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担当していた仕事を引き継ぎ、デスクを片付けたあと、今まで働いていたフロアの同僚達に簡単に挨拶をした。
噂のせいなのかはわからないが、同僚達からは素っ気ない返事を返された。
被害妄想である可能性も否めないが。
先輩とは挨拶しなかった。
するつもりもなかったのだが私が挨拶をしている最中にひっそりとフロアから出て行ったため、しようと思っても出来なかった。
皆の前で顔を合わせなくてすんでほっとしていたのだが、地下へと向かう廊下で待ち構えており、再び大きな声で謝り頭を下げてきた。
反応することも馬鹿らしく、一瞥もすることなく隣を通り過ぎた。
新しい職場となった地下倉庫は薄暗く、塵っぽく、ほんのりカビ臭かった。
金属製の棚が乱立しており、棚だけでなく床にまでダンボールがところ狭しと並べられている。
倉庫の隅にはデスクがあり、その周囲だけは少し綺麗だった。
前任者は主にここに座って居たのかもしれない。
私は普段あまりつけないマスクを購入して装着した。
これから毎日ここに来るのであれば使い捨てのマスクを大量に買わなければいけないかもしれないと思った。
上司から宣言された通り、倉庫の備品はめちゃくちゃで、貰ったリストとは数も品番もちっとも合わず、資料は年代や種類もごちゃまぜにファイルへ綴じられていた。
確かにここから目当ての資料を探すのは大変だろう。
クレームが来るのも当然だと私はため息を吐く。
倉庫の整理など簡単な作業だと、たかをくくっていたのだが、それは想像以上に大変な作業だった。
まず、備品の品目をすべて書き出して、現在の数を書いた新しい目録を作成しようとした。
しかし、同じ種類の備品が入った箱は一箇所にまとめてられておらず至る所に置いてあり、さらには一つの箱の中にバラバラの種類の物が入っていたりするため、なかなか現状の把握が出来なかった。
それに加えて時間を空けると備品の入った箱が勝手に移動し、数量も変わっていく。
もちろん、心霊現象などではなく備品を取りに来ている社員達が動かしているのだが。
彼らは目当ての備品を探すために床に置いてある箱の場所を変え、棚から下ろしてそのままにし、勝手に持っていく。
そして目当てのものがないと勝手に総務へと連絡して発注を頼む。
その品が消耗品であった場合、総務は特に確認することなく発注をしてしまう。
結果として同じ備品の箱が増えたり、フロアへ持っていったら不要だったため倉庫に戻り手近な箱に戻したりするのでバラバラの品目の品が入っている箱が出来上がるのだ。
数えた物が入っている箱がどこかに行ってしまったり、先程数えた数と合わないということを繰り返す。
1週間がんばっても目録は完成しなかった。
備品を取りに来る社員に声をかけ、協力を仰げばもっとすんなりいくだろうが、今の私にはそれが出来なかった。
原因は例の噂だ。
移動の話をもらった時にも思ったのだが、私はその噂を聞いたことはなく、今でも聞いたことはない。
だが、上司の話では社内でかなり広まっているという話だったし、移動の日の同僚達の態度も気になった。
私はその噂を直接、耳にする事が怖かったし噂を信じている人に会うことも怖かった。
私が先輩いじめをしているという話を聞いてしまったり、これがいじめをしている人間かという目で見られた時、冷静で居られなくなる可能性があるからだ。
私は話をしていた人を激情にまかせて詰ったり、殴りかかってしまったり、先輩のようにこれみよがしに泣いて見せてしまうかもしれないことが怖かった。
だから私は地下倉庫へ来てからさらに人を避けるようになった。
お昼や休憩時間もすべて倉庫内にあるデスクで過ごし、倉庫に人が来る気配を感じたらデスクへと急いで戻り隠れるように座った。
デスクは乱立する棚の隅に収まるように設置されていたので座ると隠れるようになるので覗き込んできたりしない限りは人には見つからなかった。
地下倉庫には内線のみかけられる電話があったが移動してから1週間、鳴ることはなかった。
同僚達との業務の会話すらなくなり、出勤した場所にも誰もいないため挨拶すらしない。
私は1週間、声を発する事をしなかった。
意味のあるのか分からない仕事をしているからか、精神的疲労が大きく移動してから初めての休みはほぼ寝て過ごした。
起きて部屋に差し込んでいる夕日を見た時、長時間寝ていた自分に感動すら覚えた。
ぼんやりと夕日を眺めながら、そういえば夕日を見るのも1週間ぶりだと思った。
地下倉庫には当然、日がささないし帰る頃には日は沈んでいるからだ。
休みだが、やることもなくただぼーっと外を眺めているとインターフォンが鳴った。
部屋に響く音にびっくりしつつ玄関を開けると宅急便だった。
荷物を頼んだ覚えはなかったが、宛名は確かに私宛だったので伝票にサインして受け取った。
覚えのない荷物を不気味に思いながら部屋に戻り、恐る恐る開けた。
「あぁ、そっかぁ…」
思わず声が出た。
荷物の中身はバレンタイン用のチョコレートだった。
樹が好きだと言っていたブランドのチョコレートで、毎年種類を変えつつ贈っていたものだ。
品薄になる前に余裕をもって頼んでいるため忘れていた。
「来週はバレンタインだったっけ?」
改めてカレンダーを見ようとしたがどこにも見当たらない。
「捨てたかぁ」
確かにカレンダーには樹との予定も書き込んでいたため、この間の大掃除で捨ててしまったのかもしれない。
