16
私はわくわくしながら地下倉庫に居た。
始業時間を少し過ぎるとすぐに総務の人がやってきたので倉庫の資料を見せながら引き継ぎの説明をしていった。
どれも簡単な作業なので説明はすぐに終わった。
1週間に1回でも整理作業を行えば十分なくらいに整理された倉庫を見て、以前の状態を知っているその人はしきりに感心していた。
引き続きを終えると上司に連れられて以前の部署へと向かう。
少し緊張しながら扉を開けて挨拶をした。
挨拶のために下げた頭を上げて周囲を見回した時、私は歓迎されていないことを悟った。
冷ややかな目線と小さな拍手の音がそれを物語っている。
仕事を始めると歓迎されていない原因が少しずつ見えてきた。
上司が私に確認したように、私の移動は仕事が落ち着いてきた時期の移動だった。
しかし、この部署の人達からして見ればようやく落ち着いた時期にまた仕事を増やされたようなものだったのだ。
そして、その忙しさがようやく落ち着き残業をする必要もなくなってきた所での私の移動というか復帰である。
あちらからすれば今更何の用だといった所だろうか。
しかも移動する前の噂の影響もある。
確かに今は沈静化しているが、この部署には八重先輩が居るのだ。
八重先輩から無視されたり八重先輩と仲の良い人たちから邪険にされたりしたし、大事な仕事の連絡をわざと伝えられないなんて事もあった。
無視されたりするのはなんてことは無いのだけれど、仕事でミスを誘発されるのは辛かったし、他の人達からも腫れ物を扱うが如くの対応で息が詰まる。
仕事も以前より任される数が減ったために早めに終わってしまい、他の人の手伝いを申し出ても断られる。
定時を待つだけの時間がとても長かった。
私は自分の机に座ってぼんやりパソコンのデスクトップを眺めてため息を吐く。
正直な所、倉庫に居たほうが楽だと思うようになっていた。
こんな時にココノに相談出来たらいいのに、と私は考える。
ココノは私が今の部署に戻れると報告したあの日から来なくなってしまっていた。
今思えばお礼を言ってお辞儀をしたのも、お見送りをしてくれたのも、わざわざ「さようなら」なんて言っていたのも最後だったからなのかもしれない。
連絡を取りたかったがココノの連絡先を私は知らなかった。
いつだって朝になれば家に来てくれていたからだ。
連絡先を聞こうとした事もあるが何となくはぐらかされてしまい、結局聞くことが出来なかった。
毎朝、今日こそは来てくれるんじゃないかと思いながら時間ギリギリまで家に居る。
しかしココノは現れないし、手紙などが来る様子も無かった。
休日もココノが来るかもしれないと思うとなかなか出かける事も出来ず、新君とのデートや実家に行くときは玄関のポストの連絡先を書いたメモを挟んで家を出るようにした。
しかし、メモが無くなる事もなければ当然連絡が来ることもない。
不満と不安が貯まる日々が続いていた。
「はぁ…」
「どうしたの?」
不満を吐き出すようにため息を吐くと目の前の新君から声をかけられる。
私はハッとして笑顔を作った。
今日は土曜日で新君とデートしている最中だったのだ。
彼氏とのデートで深いため息とか印象最悪である。
「なんでも無いよ!ちょっと疲れちゃって、つい。ごめんね、ため息なんて吐いて」
慌てて言い訳を並べてフォークに刺していたティラミスを口に運ぶ。
カスタードとチーズの甘さとエスプレッソのほろ苦さが口に広がる。
誤魔化すように笑って美味しいと言ってみるが新君は真顔で私を見てくるだけだ。
幸せなはずの午後のティータイムに思い空気が漂った。
私は思わず視線を避けるようにそっぽを向いてしまった。
「奈々さん」
名前を呼ばれて私はしぶしぶ新君と目を合わせる。
「間違ってたらごめんね、何かあった?最近ひどく落ち込んでるように見えるんだけど…」
すぐに否定しようと口を開くが新君があんまりにも真剣な表情だったため私は唇を噛んで否定の言葉を飲み込んだ。
すると新君は悲しそうな表情になる。
