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彼女を記したフラッシュメモリ


 入学式に向かう、最初の登校日。その日、すぐ前を歩いていた女性が何かを落とした。

 今年の桜は入学式前がピークで、通学路の桜並木は冬みたいに簡素になっていた。そんな道にからんと軽やかな金属質な音が響いたので、道順を間違えないよう周囲を見回していた僕はハッキリとそれを見た。

 なんなんだろう、コレ。良心十割で拾った僕は、彼女の落とし物を見て首を捻る。いや、それがいわゆる「フラッシュメモリ」であることは分かるんだけど、よく分からない。

 差し込むためのコネクタが、見たこともないような形をしていた。断面図を見ると、蝶を模ったような独特な形で、少なくとも僕が知るような機械部品には差さりそうになかった。一般人には縁がないような奇特な部品かもしれない。となれば、目の前の彼女は何者なのか――

 ま、いっか。これが何かは知らないけど、失くしたら困るものだろうし。僕は歩く速度を少しだけ速め、僕と同じ高校の制服を着た女性の肩を軽く叩いた。

「あの、ちょっといいかな?」

「は、はいなんでしょう?」

 飛び跳ねるように肩がビクリと震えて、その様子にピッタリな上ずった声が返ってきた。素早く振り返った彼女の顔を見て、僕は思わずハッとした。

 綺麗な娘だな。それが第一印象。白い肌とは対照的に緩やかにウェーブした短い黒髪が、彼女を穏やかな雰囲気に仕立て上げていた。僕と同じ高校の制服を着ているし、今日は基本的に一年生しか登校しないから、同級生なんだろう。

「えーと、これ君のだよね?」

 僕が右腕に持ったものを差し出すと、彼女は手の中身を見て首を傾げた。違ったかな。不安げに少女を見てみると、不審げにフラッシュメモリを見つめていた彼女は次第に驚きの表情に変わっていった。

「多分……私のだと思います」

「多分?」

「はい、多分。よく分からないんですけど……大事なモノのような気がするんです」

 困ったように眉を下げてはいるけれども、どことなくホッとした様な顔をしていた。彼女は僕の右手に手を添え、機械部品を受け取る。ありがとうございます。小さいお礼の言葉。

しかし、彼女は趣味で工学でもやっているんだろうか。まじまじと部品を眺めた彼女は、小さく笑った。

「これ……変な形してますね。何に使うんでしょう?」

「何って……君のじゃないの、それ?」

「いえ、そうだとは思うんですけど……」

 すっきりしない返事をして、彼女は手に持ったフラッシュメモリをカバンの小さいポケットに仕舞った。それから、僕をじっと見つめてきた。

「あの……間違っていたら申し訳ないんですけど。私の知り合いだったり、します?」

「いや、面識はないと思うよ」

 そうですか。彼女は小さく呟いて、考え込むように顎に手を添える。この子は何を考えているのか、よく分からないな。遅刻するような時間でもないけれど、別に早起きしたワケでもないから、早く学校に行きたいな。なんて思っていると、彼女が顔を上げた。

「あの、同じ学校の人ですよね? 私、新入生なんですけど……道が分からなくなっちゃって。その、もしよければなんですけど、案内してくれませんか?」

「え? あぁ、うんいいよ」

 僕もこれから学校に向かうワケだし、別段困るような要望ではなかった。僕は肯定の返事をし、彼女を先導するようにちょっと前を歩き出した。

 でも。僕は小首を傾げた。さっきまで僕の前を歩いていた少女は、迷いなく正しい道を歩いている印象があった。道が分からないって感じじゃなかったけどなぁ……

 慣れない道のりを案内するという使命を負った僕は、出勤やらで駅に向かう会社員たちとすれ違う度、どことなく居心地の悪さを感じた。もちろん電車ごっこみたいに真後ろに付いてくる女子に。

