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順調な人生だと思っていた。
中学高校を卒なく卒業して、そこそこの大学へ進学して、そこそこの会社の事務員として働き出す。
彼氏は大学時代にできた人と続いていて、このまま結婚して幸せな家庭を築いていくんだろうなぁなんて思っていた。
でもそれは間違いで、ちょっとした事件で人生はがらりと変わってしまう。
そのちょっとした事件が起きたのは年が明けて少し経ってから。
年明けの忙しさがまだ続いており、私は残業の日々だった。
あまり残業のない事務職である私は残業に慣れておらず、精神的にも体力的にも疲れていた。
その日の残業を終えて会社から出ると外は冷たい風が吹いていた。
一人暮らしの私は帰っても出迎えてくれる人が居ない。
体だけでなく心まで寒くなってきた私は、精神的な癒しを求めて彼の家に向かった。
大学時代から付き合い始めた彼は付き合いたての頃からずっと優しい。
遅くても夜には必ず通話をしてくれるし私の我儘を色々聞いてくれるのでついつい甘えてしまう。
愛しの彼を思い浮かべながら足取り軽く歩いている途中、路地裏の暗がりに人影が見えた。
人影は2つ。おそらく男性と女性。
まるでドラマのワンシーンのように寄り添っている。
男女を横目に通り過ぎようとした時、隣を車が通り過ぎた。
車のライトに人影が照らされて、それが私の彼氏と職場の先輩だと気がついた。
頭の中が真っ白になって足が止まった。
どうして2人が暗がりで寄り添っているのだろうか。
唖然と見つめる私の目の前で彼と先輩は寄り添い体を密着させて、ディープなキスを始めた。
2人にはお互いしか見えていないらしく近くにいる私には全く気がつかない。
心臓が飛び出るのではないと思うほどバクバクと脈打つ。
2人はキスを止めると抱き合って、路地裏から出るため私の方へと歩き出した。
ふと、顔を上げた彼と目があう。
彼、後藤 樹は面白いくらいに目を見開いて口までぽかんと開けて立ち止まった。
なかなかな間抜け面に、そんな状況でもないのに笑いがこみ上げてくる。
立ち止まってしまった樹を先輩は不思議そうに見上げ、樹と同じように視線を私へと向ける。
そして目が合うと先輩も樹と同じように目を見開いて口をぽかんと開けた。
2つ並ぶ間抜け面に私は思わず笑ってしまう。
上手くは笑えなくて口の端がピクピクするだけだったけれども。
「奈々!これは、これは違うんだ!」
はっとした表情になった樹がそう叫びながら私へと近づいてきた。
そして必死な様子で私の肩を掴む。
「これは、そう!誤解なんだ!信じてくれるよな?」
信じるも何も私はまだ何も言ってないと上手く働いていない頭で考える。
「そう!奈々ちゃん、これはちょっとした遊びのようなものというかそのようなもので、とにかく誤解なの!」
そう言いながら先輩も私へと駆け寄ってくる。
カツカツと先輩のヒールの音がやけに響く。
先輩の発言はほとんど浮気を認めているような内容なのだが本人は気がついているのだろうか。
「奈々、大丈夫か?顔色が悪い、急いで帰ろう」
顔色が悪いことの原因である樹がさも心配していますという雰囲気で私の背中へと手を伸ばす。
「やめて!!!」
全身を嫌悪感が駆け巡り、とっさに樹の手を振り払いながら私は2人と距離を取った。
行き場をなくした樹の手が宙をさ迷う。
「誤解?何が誤解なのよ?さっきそこの路地裏で2人はキスしてたの私、見たんだから!」
たいして大きな声を出しているわけでもないのに息が上がって涙がこみ上げてきた。
オロオロと胸の前で手を組む先輩がやけに腹立たしい。
「浮気してたなんて、酷い!先輩だって今日は用事あるって言うから、私仕事を引き受けたんですよ?用事って私の彼と浮気することだったんですか?」
「それは誤解なの!私はただ樹くんの相談に乗っていただけで……」
「相談?どこの世界にディープキスをしながらする相談があるんです!?」
浮気をしながらもごまかそうとする2人への怒りと悲しみが溢れて、ボロボロと涙が出る。
そのせいで視界が悪くなっている。
