Chapter 19 流れ
1
耳に届く虫たちの不思議なしらべ。部屋の片隅に置かれた観葉植物はそれ自体が発光し幻想的に部屋を照らし出す。
――たまには泊まっていきなよ――
姉は言いながら空き部屋にベットを出現させた。
空間に浮かび上がる時刻。すでにダイブしてから十時間が経過している。現実世界の自分の体にはカテーテルが挿入されているだろう。
身を包む布団は驚くほど快適だ。現実世界のそれよりも遥かに肌触りがよく、重量を感じさせない。マットレスにいたっては身体を受け止めると言うより、重力から身体を開放するかの如く触肌感が無いのだ。
この寝心地を現実世界で再現できたなら、メガヒット商品どころかノーベル賞ものなのではないか? と思ってしまう。
その魔法のような寝心地とは裏腹に、いつまでも思考は迷宮を彷徨い続ける。
自分はどうするべきなのか。
『一つ、そのプログラムを使い、フロンティアの住人となるか』
『もし、君がどうしても、もう一度、愛に逢いたいと言うのなら、一番目を選択したまえ。それ以外に道は無い』
愛の父親が自分へと突きつけた言葉が蘇る。
自分にとって愛は何なのか。愛とは何も特別な関係ではなかった。愛に好意を抱いているのは間違いない。
けど、それは恋愛的な意味でなのか。分からない。仮にそうだったとして自分は何処までの覚悟があるのか。
愛に逢いたい。ただその気持ちだけが自分の中で膨らんでいくのが分かる。胸を引き裂くような痛みと共に。
恐らく、自分は謝りたいのだ。あの時、何もできなかったことを。愛に重い業を背負わせてしまったことを。愛の『現実世界のいろんな場所を見たい』と言う些細な望みを叶えてあげられなかったことを。
この世界を選べば現実世界との決別を意味する。この世界は現実世界に戦いを挑もうとしているのだから。
それでも、自分の中で意外にも感情的なハードルが低いことに気づく。けど、恐らくそれは『覚悟』では無い。『逃避』だ。
『二つ、フロンティアとの繋がりを断ち切り、現実世界で生きていくか』
現実世界で自分を取り巻く環境。
自分の扱いはフロンティア側に感情を寄せる異端者であり、あの事件で同世代の少年二人に一生残る傷を負わせた須郷たちの同類だ。いや、ウィンドウの中の報道映像を見ればわかる。彼等にとっては須郷達が被害者で、自分達が加害者だ。
世間的に見て自分は間違いを犯した。それは認める。けど後悔はしない。奴らは自分以上に非道で残虐な行為を行ったのだから。
全ては自分が荒れていた時期に行った行動の『付け』だ。
彼等にとっては、フロンティアにつながりを持つ人間が犯したルール違反は格好の非難の対象となる。それは分かっていたはずなのに。
再び世間に背を向け、ひきこもる生活をしている自分。正直もううんざりだった。
ただでさえ、自分につながりの深い者の殆どはフロンティア内に居るのだ。
――こっちに来ちゃいなよ。現実世界側で報道されてるニュース、見た…… 貴方も辛いでしょう…… ごめんね。私たちのせいで――
姉が言った言葉が脳裏に蘇る。
『三つ、私から聞いた全ての情報を持って、現実世界で誰かを動かし、私がしようとしていることを止めるか』
論外だ。そんな事をして何になるのか。現実世界に『フロンティアに生きる者の思い』を伝える機会すら与えられないまま、この世界が滅びるだけだ。
『四つ、あるいはそれ以外か』
自分はどうするべきなのか分からない。振出しに戻った。
――私は守りたいだけだ。この世界を。出来れば『現実世界と繋がりのあるこの世界』をね――
愛の父親の言葉。それこそが愛の思いでもあるのだろう。そして愛が何よりも現実世界で伝えたかったことだ。
なら、何をすればいいのか。分からない。
けど、少なくともこのままフロンティアには渡れない。現実世界に居なくては出来ないことがある。それは確かだ。
せめてフロンティアと現実世界の間に決定的な事象が起きるまでは。
何より愛の父親は言ったのだ。『フロンティアと現実世界の間に起きることをしっかりと見届け、答えを出せ』と。
2
開いたウィンドウをひたすらめくる。それがここ最近の日課だ。フロンティアのために活動する人々の足跡を闇雲に追い続ける。
追いつめられる感覚。湧き上がる焦り。国際会議まで、あと一週間強しかないのだ。
けど、何もできない。自分はあまりに力の無い人間だと言うことを思い知る。
現実世界でフロンティアとこの世界との間に起きることを見届ける。そう決めた。
――でも、それだけじゃ駄目だ。
何かしたい。何かないのか。全ての流れを覆すような、大それた事じゃなくていい。
愛は必死で戦ってきたのだ。この流れを変えようと。
なのに、自分は愛の活動を『無理だ』と決めつけ、何処か冷めた目で見守り続けてきた。何故あの時、愛と一緒に訴えなかったのか。
そして、その機会は永遠に失われてしまった。全てが遅すぎたのだ。悔いても悔やみきれない。
胸を刺すような痛み。それに抗うようにウィンドウをひたすらめくる。
3
彰人はウィンドウの中の一つのサイトに目を止めた。
『魂の天秤』と題されたページ。閲覧数が、検索キーワードの中でかなり上位に位置する。逆にそれが見落とした理由だ。
フロンティア関連のキーワードで検索すれば、否定的な情報を発信するサイトが閲覧上位に来る。
『魂の天秤』と書かれた題名の下に続くページ作成者の思い。それは愛が伝えたかったそのものだ。このページはフロンティアの者によって作られたのだと直感する。
メッセージと共に現れる映像。雲を遥かにつきぬけ重力を無視して聳えるフロンティアの象徴。タワーを中心に広がる都市部には多くの人が行きかう。
やがて映像は切り換り、次に映し出されたのは、手を繋ぎ歩く恋人達の姿。それは子供の誕生日を祝う家族の姿へと切り換り、次々とフロンティアの人の営みが映し出されていく。
――フロンティア内には多くの人が生きています。子供だっています。社会を形成し、一つの世界を形作っています。
ですが、すでにフロンティアには未来を担うべき幼少期の子共が居ません。自分の住む世界から、人が一人、また一人と消えていく。子を持つことも許されず、新たな流入も認められない。滅びを待つだけの世界。
私は純粋にフロンティアに生まれ、そこで育ちました。ですから、私にとってはフロンティアが唯一の故郷です――
耐えるように瞳を閉じた愛の姿が鮮明に思い出される。
心がザワめくのを感じた。
――まさか、君なのか……?