 考えてみれば、お互い自己紹介もしてない。僕は丁度信号で立ち止まったのを機に、赤信号に背中を押されて会話を切り出した。

「えっと、名前とか言っといた方がいいのかな。僕は江ヶ崎優。君と同じ新入生だよ、よろしくね」

「エガサキさん……ですか。よろしくお願いします」

 迷子の少女は笑顔で頭を垂れた。そして、恐らく自分の名前を述べようと口を開きかけて――

「あ、あれ……?」

 その後が続かないのか、何度か口をパクパクと開閉する。その間に信号の色が変わって、通行人の波が出来る。僕らの後ろにいた学生は訝しげな表情を浮かべ、僕たちを避けて車線の向こう岸に渡って行った。

 この信号待ち時間が長いから、さっさと渡りたいんだけどなぁ。そんなことを思っていたら、青色の人影が点滅し始めた。「取りあえず渡ろうか」と提案しようとしたら、少女は人差指で髪の毛を巻きながら苦笑した。

「……あの、私は一体誰でしょう?」

「は?」

 予想外の言葉に、思わず間抜けな声を洩らした。信号が「止まれ」と色で言ってきた。強風が流れてきて、道の溝に溜まった桜の花弁が空に舞い上がり、路上駐車中のワゴンをデコレートした。


「いやぁ、こんな偶然もあるんですね、同じクラスどころか隣同士なんて」

 道順を忘れるどころか記憶喪失に成り果てた少女は、ニコリと僕に微笑みかける。僕は生返事をして、窓の外の景色を眺めた。

 彼女の財布に挟まっていた保険証のコピーによると、彼女は「久野原奈々」というらしい。保険証があるならそのまま病院に連れて行こうとも考えたけど、彼女は次の言葉で否定した。

 ――病院なんかとんでもないですよ。ただ記憶が飛んじゃってるだけじゃないですか。放っておけば治りますよ。

「……いや、おかしいから」

「江ヶ崎さん、どうかしました?」

「いや、なんでもない」

 背中から聞こえる声を聞き流して、僕は窓ガラスの奥を見つめる。僕がいる西棟と東棟を隔てる中庭が、視界一杯に広がっていた。入学前の見学で気に入った人工池。水車が回って、囲う桜花から散った桃色の花弁が水を泳いでいた。

 先程昇降口に向かう時に下から覗いた景色は、上から見ても素晴らしい。僕は自然に頬が緩んでいたのを感じた。

「綺麗な桜ですよね」

 久野原さんが、窓際に座る僕の隣に移動していた。彼女の言う通り見事な桜だった。通学路の桜は散り際なのに、中庭の桜は不思議と満開。

「なんでアレは咲くのが遅いんだろうね」

 何の気なしに僕が呟くと、クスリという笑い声が聞こえた。

「品種が違うんですよ。兼六(けんろく)(えん)熊谷(くまがい)という石川県原木の桜です、咲き始めが遅いんですよ」

「……なるほど。ついでにもう一つ聞いていい?」

「なんでしょう」

「確認なんだけど、嘘付いてない?」

 自分の名前を忘れたなんていう癖に、桜の種類に詳しい彼女を睨む。久野原さんは、得意げな笑顔をこちらに向けてきた。

「いやいや、合ってますよ。さっき通った時に確認しましたから」

「……うん」

 まぁ、いっか。的外れな答えを聞きながら、僕は小さくため息を吐いた。空調のために小さく開いたサッシの隙間から、穏やかな春風が吹きこんでいた。


 それから一か月の間、特に久野原さんと交流を持つことはほとんど無かった。何度か話しかけたけれども、彼女の記憶が戻ることは無く、それでも普通に高校生活を送っているようだった。まぁ人生なんてそんなモンだ、そこからどうにかなるのは創作の世界の話だろう。

 今だって僕は退屈な授業を受けている。黒板に書かれる意味不明な数式を書き写すだけの作業。時給を払うから代わりにやって欲しいぐらいだ。僕は休日に祝日がブッキングした黄金週間に思いを馳せ、隣の久野原さんは机に突っ伏して微かな寝息を立てていた。

