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Chapter 12 始まり


1



 浴室に漂う仄かな香り。愛がお気に入りの入浴剤が湯船を透明感のあるピンク色に染め上げている。


 愛が家に来るまではさら湯だった。


 入浴剤の効能だけなら、愛にとっては無意味なのかもしれない。けど、『好きな色と、香り』に囲まれるのは、それだけでリラックスできるのだそうだ。


 けど、今日の自分はリラックスとは程遠い。それは愛も同じだっただろう。先に風呂から上がってきた愛の表情を見れば明らかだ。


 一人になると、どうしても考えてしまうのだ。今日の昼に千葉が言っていた事を。もし噂が本当だったとしたら、事態はかなり深刻だ。


 朝倉は誰にも相談もできずに、実質家に軟禁されている状態だ。


 けど、そんな事がありえるだろうか? 学校には自分で連絡して『体調不良』と言ったのだそうだ。


 いくら何でも、全く助けを求められないなんて事があるのだろうか。


 精神状態によっては有りえるか……


 追い詰められれば正常な思考は働かなくなる。実際、学内で彼等の虐めの対象となった時点では、反抗的な態度を見せ、教師にも相談していたらしい。


 それでも、必要に繰り返される嫌がらせ。徐々に友人達も、巻き込まれるのを恐れて彼女から遠ざかって行く。孤立してしまえば、もう彼女には成す術がない。味方はいないのだ。最終的には殆ど、彼等の言われるがままにまでなった。


 心の奥底にまで突き刺さった恐怖は、彼女の思考を奪うには十分すぎるだろう。


 虐めにあった経験は自分にもある。だからそれが良く分る。


 自分が虐めにあったのは、母と姉が『他界』し、ヒューマノイドが家にいつくようになってからだ。


 当時、幼稚園の年長だった自分はメイに送り迎えをされるようになった。


 今より三機種も前。現在の型ですら、『愛の存在によって更新された感情模倣プログラム』が無ければ、酷い有様だ。当時の物はさらに酷かった。


 嫌でも目立った。


 それが虐めに発展するのに時間はかからなかった。虐めは小学校に上がって尚、続く。クラスに同じ幼稚園だった者が居たためだ。


 高学年になり、遂に自分の中で何かが爆発した。自分を虐める者に対して、椅子を投げつけ、金属製の一メートル定規で相手が気絶するまで殴り続けた。


 無我夢中だった。それほどまでに追い詰められていたのだ。


 殴るのを止めたのは相手が気絶したからじゃない。死んだと思ったからだ。自分は相手を殺す気でいたのだ。たぶん。


 そして最初の転校。


 父とは、このあたりから疎遠になって行く。


 転校後は自分を守るために、周りの者を威嚇し続けた。それによってトラブルは余計に増え、喧嘩三昧の日常になって行く。


 それでも、自分はマシな方だったのかもしれない。一方的な虐めから脱出できる機会が有ったのだから。


2


 視界に唐突に開いたウィンドウ。それによって思考が強制的に停止させられる。ウィンドウには愛からのメッセージを受け取った事を知らせる通知が表示されていた。


――なにもこの距離でメッセンジャーを使わなくても……


 風呂から自分が上がるまで待てなかったのだろうか。


 だが、その疑問は直ぐに解消される。


 彰人はメッセージの内容に思わず立ち上がった。あまりに急に立ち上がったために、立ちくらみに襲われる。


 急速に闇に閉ざされようとする視界。それを強引に記憶で補いつつドアを開け放ち、浴室から飛び出た。そして身体を雑に噴き上げ、最低限の衣服を身に着けると、リビングへと急ぐ。


