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探偵小説の創作 〜ミステリーを書く時に心掛けていること〜  作者: Kan
第四部 ミステリーにおける諸問題
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4 論理小説から、科学小説、逆説小説、トリック(奇術)小説を経て論理小説へ

 前回、お話ししたことについて、さらに説明を重ねますと、実は「真相へと導くロジック」も「つじつまの合う事実」も、犯人サイドと読者サイドという表裏の物語の中では、単純に「犯人のミス」と捉えることができるのです。


 犯人が「完全犯罪」を実行した場合、現場には何の痕跡も残っていないこととなり、手がかりが存在しないために「真相へと導くロジック」も生まれないことになります。


 手がかり(犯人の思想・行動の痕跡)の中で、もっともシンプルかつ代表的なのが「足跡」です。

 たとえば、足跡がそもそも残されていなければ、推理が始まることはありません。犯人が、足跡を残したことでそこに「推理」が発生するわけで、「犯人のミス=手がかり」と捉えられます。

 現場の足跡が、ホテルの部屋の、鴨崎暖炉へと向かっていたとしましょう。すると「犯人は暖炉で何かを燃やしたのだ」という推理が生まれてくるわけです。


 ミスは、足跡でなくても、暖炉の中に手紙の燃え滓が残っていることでも「推理」を生まれることになります。


 たとえば、殺害直後の被害者の死体が「犯人から受け取った手紙」を握りしめていたとしましょう。そこには犯人の文字で、殺人の動機が記されているのです。犯人は、これを早急に抹消しなければなりません。しかし今まさに、出入り口のドアが外からノックされていて、数分後には、探偵と刑事が突入してくる状況にありました。室内にいる犯人は、この場にいて、死体の第一発見者のふりをする他道はないのです。この手紙はどうしましょう。この手紙を自分のポケットにねじ込むようなことはできません。最悪、持ち物検査をされて見つかってしまいますからね。そこで、犯人は咄嗟に、燃え盛る暖炉に手紙を捨てたのです。


 さて、ここで手紙が完全に燃えてしまったら、推理の始まりようがありません。ここで「犯人のミス」に該当するのは「燃え滓が残ること」です。

 被害者が自ら燃やしたものではないことは、燃え滓の残り具合からわかってしまったとしましょう。被害者は死後、二十分くらい経っていたことにでもしておいて……。

 室内にいた人物は、犯人と被害者です。「犯人+被害者−被害者=犯人」なので、犯人が燃やしたということになります。(厳密には、第三者が現場にいたのではないか、という可能性も否定する必要があります)


 探偵は手紙の燃え滓から、こう考えるでしょう。「なぜ犯人は自分に都合の悪い手紙を、部屋から持ち出さずに、現場で焼却しようとしたのか?」これはホワイダニット的な疑問です。この答えは単純です。「犯人=第一発見者なので、その時間的な余裕が存在しなかった」のです。

 これはヴァンダイン的な心理的推理法ですが、論理としては、厳密なものではありません。

 しかし、皆さまはここで、第一発見者が犯人なのではないか、とする推理が生まれていることにお気づきかと思います。

 推理を厳密にするには、それだけ犯人のミスを増やしてゆく必要があります。逆に犯人のミスが少ないと、根拠となる手がかりを失い、推理は想像的なものになってゆきます。

 


 ……だから、ミステリに完全犯罪なんていらないんですよ!!



 ミステリを書くコツは、犯人をポンコツにすることです。ついついミステリに書き慣れていない読者は、立派な犯罪者を生み、完全犯罪を描きたいと考えてしまいがちです。でも刑事コロンボや、古畑任三郎を思い出してください。探偵の推理が発生するところ、それは犯人にとってはミスなのです。作者は、あくまで犯人側の人間なのです。あなたはミスる側の人間です。それも面白くミスる、滑り芸のようなことを要求されているのです。見事な推理小説は、犯人が、そして作者が見事な滑り芸を披露している作品でもあるのです。



 今回は、こんなことを話す回ではありませんでした。ミステリの概念の変遷と多様性の問題を語りたかったのです。


 論理学への関心から、ポーの「モルグ街の殺人」が生まれました。しかし、コナン・ドイルのホームズ探偵譚は、想像の範疇を出ておらず、どちらというと科学捜査のお話という側面が強く出ています。してみると、ミステリの根底には近代的な科学小説という側面があり、SF小説との親和性も高かったように思います。

 ちなみに、コナン・ドイルは「ロストワールド」という恐竜もののSF小説も書いています。

 ホームズのライヴァルである、ソーンダイク博士ものは、まさに科学捜査もののミステリの古典的な例です。

 皆さん。名作「アルミニウムの短刀」を読んでください!


