12
朝日が差し込む部屋にハーブのいい香りが漂う。
机に所狭しと並べられた化粧品と格闘しつつ横を見れるとココノがポットでお茶を淹れていた。
朝から冷たい飲み物をいきなり飲むより白湯を飲むほうが健康的だと言われて、先程ただのお湯を飲まされていた私は恨めしい気持ちでココノを睨んだ。
視線に自分だけは美味しいものを飲むのかという念を強く込める。
「ハーブティーはいいですねぇ」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ココノはのんきにカップへハーブティーを注いでいる。
睨み続けているとココノはクスクスと笑いながら私が白湯を飲んでいたカップにもハーブティーを注いだ。
「そんなに睨まずとも栗田さんの分もありますよ」
カップに注がれた赤い液体からいい香りが漂ってくる。
ココノは自分のカップを手に取ると中身にふーっと息を吹きかけた。
カップから湯気が立ち上りココノの眼鏡が真っ白に曇る。
慌てたようにカップを置いて眼鏡を拭くココノを横目に私は化粧に集中した。
だいぶ上手くなってきている自信はあるが、やはりココノにやってもらっていた方が綺麗な気がする。
「今日は気合が入ってますね、デートだからですか?」
ハーブティーを飲みながら私の様子を見ていたココノがにまにま笑いながらそう言ってきた。
先程、今日は仕事終わりに六条と食事に行くという話をしたところだった。
「違いますよ!ただの食事です」
「でも男女が仕事帰りに二人っきりで食事するのでしょう?デートでは?」
すかさず否定する私にココノは不思議そうに首を傾げる。
「違います!ただの友人同士であるならば、それはデートではありません」
私は唇を尖らせて仕上げの口紅を塗りながら更に否定する。
鏡を離して顔全体を眺めていると化粧の出来栄えを確認するためにココノが湯気を立てているハーブティーを机のはじに置いて私の顔を左右から眺めた。
「女性同士で出かけることもデートというのですからデートでいいと思うんですけどねぇ…」
そう呟きながらココノは机の上に広がる化粧品たちの中からいくつか選んでいく。
「本日のお化粧具合でしたらこれらが化粧直しには最適だと思いますよ」
「なるほどー。これはどう使うのです?」
確認のためにココノから一つ一つ使い方を教えてもらう。
「化粧直しなのに今使ったのと全然違うものを使うんですね」
一通り教えてもらった後、会社へ持っていくポーチに化粧品を入れながらそう言うとココノは自分のカップを持ち上げつつ答える。
「化粧直しはいわば化粧の上塗りですからね。今の色を塗って濃くするよりも別の色を乗せる方が綺麗に見えたりするんですよ」
「そうなんですね」
私もカップを手にとってハーブティーを飲む。
程よく冷めていてちょうどよかった。
ココノは飲み終わったカップとティーポットを持って立ち上がる。
「それより栗田さん」
「…なんです?」
飲んでいたハーブティーから顔を上げてココノを見る。
ココノは片付けをしながら続けた。
「気持ちで八重さんに負けてもらっては困るのですが」
「は?」
話の意図が読めずに私は首を傾げる。
「さっきの週末の時の話ですよ!」
ココノの言葉に私は考えながら答えを返す。
「えぇと…。エレベーターホールで社長と六条君に会ったって話?」
「そうです!」
片付けを終えたココノが私の近くに戻ってくる。
「先輩の話なんてしましたっけ?」
たしかに週末の出来事を話した気はするが、エレベーターから社長と六条が一緒に出てきて驚いた話とその後食事に行って家で映画を見た話という話だった気がする。
「しましたよ!エレベーターから出てきた八重さんにジロジロ見てきて六条さんが庇うように前に出たですとか、さり際に振り返ったら睨まれたとか」
「…しましたっけ?」
化粧に集中しすぎて無意識に話してたのだろうか。
心当たりがなさすぎて私は不思議な気持ちで赤いハーブティーを眺める。
「したんですよ!ですから八重さんに負けてもらっては困ると言っているのです」
ココノは軽く頬を膨らませて怒っている。
「負けるとはなんでしょうか?」
私は純粋な疑問を口にする。
するとココノは眉間に皺を寄せた。
「負けるという言い方は少し語弊があるかもしれませんが…」
ココノは眼鏡の位置を直す。
青いフレームが朝日に照らされ光が反射した。