「言いたくないなら言わなくてもいいけど、俺が力になれるような事があれば何でも言って」
新君を悲しませたい訳ではないと私は考え、言葉を選びつつ話し始める。
「えっと、実はね…」
私は手を組んだり解いたりを繰り返しながら言葉を続ける。
「友達と連絡が取れなくなっちゃって…」
私の言葉に新君はキョトンとして首を傾げた。
「連絡先が変わっちゃったとか?」
「いや、もともと連絡先は知らなかったんだけど」
「そうなの?」
新君はさらに不思議そうな表情をする。
確かに友人と言うには私はココノの事を知らなすぎた。
「今までは、その…。決まった時間に待ち合わせみたいな感じで会ってたから連絡先とか交換してなくて」
「なるほどね、その場所に来なくなっちゃったんだ」
納得したように新君は頷いた。
「そうなの。全然来なくなっちゃったし連絡欲しいってメモとかも置いてるんだけど見てないみたいで」
私の言葉を新君は真剣な表情で聞いている。
「連絡先は全然知らないんだよね。電話番号とかアドレスとか含めて」
「うん」
「名前とかをSNSとかで調べてみたりとかは?」
「一応してみたんだけどヒットしなくて…」
そもそも私はココノという名前が名字なのか名前なのかも知らない。
幸福復讐推進協会もネットで調べてみた限りヒットするようなものは出てこなかった。
「うーん、いつ頃から連絡取れなくなったの?」
新君の質問に私は少し考える。
「一ヶ月くらい前かなぁ」
「そんなに!?事故に合ってたりとか?」
「いや、そういうのでも無さそうで」
私は改めてため息を吐いた。
「最後に合った日はいつもとちょっと違う感じだったから、向こうからしたらお別れのつもりだったのかもしれないんだ…」
私の言葉に新君は困惑している。
やっぱり言わなければ良かったかもしれないと思い、私は下を向いた。
「ごめん、やっぱりなんでもない。今日はもう帰ろうか」
笑顔を作ってそう言うと新君は私を心配そうに見る。
「ごめんね、力になれなくて。せめて友人の名前教えてもらってもいいかな?俺もなにかしら調べてみるから」
「いや、ホント大丈夫。忘れて」
私の持っているの情報はココノという名前と幸福復讐推進協会というものに所属しているという事だけだ。
この2点だけ見るとココノは新手の宗教団体か詐欺師に見えてしまう。
ココノを悪く言われることだけは新君と言えど嫌だった。
少し寂しそうな表情をしている新君と帰路につく。
幸福復讐推進協会のサポーターであるココノが姿を消したということは私の幸福復讐は終わったということなのだろうか。
樹へは偶然とは言え綺麗になった私を見せつけたし新しい彼氏も自慢できた。
きっと振ったことを後悔しているだろう。
私も今ではあんな男に拘るなんて馬鹿みたいだと思っているし、完了したと言っても良いかもしれない。
けれど八重先輩に対してはどうだろう。
八重先輩に対する苦手意識は無くなったし、今は八重先輩に劣っている所なんて何一つ無いという自信がある。
しかし、あの日の夜を後悔させるような事は何もしてない。
樹や八重先輩の事を考えていると私はあることに思い至った。
「家!私ココノの住んでいる家知ってる!」
突然の私の叫びに新君は目を白黒とさせている。
「い、家?」
「そう!新君まだ時間ある?ちょっと付き合ってもらってもいい?」
気がついたらじっとしてなんて居られなくて私はそう新君に声をかける。
新君は驚いた顔のまま私を見ていたが私の勢いに押されたまま頷いた。
「今日、新君車でしょ?すぐに!ここ、このマンションに行って!」
私はスマホの地図を起動させて新君に見せながら言う。
新君は私のそんな様子を見て微笑んだ。
「分かった。車取ってくるから待ってて」
そう言って走って行ってくれた。
私は落ち着かなくて新君が来るまでそわそわと歩き回った。
新君の車に乗り込むとナビをしつつ私はココノが住んでいると言っていたマンションへと向かう。
あのマンションは樹も住んでいる。