 ところが、ミステリとは以前も語ったように「謎」に対して「意外で合理性のある真相」を提示する小説のことでもあります。この「意外な合理性」を「逆説的なもの」と言い換えることが可能でしょう。

 格言「木の葉を隠すなら森の中」で知られるチェスタトンのブラウン神父シリーズは、もっともストレートに逆説を扱ったミステリ小説であります。科学小説としての側面では飽き足らず、謎に対して「逆説」を提示するミステリの構造が強まってきているように感じます。しかしこの状況においても「謎」と「真相である逆説」は、完璧な論理によって結ばれているわけではありませんでした。チェスタトンから発展したのは密室派の始祖、カーでした。カーはハウダニットとしての面も強く、その関心の多くは不可能犯罪のトリックの手法にありました。ここで、トリック小説としての特徴を持つミステリも出現したわけです(ルルーや、ザングウィルの昔からあるけれど)。このトリック小説的な側面は、やはり純然な論理小説というわけではなくて、いわば奇術のネタバラシ小説のようなものです。ここでも「謎」に対して「真相」が用意されているに過ぎない印象があります。この以前から、ミステリ=トリックという印象が根付いていました。ヴァンダインは、謎に対するアプローチとして、心理的探偵法を模索していました。犯人の性格と、容疑者の性格が一致するかを論点としたものです。「カナリヤ殺人事件」では探偵役が、ポーカーをして、容疑者の性格を調べて犯人の行動に適合するかを問題としています。これは推理というより、捜査ですが、この捜査法もまたミステリの主たる面白みとして認識されていました。エラリー・クイーンに至ると、論理小説としての側面がいよいよ強まり、「Yの悲劇」や「ギリシャ棺の秘密」の傑作を読むと、そこにはスパルタンな論理が展開されており、ミステリの意味合いは、原点であるポーの論理的興味へといよいよたち戻って純化したように感じられます。


 さて、日本に至ってはどうだったのでしょう。戦前、大正から昭和初期にかけて、探偵小説というのは、どちらかというと現在のSF小説に近いものであり、またホラー小説としての特徴も存分に持っていました。江戸川乱歩のエログロナンセンス的な怪奇性を「都市で生活する現代人(近代人?)が抱えている幻想」と捉える文芸批評もある通り、それはお岩さんの東海道四谷怪談に代表される江戸怪談とはまったく異なり、近代日本の都市生活が抱えこんでいた、きわめてモダンな怪談でもありました。戦前の探偵小説は、論理小説ではなく、モダンなサブカル文学だったと言えるでしょう。

 こうした状況の中で、ヴァンダインが流入されると、国内でも、その構成に、相当な衝撃が走ったようです。

 ただ、国家の状況は悪い方向に進み、昭和恐慌後、全体主義的な色彩が強まる中で、個人の死をわざわざ重大事に取り上げる探偵小説の立場は悪くなります。軍部から「国家の命運がかかっているのに何事か」と江戸川乱歩も怒られて、探偵小説作品は廃刊となり、国内では、捕物帳だけ残されるものの、ついに探偵小説は書けなくなってしまうのです。

 終戦後、横溝正史が「よし、これからだ」と叫び、探偵小説復興の気運が高まります。米兵がたくさんミステリ小説を読み捨てていったことで、江戸川乱歩も、横溝正史も、本格派への洗礼を受けます。ポーやドイルとはレベルの異なる、カーの本格派探偵小説などに大変な感動を受けたようです。

 ところが、戦後、本格探偵小説は(戦前、本格派と命名したのは「琥珀のパイプ」の甲賀三郎)ブームが到来します。横溝正史が「本陣殺人事件」で、金田一耕助をデビューさせ、日本家屋での密室殺人を成功させ、「蝶々殺人事件」ではクロフツばりのアリバイトリックを成功させます。日本でも一挙に、本格派ブームが巻き起こるのです。