 自分がリビングに入ると愛が立ち上がった。


 強い決意と不安を同時に宿した瞳が自分を見つめる。その意志に応えるべく大げさに頷く。


 自分が受け取った愛からのメッセージと共に転送されてきたSNS。それは朝倉から愛へと送られた物だ。『助けてほしい』と記された題名。


 『逢って相談に乗って欲しい』との一文から始まる文章。相談の内容は須郷達の事だと容易に想像がつく。


 ただし、指定の時間があまりに急だ。今から一時間後。彼女が通学に使用していた駅の目の前にある公園が指定されていた。今から用意して出て、僅かに余裕がある程度だ。


 SNSの内容は後半になるにしたがって、支離滅裂になり理解がするのが難しくなる。何とか理解できるのが次の一文までだ。


 『急でゴメン。でも時間が無い。この機会を逃せば、多分もう会えない。貴方達しか頼れる人がいない。……もう限界』


 極端に短い文章の羅列。しかも理由や状況が一切、省かれてしまっているために、大量の疑問が頭を占領する。


 けど、詮索する時間は無い。指定時刻に指定場所に着くには直ぐに行動を起こさねばならないのだ。そして何より、この先に続く『死』や『殺』と言ったゾッとするような単語が至る所に登場する意味不明な文章。生徒会の役員を務めた彼女の印象からはあまりにかけ離れている。彼女の精神状態はそれだけ危機的なのだ。


 愛が無言で頷きリビングから出ていく。自分もそれを追うように廊下に出た。


3



 自室で急いで身支度をしながら、思考を巡らす。


 急がなければならない。それは分かっている。けど、問題が山積みだ。


 まずは、メイとネットワークでつながっているこの家のセキュリティーが厄介だ。こんな時間に外出しようとすれば必ずメイに止められる。法律的に自分達の年齢では出歩けない時間だ。


 もっとも、よほど運が悪いか、繁華街をうろつくことをしなければ、補導されるようなことは滅多にない。


 けど、恐らくメイは何を言っても聞き入れようとはしない。それを無視して行動すれば、彼女は躊躇なく家の警報を作動させ、父が下りてくるまで自分を拘束するだろう。


 メイは愛とは違う。彼女は『人』では無いのだ。いかに表情が『人』に近付こうとも。そしてメイにとって、間違いなく法律は最上位命令の一つだ。


 これを何とかやり過ごしたとして、敷地には愛の警護を目的とするガードマンが4人も徘徊する上に、彼等が持ち込んだドロイドが2体もうろついている。さらに敷地の外には報道関係者だ。


――どうすればいい?


 思考を巡らしながら、イヤホン型デバイスを耳に挿入する。さらに、普段なら耳殻が痛くなるため、滅多に使用することが無い補助固定具を装着した。これで激しく動いたとしてもデバイスが落下してしまう事は無い。