「はぁ……」

 数少ない僕の自慢は「授業中に寝たことが無い」ことだ。でも、入学式後の実力テストでは記憶喪失女にボロ負けだったことを思い出し、なんとなくシャーペンを握りしめる力が強くなった。

 彼女を起こそうかどうか迷っていると、久野原さんの机の下に何かが落ちた。固い音を立てて何度かバウンドしたそれを見て、僕は既視感のような物を覚えた。

 拾ってみると、入学式の日に久野原さんが落とした部品と同じものが、僕の手の中に納まった。相変わらずどこに差し込むか分からない形状をしている。なんでこんなものわざわざ学校に持ってきているんだろう、久野原さん。

「久野原、授業中に何寝てるんだ!」

 僕がフラッシュメモリに気を取られていると、先生が久野原さんに気付いて怒号をあげた。先生が目配せしてきたので、僕はしょうがなく彼女の背中を揺らして起こした。

「寝るならあと30分我慢して、昼休みに寝なさい」

「う、うーん……」

 寝起きの久野原さんはトロンとした顔をしていて、先生の発言を理解していないように見えた。先生も察したようで、

「久野原、教科書27ページの練習問5は?」

 先生が声を掛けても、久野原さんは容量を得ないと言った様子。しょうがないな。僕は息洩れ声で久野原さんに話しかけた。

「久野原さん、教科書開いて」

「えっ、クノハラって私なんですか?」

「は?」

「いえ、なんでもないです」

 彼女は慌てて教科書を開き、真っ白なノートに迷いなくペンを走らせた。数行の計算後、彼女はたどり着いたらしい1つの答えを朗読した。

「か、解無しです」

「……正解」

 苦虫を噛み潰したような表情で、先生は授業の世界に戻って行った。隣で息をなで下ろす久野原さんを見て、僕はちょっとしたさっきの会話を思い出し、考えを巡らせていた。

 まさかとは思うけど。久野原さん、また記憶無くしたんじゃないだろうな、と。


「まさにそれです。THE・記憶喪失。いやぁ、よく分かりましたね……えーと、江崎さん?」

「ずいぶんと余裕だね。あと、江ヶ崎ね」

 数学の授業後の昼休み、僕は久野原さんを裏庭に呼び出していた。人通りの少ない道では、園芸

が花を植えていて、僕としてもお気に入りの場所。そこで、健忘少女は無邪気に笑っていた。

「というかさ、本当にまた記憶喪失になったとして、よくさっきの数学の問題を答えられたね」

「うーん、記憶と言っても3種類ありますから。私は普通の記憶喪失なので、『知識』たる意味記憶は正常なんじゃないでしょうか?」

「うん、まず普通の記憶喪失の定義を聞こうか」

 彼女の力説によると、よくある健忘――記憶喪失とは「人生経験」たるエピソード記憶が失われることで、体が覚えたことや知識が無くなることではないそうだ。いや、だとしても1時間前に記憶が飛んだ人から教わるのはどうだろう。

