メイドインニッポン橋
「もう来ないでって云ったんだけど。」
女は煙草をふかしながらそう云った。ありきたりのふてぶてしさだ。俺は女からそう頼まれたもののそれを果たさなかった。だからといって悪態をつき煙草をふかすわけにはいかない。第一似合わないし。だが、もう立ち寄らないとも云えなかった。ことの始まりは前の前の日曜だった。俺は初めてメイドなる人に出くわした。そう、TUTUのスカートの、メイド服で道に立っていた。愛らしさより色香を感じてしまった。というか、正直なところその色香に誘われたのだ。そして、その立っている一人に話しかけた。いわゆる呼び込みっていうやつだ。もちろん、当初は行かないつもりだった。しかし、哀切に満ちたもの言いをされたもので無下に出来なかった。きっとノルマが課せられていたのだろう。
「驚いた。お客が会社の人間だったから」
女は薄笑み浮かべていた。意図してのものだろう。いわば、不敵さを漂わすために。そういえば、連れて行かれた店のおっさんもそうだった。店の料金システムを説明する間の薄笑みに、ふんだくってやろうという魂胆が見え透いていた。俺は落語の無い物買いのように、そういう店ではないと知りながら、メイドが並んで座る接客のサービスがないのならいらないと云った。おっさんはそれならとカフェではなくクラブ、すなわちメイドクラブなるものを紹介してくれた。どうやら連れて来られたカフェとは同じ系列店であるようだ。結局、ひっこみがつかなくなり、そこに行く羽目になってしまった。おっさんはリコメンドした。大人のメイドも如何ですかって。まあいいか、そんなのりで従ったまでだ。
「チックたりしないでね。店にも会社にも」
もちろん、就業規則違反だった。正規あるいは非正規を問わず如何なる形態であれ他に勤務することは許されなかった。そのとき、俺は平静を装った。もっとも直ぐに同僚の女だと気付いた。だが、いざ彼女が横に侍るとぎこちなくなってしまった。しかし、女はそこの接客の極まりにのっとり、俺をご主人様と呼んだ。そうして徐々にではあるが、癒やしを得られ、また、馴染んでいった。幾分かは店の客らしくというかご主人を演じられる具合となった。
しかし、そうしつつ実は普段会社にいるときの方が、真実の自己ではなく、演じているのではないかという感じを覚えたのだ。最初に行った日の翌日、彼女からもう来ないで欲しいとのメモを渡された。だが、昨日の日曜、そうであるにもかかわらずそのクラブにゆき彼女を指名したのだ。
「バーチャルな感覚に浸れたんだ。俺の真実の姿はどこにあるのかって。」
彼女も趣味のコスプレが高じてその店に勤める次第になったと告げてくれた。そして、俺も同様の感覚に陥ったと告白した。それならこのまま今後も主人とメイドというバーチャルな世界に浸り真実の自分を見失おうじゃないかって提案した。
それからというものは、日曜毎にそこに通い彼女を指名した。そして、主人とメイドという虚構の世界に酔いしれた。そのお蔭で職場での自分が真実の自己ではないと思えるようになり、かえって呪縛からとかれたかの思いが快感となった。それは悦に浸るかのもので、何か薬物の作用に陥っている感じになっていた。だが、彼女の様子が違ってきた。きっとこのバーチャルな感覚に酔ってのことだと錯覚してしまったのだ。その世界に浸る余り彼女の心の変化を危険な兆しと捉えられなくなっていた。何分相当麻痺していたから。
ある日彼女の退職が告示された。それとは無しに彼女と親しかった、会社の女に理由を聞いた。告げられたのが心を病んで実家で養生するために退職したと云うことだった。俺は自分のした事の恐ろしさに苛まれた。