聖ヴァレンタイン事件簿後
「悲しい時は目から水がでるのはどうしてだと思う?」
彼は甘ったるい塩の匂いをまとわせて、私を自分の胸の中へと抱き寄せる。
「それはねえ。僕たちが海から生まれてきたことの名残なんだよ」
そう言って彼は私の少し色の薄いくせっ毛を柔らかく撫でた。
彼の大きいくせに、やけに温かい手の感触がじんわりと頭の上に広がっていく。
私は顔が赤くなっていくのを感じて、急いで彼の手を払いのける。
「何、馬鹿なこと言ってんのよ。フラれて泣いてる人間がそんなにおかしいの」
私が怒ったような声を出すと、彼はまるで私の反応が予想外だったみたいな驚いた顔をする。
「だって悲しいんだろ?それなら泣くのは当たり前だ」
「アンタに何が分かるっていうのよ。悟ってるみたいにいつも落ち着きぶっちゃって。アンタに人を好きになるなんて気持ち分かってたまるか」
言ってから私は「アッ」って気持ちになる。余計なことを言ってしまった。
彼はいつも一人でいる。教室で授業を受けている時も、お昼休みにお弁当を食べている時も、放課後の人気のまばらな校庭でも。だけど、いつも笑っている。
何が楽しいのか私には分からないけれど。
私の好きだった人は、そんな彼を少し小馬鹿にしたように笑っていつもクラスの中心にいた。
そんな彼を私の友達は「何かカッコいいね」と言った。私もそう思ったけど、
「えー、そんなことないよ。確かに芸能人の※※※にはちょっと似てるけど」とだけ言った。
本当はそんな芸能人なんかよりよっぽどカッコいいと思っていたのに。
だって私は見たことがある。彼が横断歩道を渡れないでいる老人の手を引いているのを。
私しか知らない優しい彼。普段は強がっているけど本当は思いやりのある優しい人。
だから、私は好きになった。そんな彼を。
ヴァレンタイン、当日。私はなけなしの勇気を振り絞って彼にチョコを渡した。
ちょっとだけ義理のフリをして。
いつもの何気ない会話を装って私は彼を理科室に誘った。もちろん、そこが空き教室なのは知っていた。
そこで私はチョコを渡した。「本当は好きな人にあげたいけど、その人がいつの間にか帰っちゃったから、もったいないけどアンタにあげる」と強がりを言って。
彼は「受け取れないよ」と言った。今からでも俺が走って追いかけるから、悪いけどソイツの名前を教えてくれとも。
「馬鹿」
私は彼の名前を今すぐにでも叫びたかった。でも、言えるわけなかった。
私は逃げ出した。海沿いの砂浜まで、そこに彼がいた。いつも笑っている彼が。
私は彼がいるのを見つけると、目の端に滲んでいた涙のつぶを手の甲でぬぐった。
私は目をそらした。泣いている姿など他人に見せられるわけなかった。美人なら泣き顔も絵になるのかもしれないが、私のなど見苦しいだけだ。
まず、私は彼と話したことがなかった。教室の中でその一人ぼっちの背中を見ることはあったが。
私の中では、そんな相手と一緒になった時はまるで他人のように目をそらすのが一種の礼儀だった。
その方が、彼も安心すると思った。なのに、彼は私を見つけると、不仕付けにも声をかけてきた。
「悲しい時は目から水が出るのはどうしてだと思う?」
彼にはデリカシーというものがないのだなと思う。でも、それは私も同じだ。私の返答に彼は傷ついた顔をする。
だけど、彼はすぐにいつもの笑顔に戻ると、
「僕もねえ。実ははいつも目から水が出そうなんだ」
と言う。そして、私の手を握ると、目の前に広がる海の浪間へと私の手を引いていく。
私の息はとても苦しいのに、彼はまるでそれが当たり前とでも言うように海の中へと歩を進めていく。それを見て、私も別にそれでいいのかなと思い始めている。
だって、彼はもといたあるべき場所に帰って行くだけなのだから。