 このあたりで、高木彬光の「刺青殺人事件」や、角田喜久雄の「高木家の惨劇」、坂口安吾の「不連続殺人事件」などが出揃います。

 ヴァンダインの「グリーン家殺人事件」を、もとにした作品は戦前から国内に多数ありましたが、戦後にもっとも影響力を持った作品のひとつは、ヴァンダインの「僧正殺人事件」です。これはマザーグースの歌詞になぞらえて事件が起こるという斬新なもので、この芸術的な犯罪のユーモラスな魅力は、見立て殺人という愉快なジャンルとその仲間たちを生み出すこととなりました。横溝正史は、この見立て殺人というシチュエーションが好きすぎて、日本でどうしても見立て殺人を起こしたい作家でした。「犬神家の一族」「獄門島」「悪魔の手毬唄」などの作品で、繰り返し、見立て殺人に挑戦していることからもよく知られています。横溝正史は、さらに、カーの影響も存分に受けていて、トリックとシチュエーションという風にミステリ要素を分けて考えた時、カーの巧みなシチュエーションが持っている、ストーリテラー的な面白さに影響を受けまくっていました。ミステリの土壌は、こうしてシチュエーション的にも、肥えていったのです。こうしたことは「犬神家」や「八つ墓村」や「女王蜂」を読んだ方なら、よく理解していただけると思います。


 欧米の黄金時代と、日本のこの戦後本格の時代に生み出された多くの怪奇的なシチュエーションは、本格ミステリを代表する様式となり、新本格へと橋渡しされてゆくのですが、その間は、松本清張が社会派推理小説で台頭し、日本を席巻していたため、こうした本格派系のシチュエーションは非現実なものとして排斥されることとなりました。

 清張以後、綾辻以前の時代の始まりです。本格はこの時点では、論理性というより「非現実なシチュエーションの様式美×トリック趣味」という程度の概念で、変格派探偵小説と一緒くたにされて、社会派によってリアリティと犯罪動機の社会性の脆弱さから、不健全な子供の道楽のように批判され、さんざんなぶられた挙句、駆逐されてしまいます。そして、松本清張は探偵小説を推理小説に変えた男ということがよく言われます。しかし、本格vs社会派という構図はきわめて概念的には不自然です。なぜならば本格の原義は、純粋論理小説というところにあったからです。本格は戦前の探偵小説もろとも駆逐されたようでした。

 非現実的なシチュエーション、トリックやゲーム性を排する中で、社会派はついに「靴を擦り減らして刑事が捜査するだけの風俗小説へと変わっていってしまった」というのが新本格の時点の本格サイドからの批判だったように思います。


 綾辻行人「十角館の殺人」の作中で、登場人物によって語られたのは、本格の復興を目指すことだったのですが、ここでは「本格=純粋な論理的興味」ではなく、「本格=黄金時代や戦後本格にみられる、非現実なシチュエーション、そして非現実なトリック」と認識されていたことがわかります。

 密室殺人に代表される本格派的なトリックの復興という点では、松本清張直後の社会派作家はともかくとしても、その後、七十年代後半になり、西村京太郎や山村美紗の時代にもなると、本格派的なトリックは再び、量産される時代となってきます。すでにトリックが復興を果たしていたことがわかります。山村美紗は、密室殺人のトリックメーカーとして知られ「花の棺」などの名作を残していますし、西村京太郎は型破りな鉄道ものアリバイトリックの達人でした。この時期の作家は当時、本格派の作家として紹介されていました。ここにも歴史的な概念の歪みが生じています。

 新本格に至って本格が復興され、それまでの歴史を、本格派vs社会派の時代という風に歴史叙述することは、どうも混乱を生んでいるように思いますが、当時の鮎川哲也、島田荘司、土屋隆夫の嘆きをみると、本格派撲滅運動は新本格出現まで、ずっと続いていたように見受けられるから不思議です。

 本格派と社会派の、シチュエーションの様式について考えますと、双者にはどのような違いがあるのでしょうか。


 本格派の主なシチュエーションは、呪われた一族、館、クローズドサークル、見立て殺人、怪しげな住人、密室トリックなど、どれも非現実的なもので、さらに怪奇性とゲーム性なども特徴とされます。


