながら私はそそくさと階段へ向かった。
「…なぁ、今の子エレベーターに乗らなかったってことはさ、地下倉庫の子かな?」
階段を下り始めた時にそんな言葉が聞こえて、私はギクリと立ち止まった。
エレベーターホールからは死角になって私の姿は見えていないのか2人は会話を続ける。
例の噂の話かと私は身を小さくして耳をそばだてた。
「あ、確かに。可哀そうにな」
「だよなー、俺だったらずっとあの薄暗い空間とか耐えられないわ」
「掃除もされてないから塵っぽいのに地下で窓がないから換気すら出来ないしな」
「そうそう、まさに人事部のごみ捨て場。さり気なく辞めてほしい社員をあそこに送るらしいじゃん?」
「確証のないこと言うなよ、社内なんだから誰が聞いてるか分かんないぞ。聞かれてたら次に行くのはお前かも」
「え、やば!誰も居ないよね?」
そこまで聞いた私は止めていた足をそっと動かして物音をたてないように階段を下りた。
地下倉庫に戻り、デスクに座る。買ってきたお茶を飲もうとペットボトルの蓋を開けようとしたが、うまく握ることが出来ずに落としてしまった。
拾うために手を伸ばす。
視界にうつる私の手は驚くほど震えていた。なんとかペットボトルを拾って握りしめる。
お茶の温かさがじんわりと手に広がって、ようやく止めていた息を吐いた。
「人事のごみ捨て場…」
小さく呟いて周りを見る。
照明が十分についていないため常に薄暗く、清掃もされていないため塵っぽい空間に山と積まれたダンボール。
棚には何が纏められているのか一切書かれていないファイルが並び、さらにファイルにすら纏められていない書類が床にまで散らばってる。
「辞めてほしい社員…」
先程の会話を頭のなかで思い返す。
「私が。私は、辞めてもらいたい社員で。ごみ…?」
おさまって来ていた震えが戻ってくる。
「嘘でしょ?」
答える人の居ない倉庫で私は一人震えていた。
せっかく買った温かい肉まんもお茶も冷めていってしまう。
しかし、今は何かを口にする気になれなかった。何も食べていない胃が、悪いものでも食べたように重くなっていく。
気持ちが悪くなってきて、気を抜いたら吐いてしまいそうだった。目に薄っすらと浮かんだ涙を震える手で拭う。
「最近、泣きすぎじゃない?」
厄年なのかもしれないと思った。
会社は私に辞めて欲しいと思っているようだ。私は深呼吸をして気分を落ち着けると今後について考えることにした。
先程聞いた会話の内容の真偽は不明だが、少なくとも周囲にはそういった目で見られているということがわかった。
この状況では、もとの職場に戻れたとしても気まずいし、私自身以前のように働けるとは思えない。
では、このままこの倉庫に居ればいいのかというとそれも辛いものがある。
何度も言うようにこの倉庫は薄暗く、塵っぽい。環境は最悪で仕事にもやりがいを感じない。
本当に鬱になってしまうかもれない。
もう、この会社には居場所がないと感じた。
逃げるようで遺憾ではあるが、すっぱり諦めて辞めてしまおう。
辞めたあとは一度実家に帰ろうと私は考える。
実家は大きくはないが一戸建てだし、もともと私と兄と父と母の四人で暮らしていても問題のないくらいの広さだった。父は私が成人した年に亡くなってしまったので実家は現在母が一人で暮らしている。
私は比較的遅くに出来た子なので母からは甘やかされて育った。今回も事情を話せば転職先が決まるまでの間くらいは実家に置いてくれるだろう。
むしろ、母はまだ働いているのでしばらくは私を養ってくれるかもしれない。
兄は結婚もして家を出ているのでなんの問題もない。
そう考えた私は早速、退職願の書き方を調べようとスマートフォンを手に取った。
その瞬間、スマートフォンに電話がかかってきた。
画面には『母』の文字が表示されている。
仕事中にかけてくるなんて珍しいと思いながら通話ボタンを押す。
「もしもし?どうしたの?」
「あぁ!すぐに繋がって良かった!」
「え?誰ですか」
スマートフォンの向こうから聞こえてくる知らない声に私は困惑する。
「私、栗田さんの同僚になります。栗田さん、えーと。お母様が倒れて救急搬送されたので至急病院へ来てもらえませんか?」
その言葉を私はすぐには理解が出来なかった。
「お兄様にもかけたのですが仕事中なのか繋がらなくて」
そこまで聞いて、ようやく私は思考を開始した。
「わかりました、兄には私から再度連絡されてもらいます。病院の名前を教えて下さい、すぐに向かいます」
病院名を聞くとお礼を言って通話を切る。
すぐに兄の番号を呼び出してかけるがやはり、繋がらない。着信履歴を残したあとで簡単にメッセージを送ると私は帰り支度を始めた。
鞄に荷物を詰めつつ今まで使われることのなかった社内電話を使い、早退する旨を伝えた。
病院につくとすでに兄は到着していた。
たまたま近くに居たらしく、会社を早退して駆けつけたらしい。
兄に母の容態を聞くと短く脳梗塞だと告げられた。
さらに詳しく聞こうとする私を兄は止めて、一緒に医者のところまで行った。
幸い母は無事だった。
しかし、脳梗塞の後遺症が残るため今後は介護が必要になること、それに伴い会社は辞めざるを得ないだろうと言われた。
話を聞いて無事で良かったと安心している私とは裏腹に兄は難しい顔をしていた。
医者のいる診察室から出てすぐに母の病室へ行こうとした私を兄が引き止めた。
少し話があるとのことだったので病院内にあるカフェのようなところに2人で座った。母の容態が気になりそわそわと落ち着かない私に兄がココアを差し出す。
「なに?お母さんの様子気になるから早く病室へ行こうよ」
「わかってるよ、実は前から話は出ていたんだけど俺達母さんと同居しようと思ってるんだ」
兄の突然の言葉に私は驚いて目を見開いた。
「え?そんな話聞いてないんだけど」
年始に行った時にもそんな素振りはなかった。
「母さんが断ってたんだよ、まだ元気だって。でも今回のことで母さんももう前みたいには動けないだろうし、一人だといつ倒れるか分からない。幸い妻は専業で同居にも前向きだったからこれを期にすぐにでも引っ越そうと思ってる」
「え、えと。うん」
確かにリハビリをすれば動けるとは言っても、後遺症は残ってしまうと聞いたので心配な気持ちは分かる。
兄はその後も具体的な引っ越しの日程などを説明していく。
「こんなものかな?何か疑問とかあるか?」
「え、えと。兄さんが同居するんじゃなくて…、私が同居するっていうのはどう?」
前提条件を覆すような私の言葉に兄は驚いた顔をした。その後、何かに気がついたような表情で笑う。
「大丈夫だよ、母さんと妻の関係が良好なのはお前も知ってるだろ?」
兄は私が嫁と姑が同居することで、兄の夫婦関係が壊れる可能性を危惧していると勘違いしたようだった。
とっさに否定しようとしたが、出来なかった。
兄は色々と考えて出してる同居案に対して、私のは自分のためだけに言い出したものだからだ。
ほんの数時間前までは母に集る気ですらいたのだ。
恥ずかしくてそれ以上何も言えなかった。
「お前はお前でちゃんとやってるみたいだし、こっちは心配すんなって。あ、でもたまには顔出したり妻の話し相手にでもなってやって」
爽やかに笑う兄を直視できなかった。
「うん、私の事も心配しないで」
かろうじてそれだけ言うと私も笑顔を作った。