鉢合わせてまた謎の勘違い理論で私と寄りを戻そうと言われてしまうのが嫌だったので新君にも着いてきてもらうことにした。
近場のパーキングに車を止めて、急いでマンションへ向かう。
エレベーターを待つ間も待ちきれなくてそわそわと何度もボタンを押していると、新君に落ち着いてと言われてしまった。
ようやく着いた5階のフロアを駆け抜けてココノの部屋のインターフォンを押す。
何の反応もしないインターフォンに私は首を傾げてもう一度押す。
押している感覚はあるのに何の反応もない。
追いかけてきた新君が部屋の扉をみて聞いてきた。
「住んでる場所ってここ?」
私は頷きながらもう一度インターフォンを押す。
やはり反応がない。
まるで電気が通っていないかのようである。
「奈々さん、ここ空き部屋になってるよ」
後ろに居る新君が言いにくそうにそう言ってきた。
私は泣きそうな気持ちで振り返る。
「どうして?」
新君はなにも悪くないのに責めるような口調になってしまう。
「ほら、メーターも動いてないし電気が通っている雰囲気もない。それにポストに養生テープが貼ってあるでしょ?」
新君が指差した先を見ると確かに玄関ポストには養生テープが貼ってあった。
「こういうのは以前住んでいた人が出ていった後にポストが使われないように貼ることが多いんだ、だから…」
新君は言いにくそうに口籠る。
「引っ越した後って事?」
沈んだ気持ちでそう言うと新君は辛そうに頷いた。
こらえきれずに涙が溢れた。
泣いてしまった私を見た新君は、私の背中に手を当てて車を止めた駐車場までゆっくりと誘導してくれた。
「ココノさん、なんでぇ…」
車に乗っても涙は止まらなくて、泣き続ける私を新君は静かに見守っていた。
しばらくそうしていたが私は泣き止めず、新君は車を発進させた。
夕日によってオレンジになった景色が流れていくのを眺めていくうちに少しずつ気分が落ち着いてくる。
車は新君の家の駐車場で止まった。
新君は私より先に車から降りるとエスコートするように助手席側のドアを開けてくれた。
差し出された新君の手を取って車から降りる。
手を繋いだまま私達は新君の部屋に入った。
付き合い始めてから何度か来たことのある新君の家はホームシアターもあると言っていたように広めのマンションだ。
新君は私を高そうなソファーに座らせるとどこかへと行ってしまう。
静かな部屋に私が鼻をすする音が響いてなんだか少し恥ずかしくなってきた。
「落ち着いた?」
新君が湯気のたったマグカップを私に差し出しながら聞いてきた。
マグカップの中にはコーヒーの香りのする白い液体が入っている。
新君はコーヒーを淹れるために台所へ行っていたようだ。
「奈々さんの好きな甘いカフェオレだよ」
爽やかな笑顔を浮かべる新君に私も笑顔を向けた。
「ミルクたっぷりの?」
「もちろん」
隣に座った新君に寄り添うようにしてカフェオレを飲む。
温かくて甘いカフェオレを飲んでいるとどんどん気分が落ちついて行くのを感じた。
私は深呼吸をすると新君を見る。
「ねぇ、新君」
「なに?」
「今からさっきの友人について話したいんだけど、聞いてくれる?」
私の言葉に新君は笑顔で頷く。
「もちろん。奈々さんの話は何でもきくよ」
新君の言葉に気分が軽くなる。
「あのね、友人っていうのはココノっていう女性の事で…」
私はココノが幸福復讐推進協会というものに所属しているということを除いた馴れ初めをすべて話した。
樹と八重先輩が浮気してこっぴどく振られた挙句、仕事もうまくいかなくなって追い詰められてしまい自殺しようした事。
その自殺を止めてくれて勇気づけてくれたのがココノだという事を稚拙ながらも話していく。
そして今の仕事について、悩んでいるので相談に乗ってほしかったという所で締めくくった。
新君は顔をしかめたりしつつも静かに私の話を聞いてくれた。
最後まで聞くと新君はため息のように息を吐いてから冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