チョコレートの配送日のことも書き込んでいたはずだが、カレンダー本体がない事と樹の事や職場の移動など色々あったので忘れてしまっていた。
綺麗にラッピングされたチョコレートを眺めていると樹との思い出が蘇ってきた。
私も樹も甘いものが好きだったためデートではよくカフェのような場所で甘いものを一緒に食べたり、コンビニなどで限定のお菓子を見つけては2人で分けて食べたりした。
このチョコレートも毎年大きめのものを買って、樹の部屋で一緒に食べていた。
樹は毎年「俺のためじゃなくて自分のために買ってるだろ」と笑いながらも私の分のコーヒーを淹れてくれた。
チョコレートの箱を眺めながら過去を思い出していると、私は樹とすれ違っているだけなのではないかもしれないと気がついた。
思えば浮気現場だと思った路地裏は本当に薄暗かった。
あの時は頭に血が上って樹の言い分を聞かなかったが樹は熱心に見間違えを主張していたし、本当に見間違えたのかもしれない。
最後の暴言だって私との将来を考えているからこそでた不安や不満だったのだろう。
あそこで私が責めるような口調にならなければ、のちのち話し合いという形で言ってくれたに違いない。
なのにあそこで私が頑なな態度を取ってしまったため樹も引っ込みがつかなくなってしまったのだ。
あれから一度も連絡が来ていないのもそのせいだ。
私と樹は話し合う必要がある。
少女マンガや小説でもよくあるただのすれ違いだ。
これを乗り越えてこその真の恋人なのではないか。
そう思うと目の前が明るくなるのを感じた。
私から連絡するのは悔しいのでバレンタインの日にサプライズで樹の家に行くことにした。
今年は誰からもチョコレートをもらえなくて落ち込んでいる樹にお気に入りのチョコレートを渡して仲直りする。
コーヒーは樹に淹れてもらって2人でチョコレートを食べれば元通り、いや以前より親密になれる。
それはとても素晴らしい考えだと思った。
私は指折りバレンタインが来るのを待った。
あれほど嫌だった仕事もイライラせずに出来た。
相変わらず数も合わないし、書類の整理も全くはかどっていない。
それでも前向きに仕事と向き合った。
バレンタイン当日、私は定時になるとすぐに帰り支度を開始した。
お疲れ様です、という明るい声が誰も居ない倉庫に響くなかスキップでもするような勢いで会社を出た。
電車に乗って樹の家の最寄り駅へと向かう。
電車から降りて改札口へと歩いていると改札口の外に樹の姿が見えた。
私が家に行く時、タイミングが合えばこうして待っていてくれたのを思い出して気分がさらに明るくなる。
歩調を早めて改札口から出ようとした時、樹が顔を上げた。
笑顔でこちらに手を振る樹は私に気がつくことなく、改札口を出て駆け寄ってきた先輩の手を取った。
「えっ…」
思わず足を止める。
先輩は樹の手をとり笑顔で紙袋を手渡していた。
樹も笑顔でそれを受け取る。
そして仲睦まじい様子で手を繋ぎ、私に背を向ける。
『じゃ、奈々バイバイ。今までありがとう』
「…っ!」
あの時の樹の声が蘇ってきて、私は呼吸を止めた。
今の今まで樹と仲直りできると思っていた自分を殺してしまいたかった。
鼻の奥がツンとして涙が出そうになったので私は慌てて下を向く。
改札へと向けていた足を勢い良く180度回転させて駅のホームへ戻ろうとした。
「あっ」
一歩踏み出したところで誰かに思いっきりぶつかり、衝撃で手に持っていたチョコレートの紙袋を落としてしまった。
改札口近くだったため人の通りは多く、こんなところで足を止めているのは確かに迷惑だったかもしれない。
「すみません、大丈夫ですか?」
ぶつかってしまったのは男性だったようで頭上から声をかけられた。
「大丈夫です、私こそすみませんでした」
涙ぐんいる顔を見れるのが嫌だったので下を向いたまま謝る。
失礼であるとは思うが今は顔を上げることは出来なかった。
その代わりに深々と頭を下げると、男性の履いているチョコレート色の革靴が目に入った。
「いえ、気になさらず。どうぞ」
男性はわざわざ私の落とした紙袋を拾い上げてくれ、差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
受け取ろうと手を伸ばすが、途中で手が止まってしまう。
樹のために買ったこのチョコレートは私に意味の分からない幻想を抱かせた代物だ。
持ち帰ってまた変な幻想を抱くのも嫌だったし、食べる気にもなれない。
「あの、重ね重ね悪いのですが…」
私は紙袋を睨みつける。
「そのチョコレート貰ってもらえませんか?」
「…はい?」
男性の困惑した声が聞こえた。
ぶつかった見知らぬ女からいきなりチョコレートを貰ってくれと言われたら誰でも困惑するだろう。
言ってしまった事を後悔したがもう遅い。
「捨ててしまってもいいので!ごめんなさい!」
「あ、え?」
いたたまれなくなった私はチョコレートを受け取らず、男性に背を向けてホームへと逃げた。
幸い男性は追いかけて来なかった。
電車に乗り、逃げるように家に帰ると玄関に鍵をかけた。
鍵をかける音がガランとした部屋に響く。
リビングまで行き、乱暴に鞄を放り投げてへたり込む。
樹や先輩を思い出す品がどこにもないこの部屋はとても落ち着いた。
それでもフラッシュバックする2人の後ろ姿に涙が出てきた。
物を捨てても気持ちの整理はつかなかったが、嫌なことを思い出すようなことのない空間を作ることには成功していたらしい。
もうあのブランドのチョコレートは食べれないなと思いながら私は泣いた。