食と健康と……
とある日の、朝のこと。
ログインしたご隠居の前を、妙にカクカクした動きで八っつぁんが通り過ぎて行った。
「どうしたよ、八っつぁん。油の切れたブリキ人形みたいにカクついた動きして……なんか気味悪いね」
思わず声を掛けたご隠居は、一瞬後悔した。
おっかなびっくり止まってから、変にぎこちない様子で八っつぁんが振り返ったからだ。
「ブリキって、ひでえなご隠居さん。いや、チョット体調が悪くてさ……さっきから喉が痛いわ、変に咳が出るわ、鼻水止まらないわ、大騒ぎなんだよ
そういった話の最中にも、空中で溺れ掛けている酔っ払いのような、妙な動きが続いていた。
「大変な時に声掛けちまったかね」
「なに、無視されるよりはいいさ。しかし参った、今年の風邪は酷いね」
「体調のこと、“管理人さん”には言ったかい?」
ご隠居が水を向けた“管理人”とは、いわゆるケアマネージャーのことだ。「竜宮荘」では、数人のケアマネージャーが常駐して、24時間体制でのケアを行っているほか、病気の疑いがある場合は、契約している医療スタッフに連絡が飛ぶことになっている。
「まだだよ。ただ、なんというか、薬には頼りたくねえからさあ……」
八っつぁんが最後に漏らした言葉に対して、『おや?』と思ったご隠居だったが、あえて無視して話を続けた。
「……そりゃ、ご愁傷様だな。治ったら教えとくれ。見舞い行ってやるから」
「なんだよ。今来てくれよ」
「いやだよ。アンタが掛かるような風邪がうつったら、アタシなんかぽっくり逝っちまうよ」
「ひでえな」
「まあ、冗談はさておきな、集団感染なんてしたら、このホームが潰れちまうよ。老人の共同生活ってなると、たかが風邪程度でも、下手すりゃ死屍累々なんだから」
「うーん……言い分はわかるが、納得はしたくねえ話だな」
「今日のところは、朝飯食った後は“外”でゆっくり休んで、さっと治しておいで」
「ちっと寂しいが、そうするか……」
そう言って、えっちらおっちらと食堂へ急ぐ八っつぁんの後姿を、ご隠居は神妙な顔つきで見送っていた。
-----
八っつぁんと別れてから、数分後。
ご隠居が一人でぼんやり考え込んでいると、突然、耳元でささやくような声が聞こえてきた。
「徐福さん、ありがとうございます」
「うわ!……って、管理人さんですか。急にウィスパーなんて飛んでくるから、びっくりするじゃないですか」
「いえ、先ほどの、オロチさんとのお話について、お礼をしておこうかと。薬のことについて、伏せていただいたようでしたので……」
ご隠居は、あわてて自分もウィスパーに切り替えてから、話を続けた。
「ああ、見てらしたんですか……まあ、教えていいことと悪いことの区別ぐらいは、つきますよ。『食事に薬を混ぜて提供する』って扱いについては、色々と難癖つけられやすいって事情も知ってますし、余計な波風立てるつもりはありません」
「そう言っていただけると、有り難いです」
「アタシなんかは、ウッカリ飲み忘れるってことも無くなるってんで、むしろ歓迎してんですけどね。しかし、体調不良も隠し通せると思ってるらしいですね、八っつぁん……」
「自己申告されなくても、VRヘッドセットのログを見れば、大体の体調は分かるんですけどねえ」
管理人がそう言った後に、微妙な間が開いた。
顔は見えないが、ため息をついたらしい、ということは何となく分かった――ご隠居も、まったく同じタイミングでため息をついていたからだ。
そんな感じで一拍置いた後、管理人は話を続けた。
「しかし、医者嫌いの方って、どうしてああも頑固なんですかね……」
「これまで何もしなくても健康だった、って過信があるんじゃないですかね。で、体力が落ちたこれからも同じで大丈夫って訳がないってのが分かってない」
「先ほどおっしゃっていた、集団感染の問題も有るので、できれば、予防を兼ねて皆さんに薬を飲んでいただきたいんですが……」
「まあ、薬漬けになると耐性菌なんて出てきて余計厄介なことになるかもしれませんがねえ」
「それも、頭の痛いところですけど……最終的には、人手が足りないって所に行き着いてしまって」
「ヒト・モノ・カネがネックになるのは、何時まで経っても変わりませんね」
「皆さんが、徐福さんのように納得してくれれば、ありがたいんですがね……」
思わずこぼれた、管理人の『本音』。
その愚痴を聞いて、ご隠居は苦笑した。
「……なかなかないから、『有り難い』って言うんですよ」