「そのココノさんが居なければ今の奈々さんは居なかったんだね」
「そうなの」
私もマグカップの中の冷めてしまったカフェオレを飲む。
やはり温かい方が美味しかったが話しすぎて乾いていた喉には丁度良い。
新君を見上げると新君は何か悩んでいるような表情で口元に指を当てていた。
「ココノさんはさ」
「うん」
「もう自分は不要だと思ったから姿を消したのかな?」
「そう、なのかな…」
私は新君の言葉にうつむいてしまう。
今、仕事のことで悩んでいる私としてはココノの事をまだまだ必要としているつもりだったし、八重先輩への復讐だって中途半端だ。
「今、奈々さんが悩んでいるのって仕事の事でしょ?」
「そうだけど…」
1人で立派に働いている新君からしてみればささやかな悩みかもしれないが私にとっては深刻な問題だ。
「そうだな。えっと、転職…しない?」
新君の言葉に私は驚き目を見開いた。
そして唇を噛みながら見上げるようにして新君を軽く睨んだ。
「一介の事務員だと転職は難しいよ、立派な資格とか持ってる訳じゃないし」
今からでも資格の勉強でもしろと言うのだろうか。
そんな長期的な悩みではないのだけど。
そう思いながら私は不満に唇を尖らせる。
そんな私を六条は笑顔で見つめた。
「大丈夫だよ、いい就職先あるから」
照れたように頬をかく新君を私は不思議な気持ちで見る。
「俺の所で事務作業、やらない?」
「新君のところ?」
思わぬ言葉に私はキョトンとする。
「今は事務作業も俺が1人でやってるんだけど、奈々さんがやってくれたらもうちょっと事業拡大できるから助かるし」
新君は部屋をキョロキョロと見回す。
「そうなるとここだとちょっと手狭だから事務所兼自宅としてもう少し大きい所借りて2人で暮らしてさ。あ、ちゃんとお給料も出すよ。生活費とかそのへんについてはまた話し合うとして、どう…かな?」
新君の言葉をしっかり聞いて私は脳内で整理する。
一緒に暮らして私が事務をやって生活をするということ。
「え?プロポーズ?」
思わず口から溢れた言葉に新君は顔を赤くした。
「そういう事に、なるかな…。やっぱ早いと思う?」
不安そうにこちらを見る新君。
私は目をぱちぱちと瞬きながらも考える。
確かに付き合ってからの時間はそんなに経っていない。
けれど長けばいいというものでもないと私は樹との付き合いで学んでいた。
私は笑顔になると新君の手を取った。
「早くないよ!まだ籍はいれないけどお試しってことで同棲から始めるのもいいと思う!」
私の勢いに新君は顔を赤くしたまま凄い勢いで頷いている。
「そしたら新君のご両親にも挨拶しないとね!顔合わせとはいつにしようか、あと仕事を辞める時期とか引越しの時期も!わぁ、考えることいっぱいだ」
そう言って私はスマホを取り出すとやることリストを作成したり調べごとを始めた。
そんな私をみて新君は嬉しそうに笑う。
「元気出たみたいで良かった。あ、そうだこれ」
新君は立ち上がると部屋のキャビネットから小さな箱を取り出して持ってきた。
「本格的な婚約指輪はまた買いに行こう」
そう言って開けられた箱の中には指輪が入っていた。
小粒のダイヤが並んだデザインで蛍光灯の下でもキラキラと輝いている。
私は驚いて目を見開いた。
そして箱と指輪の形状からある有名ブランドを連想して私は生唾を飲み込む。
「あ、新君これ…」
私の動揺をよそに、新君は照れたように笑う。
「本当は付き合えた記念に渡そうって思ってたんだけど恥ずかしくてずっと渡せなくて」
今度は別の意味で涙が溢れた。
「婚約指輪いらないよ!これずっとつける。ありがとう、すごい嬉しい」
そう言って抱きつくと新君は慌てたように私を支えてくれる。
一生自分がつける事はないと思っていた夢のようなブランドの指輪だ。
嬉しくない訳がなかった。
「ずっとは嫌だなぁ、お揃いの結婚指輪って俺憧れなんだけど」
私を抱きしめ返しながらそう言う新君に、私は一緒に指輪を選びに行く約束を取り付けた。