ぼやけた世界で樹と先輩が私と向き合う。
「私のこと2人で騙していたんですね?2人とも信じてたのに」
「奈々、落ち着けって。俺も春花も騙してないし浮気もしてない。お前の勘違いだ」
まるで小さい子に言い聞かせるような樹の優しげな声音に感情が更に爆発する。
「そんな訳ないじゃない!なに馬鹿な事言ってるの?先輩と名前で呼び合ってキスまでしてたんだよ?」
「だから!勘違いだって、俺と春花は確かに名前で呼び合っているけどそれはお前を通して仲良くなっただけ、それにキスなんてしてない。それはお前の勘違いだ。暗くて見間違えたんじゃないか?」
「そう!そうよ、暗かったから奈々ちゃんが見間違えただけで、えっと…樹くんには目に入ったゴミを取ってもらってただけだから」
最初に目が合った時のぽかんとした表情はどこへやら2人は勢いよく話す。
しかも先輩は先ほどの遊びのようなもの発言を忘れてしまっている。
「見間違えのはずがない」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「しっかり見たもの」
涙で歪む視界とは裏腹に2人がキスをしている様子はまざまざと思い浮かぶ。
「だからそれが見間違いだって言ってんだよ」
樹はこれみよがしに大きなため息を吐いた。
私が責める立場のはずなのに何故か私が責めれているような口調に怒りで目の前がぐらぐらする。
「見間違いじゃない、しっかり見た」
今すぐにでも殴りかかりたいのを必死にこらえ2人を睨みつける。
先輩がそっと彼の後ろに隠れるのが見えた。彼は私をしっかりと睨み返してくる。
しばらく睨み合っていると樹がまた大きなため息を吐いた。
「お前さ、そうやって主張し続けたらいつか俺が折れて謝るとでも思ってるの?」
「は?」
「いっつもいっつもさ、意見が割れれば折れるのは俺で謝るのも俺!お前の機嫌必死でとってさ」
樹の予期せぬ言葉に今度は私がぽかんとする。
あまりにも唐突だったため先ほどまで渦巻いていた怒りが吹き飛んでいくのを感じた。
涙で歪んだ視界の奥で樹は心底嫌そうな、呆れたような表情をしている。
「夜だって毎晩毎晩どうでもいい愚痴を延々と聞かされる身にもなれよ。お前一回でも俺の愚痴聞いたことあるか?ないだろ?いっつも自分のことばっかだもんな」
「ちょっと、樹くん止めて」
私に話しかけながら樹は後ろに居た先輩を抱き寄せると得意げな表情になる。
先輩も口では拒むような事を言っているが表情は明るい。
「それに比べて、春花は俺の話を聞いてくれるし何事にも俺を優先してくれる。話してて楽しいんだよ」
「……私と話すのは楽しくなかったってこと?」
「当たり前だろ?さっきまでの話聞いてた?お前頭悪いよなー…。ほんとお前みたいなのが大学出てて春花が短大卒なのがかわいそーだわ」
ニヤニヤと笑いながら樹が先輩の頭にキスを落とす。
先輩は再度拒むような責めるような言葉を言うも表情が緩みきっていて説得力はかけらもない。
怒りと悲しみがごちゃまぜになって私は言葉を発することが出来なかった。
ただ、涙は止まった。
「もうちょっと自分を顧みたほうがいいんじゃないの?じゃ、奈々バイバイ。今までありがとう」
先輩の腰を抱いて樹は私に背を向けた。
「私が悪いって言いたいの?」
私の呟きは小さすぎて樹にも先輩に届かなった。
私は駅に向かって駆け出した。
今までにないほど全力で走って、途中の段差に躓いて盛大に転んだ。
幸い鞄はしっかり口の閉じるタイプだったので中身が飛び出るなんて事にはならなかったが、膝を思い切り擦りむいてしまった。
履いていたタイツが破けて擦りむいた膝から血が流れる。
立ち上がろうとしたが足に力が入らなくて立ち上がれなかった。
のろのろとした動きで鞄からハンカチを取り出して膝に当てた。
お気に入りのハンカチが泥と血で汚れていく。
座り込んだ地面はコンクリートでとても冷たくて、体温を奪っていく。
「私が何をしたっていうのよ…」
ポツリと呟くと止まったはずの涙が再び溢れてきた。
泣きながら立ち上がって再び駅を目指す。
泥と血に汚れたお気に入りのハンカチは駅のゴミ箱に捨てた。