 僕が悩んでいると、同じく思考を巡らせていたらしい久野原さんは口を開いた。

「ところで聞くところによると、私は入学式の日にも記憶消失になったんですよね?」

「みたいだよ。結局記憶が戻る前にこうなったけど」

「なるほど……」

 再び黙りこくって考え込む久野原さん。さっきからイマイチ理解が追いつかない僕は、続けて質問した。

「ねぇ久野原さん、今の状況が演技じゃないとして……えーと、そんなに頻繁に記憶って無くなるものなの?」

「そんな、メモリ破損したGBAソフトじゃないんですから。一般人たる江崎さんを叩いたら、記憶が飛ぶ前に生命が飛んじゃいますよ、オーケーですか?」

「うん、分かんない。特に江崎さんが分かんない。誰?」

 あれ? 久野原さんは間の抜けた声を出して首を捻った。僕はため息を吐いて、もう一度自分の名前を名乗った。江ヶ崎、と彼女は僕の苗字を暗誦し、笑顔を浮かべた。

「では江ヶ崎さん、取りあえず先月の私は忘れましょう」

 衝撃的な発言をした彼女。その絶えない笑みが、どことなく悪魔のモノに見えた。

「……え?」

「だって、記憶が戻らなかったってことは、結局本当の自分じゃないんでしょう? 忘れた方が身の為ですよ」

「いや、それはそうかもしれないけど……」

 正論かどうかは判断付かないけれども、彼女にとっては妥当な意見。僕は困って、空を見上げる。体育館の低い屋根の隙間から、とっくに花が落ち、葉が生い茂ってきた兼六園熊谷が見えた。

 彼女は憶えていないけど、僕やクラスメイトにとっては先月の彼女が「久野原奈々」なのであって、そう簡単に忘れられるものでもない。

「流石に無理だよ。それに、僕だって本当の久野原さんを知らないし」

「だったらなおさらです。そんな過去の女なんて忘れてください」

「過去って……なんか、入学式の時よりエキセントリックな性格になってない?」

「だ、か、ら。私は江ヶ崎さんの昔の女なんて知らないんです」

「うん、取りあえず言い方を変えようか」

 なんだろう……記憶喪失になると性格まで変わるのだろうか。正直、4月の時の彼女と比べると、疲れる性格をしている気がする。

 どうしたものか。悩みながら地面の石ころを靴で弄んでいると、久野原さんのローファーに石を奪われた。

「どう捉えてもらっても構いませんけど……とにかく、今は『私』が『久野原奈々』ですので」

 ふくれっ面で呟きながら、彼女はインターセプトした石を蹴り飛ばした。

「これからよろしくお願いしますね、江ヶ崎さん」

 僕に微笑みかける表情は、入学式の時の彼女とは少し違うけれども、やっぱり僕の知っている『久野原奈々』そっくりで。僕は何も返せなかった。

 彼女の蹴った石ころは、何回転もコロコロと転がり、排水溝に吸い込まれた。


 ホームルームの意味が、小学校中学校と過ごしてきても分からない。プリントを配る日はともかく、何もない日の必要性がちょっと分からない。というワケで生徒会の友人に訊いたら、「集まることにホームルームの意義がある。生徒会と同じだ」と返された。生徒会の意味って何だろう。