 愛とは常に意志が疎通できる状態にしておきたい。そしてなにより、思考入力で動作するこの端末は、いざと言う時、一番確実な外部との連絡手段になる。


 想定する必要が有るかは分からないが、手足が使えなくとも、喋る事すらできなくとも、思考だけで全ての操作ができるのだから。


4


「本当は、あまりこう言う事はしたくないんだけど……」


 少しうつむき加減で、自嘲気味な笑みを浮かべた愛。その瞬間、愛を取り囲むように大量のウィンドウが開いた。愛はそれらのウィンドウを少し考え込むように眺める。


「うん、大丈夫。何とかなりそう……」


 呟くと同時に、愛の視線の先で、英文の交じった複雑な文字と記号の羅列が、凄まじい速度で流れ始めた。


 愛が何をしようとしているのか、解らない。リビングに戻り『家を出るまでの障害』について伝えると、愛は少し考えた後「それは、自分が何とかすると」言った。


 だから従うしかない。


 キッチンにはメイが居たが、自分達が『家を抜け出す相談』をしていたと言うのに、まるで関心が無いかの如く、片付けを続けている。


 メイは人の話を盗み聞きをすることは決してないのだ。聞こえていようといまいと。


 やはりメイは根本的には何も変わってはいないと最近強く感じる。だから、尚更、自分達が家を出ようとすれば必ず、止めに来る。


「彰人、メイが倒れないように支えてあげて」

「え?」


 意味が解らない。


「早く!」

「あ、ああ……」

 理解できないまま、キッチンで作業を続けるメイの側に駆け寄る。


「彰人様、どうかなされましたか?」

「あ、いや……」


 何と答えてよいか迷った瞬間、メイの身体が一瞬、痙攣したかのようにビクリと震えた。


「支えて!」


 愛の声。次の瞬間、メイが糸の切れた人形のように、目を開いたまま倒れ込んでくる。


「げっ!」


 思わず出る悲鳴。だが身体は何とか反応し、メイを抱きとめる事に成功する。


「まさか、壊したんじゃ……」


 無意識に呟いてしまった自分に、愛はムッとした表情を向けた。


「いくらなんでもそんな事はしない。大丈夫。メイは一〇分後に再起動するよ」

「そ、そうか……」


 完全に沈黙したメイを、壁を背に座らせようとする。


 が、『人』と真逆な意識の失い方をしたメイに、途方に暮れてしまう。


 電源が落ちた事により、全身が脱力するどころか、全ての関節が完全にロックされ、文字通りマネキン人形と化してしまったメイ。しかも自立できない。


――さて、どうするか……


 暫く悩んだ後、彼女を壁に立てかける。


 せめて、ソファーに寝かせてあげげたいが、同じ体形の『人』に比べ、体重が1.5倍程あるのだ。それを行おうとすれば大きな時間ロスになってしまう。


 頭を支えに一本の棒のように壁に立てかけられたメイ。開いたままの眼が自分を恨めしそうに見つめている気がして、本能的に体を震わせた。


「ゴメンな、メイ。今回だけだから」


 思わず、いい訳をし、手を合わせる。


「家のセキュリティーは、一時的に解除したよ」


 殆ど表情を変えずにそう言った愛。彼女を呆然と見つめる。


「愛にそんな特技があったはな……」


 無意識に口から言葉が漏れた。


「フロンティアの性質上、現実世界の人よりはこの手の事は得意。それに、フロンティアに比べると、こっちの世界はインフォメーション・テクノロジーが少し遅れてるの。この家のセキュリティーもそう」

「へぇ……」


 それしか出てこない。


「メイの着替、何処に置いてあるかわかる? 一着、借りたいんだけど」

「あ、ああ…… でも何で?」

「私がメイを演じる。メイの製造コードを一時的に私に上書きするから、それで外のドロイドとガードマンもなんとかなると思う」

「なるほど……」


 殆どこれで全ての条件がそろったに等しい。確かにメイと一緒にならこの時間に外出しても大丈夫だ。


 融通の利かないヒューマノイドは一定条件において保護者と同等の扱いができる。自分が幼い頃はメイが幼稚園に送り迎えをしていたほどだ。


 報道関係者も愛がいないと分かれば、そこまで必要には追ってこないだろう。


「でも、コードを上書きするなら、わざわざ着替えなくたっていいんじゃね?」

「メイが外出する時って、いつもこの格好のままでしょう? 怪しまれる要素は少しでもなくしておいた方がいいと思う。止められて詳しく調べられたら、それだけも時間ロスだし、下手をすればバレかねない」

「それも、そうだな……」


5



「メイの服って前から思ってたんだけど、なんかデザイン変だよね…… 実用的じゃないって言うか」


 言いながら恥じらうように視線を落とした愛。


 メイの服とは、いわゆるメイド服だ。


 言われてみると確かに実用性に欠けるのかもしれない。無駄に胸の膨らみを強調するデザイン。おまけに背中は大胆にカットされ、それを黒いワイヤーで締め上げている。ロングスカートも異様なボリュームがあり、作業に向かなそうだ。


「なんか、良く分らねぇけど、このデザインになってから売上延びたらしいぞ?」


 服装までをもメイと合わせたために、完全に同外観となった愛。けど、やはり根本的な何かが違う。瞳を通して伝わってくる彼女の意志。紛れもない魂の存在を感じる。メイと印象すら違って見えるのだ。


 以前、映像配信で、芸能人にそっくりに作られたヒューマノイドと本人を入れ替えて、周りの者の反応を伺うと言うドッキリ番組を見たことがある。


 そのヒューマノイドは本人の癖や、言動をも忠実に再現していたにも関わらず、大抵の人が数分で偽物だと見破った。


――大丈夫だろうか? これで……


 無意識にそんな事を考える。


「……あまり、ジロジロ見ないで…… 彰人ってこう言うのが好きなの?」


 自分から、視線をそらしながら不意にそう言った愛。その言葉に思わず


「違っ!」


 叫ぶ。その瞬間、愛が噴出した。またもや、自分がからかわれていた事を知る。思わず出る深いため息。


「彰人が何を心配しているかは分かるよ。でも、大丈夫。『人』の真似をヒューマノイドがするのは難しい。けど逆は意外と簡単なの。もちろん練習は必要だけど。


 子供の時、そう言う遊びしなかった? フロンティアにも人型のオブジェクトが与えられたAIが多くいる。こっちの世界のヒューマノイドは、それと比べるとむしろ数が少ないくらい」


「……なるほど」

「それより、早くしないと。メイも含めて、セキュリティーは後5分もしないで復帰するよ」

「ああ、そうだな」


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