 社会派の主なシチュエーションは、松本清張のスタイルを原初形態と成し、リアリズム重視の世界観、探偵役はわりと警察官(私立探偵は非現実的だから)、社会的な動機(貧困、病気、障害、差別などにスポットを当てる)といった特徴があります。ストーリー展開の代表的なパターンは、被害者が殺される前に喋った不可解な言葉から、刑事が捜査を重ね、地方まで捜査に行くパターンです(「砂の器」パターンと僕は呼んでいます)。この時、基本的には、密室トリックのような非現実な設定は使わないことがお約束になります。(しかし森村誠一の「高層の死角」では、すでに密室殺人が復帰を果たしている。1969年江戸川乱歩賞)


 松本清張以降の社会派推理小説は、徐々に推理ではなく、地道な捜査を描くだけの風俗小説となってしまったのだと批判されていました。

 しかし松本清張ら社会派の台頭と、綾辻行人ら新本格派の出現の間の時代に、さまざまなトリック重視の作家が誕生して活躍しているという謎があり、モダンジャズにおける中間派ではありませんが、このあたりの諸勢力の問題も不明確に思います。

 綾辻行人ら、新本格作家の執筆した本格は、従来型の本格派のシチュエーションに加え、折原一的な、叙述トリックもダイナミックに炸裂しています。


 ところで、本格派vs社会派の構図ですが、そもそも本格派の対義語は、変格派で、戦前の探偵小説の持つモダンかつオカルトな作風のことであったはずです。本格派が変格派と一緒くたにされて、社会派にいじめられていたということだと思いますが、それはなによりもリアリズム至上主義からくるシチュエーションやトリック(の存在そのもの)への批判だったのだと思います。そうしてみると、本格という言葉も変転を繰り返し、歴史的に不明格なものであったことがわかります。

 そもそも本格派である横溝正史や高木彬光の作品には、鮎川哲也レベルのスパルタンなロジックは存在しておらず、それはクリスティやヴァンダインやカーやルルーにも共通していたことから、本格派=論理派というわけではないことになります。しかし、甲賀三郎や鮎川哲也の意図する本格派とは、論理派のことでありますから、これはまさしく「論理性を主たる興味とするもの」を意味しているものなのです。

 言葉や概念が流動的なものであることは、民俗学者折口信夫も指摘している通りです。本格派という言葉ないし概念も、単純な言葉の定義では、捉えることのできない、曖昧な共通認識の不連続な連続体であったことがわかるのです。かといって、ここで自己の一方的な関係づけによって、本格の定義を試みたところで、共同体の中での共通認識とならなければ、それは力を持ち得ないものです。しかしながら、歴史は、多元的な共同体の集合体が入り乱れ変化し続けるものであり、ミステリもまたその歴史の一部である限り、存在そのものが変化し続け、本格も、変格も、社会派も、ありとあらゆる概念が歪み、交錯し続けているものなのでしょう。

 しかし、本格派と言われるものを一時的にも、整理するならばこのようなものです。このうちのいずれかが含まれていたら、それは本格派と認識されてきたという経緯から、このうちの一部を有していれば、本格という認識になると思います。


①論理的関心を主眼とするもの

②本格派シチュエーションのロマネスクを有するもの

③トリックを用いるもの


 そして社会派は、リアリズムや警察小説という側面が、本格派やハードボイルド派ともダブると困惑するので、社会問題的な動機という部分だけを残して、


①社会問題的な動機または物語性を有するもの

②松本清張型シチュエーションの様式を踏襲するもの


 とするのは、如何と思いました。しかしながら、サスペンス派や、変格探偵小説にしても、明確に区分できるものではなくて、変格のロマネスクを有しながら、本格のトリックがあったり、社会派の動機をもったり、ストーリー展開をサスペンスに満ち溢れさせることができるものであり、ミステリも間もなく200周年となりますので(あまりにも気が早いかもしれない)ジャズみたいにジャンルそのものが拡がり、混沌としてゆく中、もはや本格は、流派ではなく、要素としてしか捉えられない段階に入ってきたのだろうと思います(あるいは最初からそうだったのか……)。

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