映像の終りにゆっくりと浮かび上がったメッセージ。
『世界を作ったのが『神』でないのなら、自分達と同じ『人』であるならば、私達の思いはきっと通じる。私はそう信じたい』
それを見た瞬間、全身に鳥肌が立つ。
以前愛が言っていた言葉と一字一句違わぬ言葉。
――でも、私は信じたい。世界を作ったのが『神』でないのなら、自分達と同じ『人』であるならば、私達の思いはきっと通じる――
心に広がっていく表現のしようの無い感情。
――愛はまだ、諦めてなかったんだ……
今度こそ、今度こそ愛と共に戦う。例え、それに彼女が気づかなかったとしても。
そのサイトのBBSに書き込みをする。愛に向けての一応援者としての声援。
そして気づく。会議当日に大掛かりなデモが予定されていることに。それはBBSの中で自然と発生した意思だ。参加者を募るページへと飛ぶ。
彰人はその参加人数に目を見開いた。このカウンターの数が本当なら、参加者は五万を越える。フロンティア関連でのデモとしては最大規模となるはずだ。
厚生労働省を取り囲んでのデモ活動。
――これでは駄目だ
これだけの人数が参加するならもっと有効な場所がある。
頭の片隅に有った可能性。愛はそんなことは望んでないのかもしれない。けど、何かを成すためには行動が必要だ。
自分一人では、果てしなく効果は薄い。でも、フロンティアに肉親を持つ者を中心にこれだけの支援者を集めるサイトなら届くかもしれない。
嘗てから、考えていた可能性。それは、議決予定日の前日からビックサイエンスの超解像度ダイブシステムを使用して、ぶっ続けでフロンティアにダイブし続けると言うものだ。
ダイブシステムの数からはみ出た者はビックサイエンスの敷地内で携帯端末を使用してダイブする。ビックサイエンスに移動困難な者は、可能な場所からのダイブだ。
一人二人ではメッセージ性は小さい。
けど、このサイトに募る人たちの一握りでも行動に移してくれたなら、それは大きな盾となる。
ビックサイエンスに多くの人が集まること、それ自体に意味があるのだ。
愛の父は言っていた。
『我等が世界は、現実世界においては東京の一施設に過ぎず、破壊はあまりに容易だ』と。
けど、ビックサイエンスに数万人もの人がいては破壊など出来ようはずがない。
しかもフロンティアに超深度ダイブ中の者が多量に居る状況では電源すら切れない。切断時の過電流で、被験者の脳に何が起きるか分からないのだから。
自分が意図する事を書き込む。何故ビックサイエンスなのか。
そして伝えるべきリスク。会議当日、フロンティアが何かしらの行動に出る可能性。政府が何かしらの強制手段を用いる可能性。
彰人はそこまで書き込んで手を止めた。
自分が今やろうとしているのは『人の盾』を募るものだ。命を盾にしようとする非道な行為だ。なのに、自分は知っている情報の全てを開示してはいない。これから起こるであろう未来について正しく伝えていないのだ。
全てを書くわけには行かない。必要悪なんて言葉で片付けられるものではない。
瞳を閉じる。『命を懸けて参加する意思のあるもの』などと限定しても意味が無い。
書き込みの一部を消し、修正する。『もし、現実世界とフロンティアの間に大きな異変があったら、ビックサイエンスの超解像度ダイブシステムを目指せ』
前日からのダイブが好ましいが、それを募ることは出来ない。リスクを正しく伝えられないのだから。
なら、事が起きた後だ。それでビックサイエンスにたどり着けるかどうかは、解らない。超解像度ダイブシステムが使えるのかどうかも。
けど、ビッグサイエンスには多くのフロンティアの協力者がいると愛の父親は言っていた。そこに賭けるしかない。
フロンティアと現実世界が戦闘に突入した場合、フロンティアに肉親を持ち、脳にインプラント処置を受けた者は『死神からの招待状』を受け取るはずだ。
そして街はかなりの混乱状態となるに違いない。そのような状況で尚、命を賭けビックサイエンスに向かおうと者を募る。
そんな状況で何人がそのような行動をとってくれるのか解らない。それでも覚悟の無い者を巻き込むよりは遥かにマシだ。
それで自分が行おうとしていることの非道さが、軽減されるわけでは決して無いが。
自分の呼びかけを真剣に読んでくれる人がいるのかすらも解らない。
けど、自分にはこれくらいしか出来ることがない。
そして、自分は前日からビックサイエンスのダイブシステムを使い最初の盾となる。