3 ジャズから考えるミステリー創作法
ふざけたタイトルですが、真面目に考えています(笑)僕はジャズが好きですが(ただのリスナーです)良いジャズと悪いジャズで何が違うのか、色々と考えています。そこから、ミステリーに結びつけて考えてみようというのが今回のテーマです。
まずジャズの肝は、「アドリブ」だという点です。ジャズの楽譜は単純なもので、アドリブのパートになると楽譜のコード進行にのっとりながらも、自由な即興演奏を行うことが求められます。
これはミステリーも同じことが言えます。作家ははじめに楽譜 (プロット)を考え、それにのっとりストーリーを展開させれば、まずエタるという大惨事は免れることができます。たまにプロットがあってもエタりますが(笑)この時に、百パーセント、プロットを作っておけば、まず失敗はしないということに理論上はなるでしょう。
ところが、アートという点では、小説やジャズには、その瞬間瞬間のひらめきや感情が、作品に注ぎ込まれる必要が出てくるのです。ですから、作りこまれているプロットの隙間に、自由なアドリブを盛り込んでゆく。そして、ノープロットの方などは、ストーリーの流れを感じながら、自由に展開させてゆくことができるのです。これは、ジャズならば、完全即興のフリージャズのようなものでしょう。
だからこの二つは、論理性と感性のようなものですが、小説であるからには、多かれ少なかれ、アドリブを盛り込んでゆくべきなのです。プロットとアドリブのバランスが常に問題となるところです。
それでは、良いアドリブとはなんでしょうか。これは、ジャズにおいても小説においても、アートであるからには「個性」「感情」が、120パーセント発揮されているアドリブが良いということになります。
例えば、ジャズで言うならば、コルトレーンがテナーサックスを吹きまくっていて、モンクが独特のリズムで「コキーン、パキーン」とピアノを鳴らしているといった時、コルトレーンは120パーセント、キャラ立ちした演奏をしているし、モンクもまた120パーセント、キャラ立ちしている演奏をしているのです。
その「キャラ」とは一言で言えば個性であり、その個性の主体は「感情」だということになるのです。どちらかがどちらかに呑まれてしまって、その代わり、調和しているというのじゃ駄目だと思います。全員が、120パーセント個性を発揮しながら、ぎりぎりのところで、調和が保たれているぐらいじゃないといかんと思うのです。
これを作家は、登場人物でやらんといかんわけです。だから、ホームズは120パーセント個性を発揮していますけど、ワトソン博士が呑まれちゃいかんのです。ワトソン博士はワトソン博士として成立しているから、調和が保たれているという話です。
してみると、僕は作品を書いていて、いつも力及ばず、このキャラは50パーセントしか個性を発揮できていないな、どうしよう、困ったな、とかそういうことを思うわけです。困ったものですね。
ところで、良いジャズは内容が凝縮されているものです。つまりは濃度が濃い。故に、すぐには理解が追いつかないものも多々あるわけです。
小説も、一作の濃度をしっかり濃くしなければいけないと思います。一つのアイデアを薄く広げて、一作を書いてはいけない。薄っぺらなものはとにかく良くないです。だから、僕なんか多作している時は、何も考えずにぽんぽん書いていきますが、そういう僕のやり方は駄目なんです。もったいない気がして、書いてしまうのですが、一作に凝縮させる方が良いんです。たぶん。
次は、ジャズはリラックスに最適な音楽ですけど、同時に、テンションノートという緊張感のある音が入ってくる。つまり、リラックスとテンション(緊張)の入り混じった音楽なんです。すると、どうなるかというと、正反対の効果の真ん中で揺り動かされる快感……例えば、煙草とお酒を一緒に味わうとか(体に悪いそうですよ)、熱湯風呂でアイスクリームを食べるとか、そういった類の快感を味わえるわけです。
だから、小説もリラックスと緊張のバランスでやっていく。僕は、これまで、ずっと動のシーンと静のシーンを交互に、と考えてきましたが、リラックスと緊張と考えたほうが、より本質的ですね。
後はテクニックが良いものの方が良いと思いますが、これは当たり前ですね。ジャズと比べる必要もありません。
あとは、ソウルだとか、ブルースのフィーリングがあった方が良い。これは、小説には、憂鬱な叫びのような要素は多かれ少なかれあると思いますから、別に取り立てて言うことはありませんね。
あとは、ジャズにせよ、小説にせよ、印象的であり、抽象的であり、具体的であれ、ということを思うのですが、印象的であること具体的であることは説明の必要はありませんね。
抽象的というのは、いろいろ考える必要があるかもしれません。小説というのは、説明的であるな、とか、抽象的言語で埋めるな、ということをよく言われます。ですから、具体的で、まさにそこに自分がいるように生々しく表現してゆくべきなのだと思いますが、ジャズの言う抽象的というのは、秋の風景を「枯淡」の一言で片付けるような、味気のないことを言っているわけではありません。
モンクのピアノは「抽象的でムードがない」とよくいわれます(褒め言葉として、です)ところが、実際にはムードはないのではなくて、独特なムードが出ています。独特すぎるあまり、それをムードとして感受できないところがあります。
今のは、ただの脱線ですが、モンクが「パキーン、コキーン、コキ、チャララララララン♬」とピアノを弾いているのは、確かに抽象的です。しかし、モンクはここで秋の風景を「枯淡」の一言で片付けるような安易な抽象化はまったくしていない。抽象化といっても、まったく違います。心象風景を的確に、唯一の手段によって表現しているともとれるでしょう。そういう意味での、抽象化は文章においても必要だと思うのです。
この抽象性にのっとれば、論文風で説明的な文章ではなく、一種異様な詩的文章ができることでしょう。そして、その手法によってのみ表現される内面的世界・心象風景があると思うのです。
自分で言っていて、よく訳が分かりませんが、ジャズと小説を比べてみると面白いですね。