「八重さんを意識的に避けたりするような事を辞めてほしいということです」
「…といいますと?」
私は手に持っていたカップの中身を飲み干す。
爽やかなハーブの香りが鼻を抜けて行くと同時に苦味が口に残った。
その渋味に少しだけ顔をしかめる。
「先程の話を聞く限りでは栗田さんは八重さんをなるべく避けようとしている、というか会わないようにしているのでは?」
「そうですね。会わないに越したことはないと思って過ごしています」
頷いた私にココノは人差し指を突きつけた。
「それが良くないと言っているのです」
正座をして私と向き合うココノに思わず私も正座をする。
「栗田さんは私の事をなんだと思っているのです」
「いい友人だと思っておりますが…」
私の答えにココノは驚いたようにまばたきをすると照れたように眼鏡を触った。
そして一度空咳をすると改めて真剣な表情になる。
「そ、それはありがとうございます。ですがそうではなくですね」
ココノは私としっかり目を合わせた。
「私は幸福復讐推進協会の者なんですよ?栗田さんが幸福になってもらうことで復讐をなせるようサポートするのが私の役割なのです」
今度は私がまばたきをする番だった。
すっかり忘れていた、という訳ではないが改めて言われると非現実的な話である。
「復讐対象者は後藤さんと八重さんの二人だと私は認識しておりましたが。合ってますよね?」
「…はい」
私は頷く。
最近は日常生活が充実しているために前ほど気持ちが沈むことはなくなったが、彼らを許せない気持ちはまだまだ消えていない。
「なので気持ちで負けてはいけません」
ココノはゆっくり息を吸って私を見る。
「いいですか?私は栗田さんに武器をお渡ししました」
「武器ですか?」
「えぇ、そうです」
ココノは近くに置いてあった鏡を手に取ると私に手渡す。
「鏡を見て下さい」
言われた通りに鏡を見ると当然私が写る。
今日の化粧の仕上がりもなかなかのものだ。
「栗田さんは以前よりずっと、ずっと綺麗になられました。化粧の力だけではありませんよ?日常のスキンケアを栗田さんがしっかり頑張られたからこそです」
鏡から顔を上げるとココノと目が合う。
ココノはにっこり笑うと言葉を続けた。
「八重さんよりずっとお綺麗ですよ?それをしっかり自覚して胸を張って下さい」
そう言うとココノは立ち上がって横に置いてあったポンチョを着た。
「気持ちで負けないで下さい。よく見てみれば彼らなんて大した存在ではないなと思えるでしょうから」
ココノはポンチョの裾を翻して部屋を出ていく。
私はぼんやりとココノを見ていた。
気持ちで負けないとはなんだろう。
「本日はこれで。栗田さんも急いだほうがいいですよ」
急いだほうがいいというココノの言葉で我に返った時、ココノはすでに帰った後で部屋には誰も居なかった。
時計を見るとあと5分で普段家を出ている時間である。
私は急いで鞄にポーチを入れてコンタクトレンズを装着して家を出る。
駅へ向かいながら私はココノの言葉を脳内で繰り返していた。
会社では書類整理の仕事を淡々とこなしていった。
お昼はココノに勧められたレシピで作成したお弁当だ。
かなり美味しくできた事に満足しつつ食べて、また仕事をこなす。
そして、定時きっかりにタイムカードを切ると私は職場である倉庫から出た。
エレベーターホールへの階段を上がりながらスマホで六条へ連絡をいれる。
そして会社からは出ずに1階のお手洗いへと向かった。
1階のお手洗いは来客用も兼ねているためとても綺麗で化粧直し用の鏡があるのだ。
まるでデパートのお手洗いのようで女性社員は帰りにここで化粧直しをしてからデートに行く人が多い。
私はお手洗いに入ると化粧直しのために鏡の前に行き鞄からポーチを取り出した。
鏡を覗き込むと少し疲れた雰囲気の私と目が合う。
何となく微笑みかけてからポーチの中からティッシュと綿棒を取り出してよれてしまっている化粧を取っていく。
ある程度綺麗になったところでポーチから化粧品を取り出して鏡の前に並べた。
本格的に化粧を直し始めた時、隣で物音がしたので顔を上げる。
鏡越しに隣を見るとなんと八重先輩が隣で化粧直しを始めようとしていた。
驚いて声が出そうになるのを私はぐっとこらえる。
出していた化粧品をポーチにしまおうと手を伸ばしたところで私は朝のココノの言葉を思い出す。
『気持ちで負けないで下さい』
そうだった。
なぜ私が逃げるようにこの場を去らなければいけないのだ。
私は心の中で自分の頬を叩いて気合を入れ、背筋を伸ばすと改めて化粧直しを続ける。
「奈々ちゃん?」
先輩から声をかけられて私は体がはねそうになるのを必死にこらえた。
「お久しぶりですね、先輩」
私は鏡越しに先輩へと笑顔を向ける。
「そうでもないよ!この間エレベーターホールで会ったでしょ?」
先輩はにこやかにそう言ってきた。
「そうそう、この間のあの人とはどういう関係なのー?」
先輩はポーチから化粧品を取り出して化粧直しを始めた。
「あの人?」
「とぼけないでよー。ほら社長と一緒に居た不動産オーナーの人!」
「あぁ…」
六条の事だろうと思い至る。
「高校の時の同級生なんです」
「へぇー…。そうなんだー」
自分から聞いたくせに先輩は興味なさそにそう言って顔にパウダーをはたいている。
先輩の化粧直しの様子を鏡越しに眺めていると私は先輩の雰囲気に違和感を感じた。
思わずじっと眺めていると鏡越しに先輩と目が合って睨まれる。
「…何?」
「へ?いえ…」
違和感を上手く説明できない私は口籠った。
先輩は訝しげな表情をしていたが何かに気がついた表情になってにんまりと笑う。
「これ?いいでしょ?ホワイトデーに樹くんがくれたの」
そう言って先輩は嬉しそうに手元のポーチを持ち上げて私へ見せつけてきた。
嫌味な言い方にイラッといたが、それより先輩の違和感の方が気になる。
「え?えぇ…、そうですね」
ポーチの事なんて全然見ていなかった私は改めて先輩のポーチを見た。
「あ、それあの限定春コスメですか?」
「そうなの!樹くんが私に似合うだろうって予約してくれてたみたいで!」
それは以前まだ先輩と仲かが良かった時に可愛いと話題にしていたコスメブランドのセットだった。
数量限定のため予約必須のセットで、ついてくるポーチがとても可愛いと話していたものだ。
「でも、それってコスメの内容は選べないですよね…?」
私の言葉に先輩は不思議そうな顔をする。
「それはそうでしょう?」
「それならあの色味のものって先輩に似合わないような…?」
最近は私もココノに影響されて似合うカラーが分かるようになってきている。
そもそも私も先輩もポーチは可愛いけれど値段は可愛くないし、セットの化粧品も上手く使える自信がないから予約しなかったのではなかったか。
そう考えていたところ、私は先輩の雰囲気に対する違和感の正体に気がついた。
「あ、先輩もしかしてこのセット使ってお化粧してるんですか?」
「そうだけど…」
「どうりで!」
似合わない色味の化粧品を使っていれば雰囲気も変わるだろう。
私は一人で納得して頷いた。
「ちょっと、なにがどうりなのよ」
先輩は意味が分からないという表情でこちらを見た。
「いえ、なんでもないです」
私は改めて先輩の方を見る。
似合わない色味の化粧を施した先輩は以前よりも美人度が下がっているように感じた。
直接目が合った先輩は不愉快そうに顔を歪める。
「どういう事よ?」
「いえ!ほんと何でもないです。樹と仲良くやっているようで私安心しました」
私は心からの笑顔を浮かべると唇にグロスを塗って化粧を仕上げる。
自画自賛になるがなかなか美人に仕上がっている。
「お先にー」
キョトンとしている先輩を置いてお手洗いを出る。
ココノの言った通りだった。
八重先輩、恐るるに足らず。
私は上機嫌で六条が待っている駅へと向かう。
駅の改札口に近づくとスマホをいじっている六条の姿が見えた。
視線に気がついたのか顔を上げた六条と目が合う。
六条は笑顔になって耳からワイヤレスイヤホンを外した。
「ごめん、遅かったかな?」
「大丈夫、全然待ってないよ」
小走りで六条に近寄る。
「何聞いてたの?」
そう聞くと六条はいたずらっぽく笑いながらイヤホンをケースにしまう。
「ナイショ」
「何それ」
不満げに唇を尖らせて見せるが六条は笑うだけだ。
「じゃ、行こうか。今日はちゃんとお店予約してきたんだ」
「ほんと!楽しみー」
笑顔でそう答えると六条も笑顔で歩きだした。
「なんだか機嫌良さそうだね?いい事でもあった?」
私の顔を覗き込みながらそう言う六条に笑い返す私の足取りは軽い。
「わかる?今日はたくさん食べれそう!」
そう言うと六条は笑って「好きなだけどうぞ」と言った。