 そんな退屈な学校の締めくくりの時間が終わると、隣の久野原さんが肩を叩いてきた。

「江ヶ崎さん、放課後ですね」

「そうだね。で、どうしたの?」

 目線を合わせると、久野原さんは照れたように笑った。震動に合わせて、短い髪の毛が揺れる。

「私って何か部活動をやってました?」

「大丈夫、帰宅部だったハズだよ」

「あぁ、道中のタイムアタックをしたり、探索をして町の理解を深めたりする部活ですね」

「おかしいな、同じ部活のはずなのに活動内容が大分違うんだけど」

「知らないんですか? 帰宅は自由な発想が求められる個人競技なんですよ?」

「それは知らなかったな」

 くすりと笑う久野原さんの言葉を、僕は目を逸らしながら流す。数時間前に記憶を失った久野原さん。その曲者な性格に、早くも対応できている僕が居た。なんでだろう。

 あぁ、でもダメだ。明日から始まるゴールデンウィーク後に待ち構えた学校行事を思い出し、部活動の準備を始めようとしている彼女を手で制した。

「待って、久野原さん」

「どうしました? ひょっとして、帰宅部団体競技部門に参加したいんですか?」

「いや、そういうのいいから。ええと、カバンか机の中に黄色い冊子とか入ってない?」

 机の中から見本の冊子を取り出すと、彼女はカバンの中を漁る。そして、同じ冊子を発掘した。僕ら1年生にとって、最初の大きな行事のしおりだ。

「文化祭ですか。ウチの学校は6月第1週の土日なんですね」

「うん、5月に入ってから準備中。今日は部活優先日だけど、基本帰宅部に人権は無いから」

「うぅ……なんで帰宅部が部活動として認められてないんですか」

「大会が無いから」

 僕が切り返すと、久野原さんは肩を落とした。その間にも、まっとうな部活動の面々は教室から消えていく。彼らからしたら、新人戦や夏大会が迫る大事な時期だ。

 残り人数少なくなった教室で、文化祭の準備の予定を立てる。僕の高校の1年生は、劇をやることになっている。だから、大型連休で大方の買い物を済ませてしまうために、劇の原案やら配役やらを考えることになっているのだけれど。

「えー! なんで私がヒロイン役なんですか?」

 数日前に決まったことについて文句垂れる記憶喪失少女が1名。文化祭委員の和田が困ったように諭す。

「いやいや、むしろ久野原が立候補したじゃん」

「えっ。……なんてことをしてくれたんですか、昔の私! こっちはまだ私のアイデンティティすら確立出来ていないのに、遠野有希なんて赤の他人を演じろってことですか!」

「え、えっ……はっ?」

 悲しいかな、久野原奈々が記憶喪失だと知っているのは現状僕1人。周りから見たら、予想外にヒステリックな光景なのに違いない。

僕の記憶によれば、清楚な子として男子にも人気があったハズだった。その子が、いきなり発狂しながら猿のように叫んでいるのだ。耐えがたい状況だろう。隣に座った僕は、しょうがなくなだめようとする。

「く、久野原さん。みんな驚いてるから、少し落ち着こうか、ね?」

「だって! 死してなお私を脅かすというのですか、あの女狐!」

「いや、その女狐君だから」

 つーか死んだとか言わないで。何気ない発言が、思いの他僕の心を抉ってきた。僕が弱々しく笑っていると、久野原さんは台本を握りしめながら僕を睨んできた。

 その眼は、憂いに満ちていた。

「私は……これ以上好き好んで他人になんか、なりたくないです」

 ポツリと零した言葉は切実で、僕は何も返せなくなった。確かに、彼女からしたらある意味「久野原奈々」を演じている立場なんだろう。

 ただならぬ彼女の様子を感じたのか、和田が控えめに妥協案を提示してきた。

「えーと……まだ台本も出来てないし、降りてもいいんじゃねぇかな? 誰か代わりにやってくれる人がいればだけど」

「あ、大丈夫です。やります」

「いや演るんかい」

 思わず突っ込みを入れてしまった僕に、久野原さんはケロッと明るい笑顔を見せた。

「だって年1回のお祭りですよ? 楽しまなかったら損ですよね」

「あー、うん。なんかもう、好きにしたらいいと思うよ……」

 考えるのを放棄した僕の言葉で、ヒロイン騒動は終わった。みんなも驚いたように久野原さんを凝視していたけど、触らぬ神に祟りなしといった感じで文化祭作業に戻って行った。

 そして、大型連休初日に予定された買い物。そのリストが作成されたところで、今日のクラス会議は終わった。茜色に染まった教室から帰宅部たちがばらけていく中、唯一テニス部である文化祭委員の和田が話しかけてきた。

「なぁ、優」

「和田、お疲れ。どうしたの?」

「いや、久野原のアレ何だったんだ?」

非常に真っ直ぐした眼で、難しい質問をされた。元々勉強は不得意な僕だ。満点解答は出来そうにない。

 僕は昼休みに自販機で買った炭酸水のボトルを開ける。開けてから時間が経っているからか、肝心の炭酸が抜けた生ぬるい味がした。

「えーと、なんで僕に訊いたの?」

「いや、今日お前と久野原が会話しているトコよく見たからさ、なんかあったんじゃないかと」

 正解。でも、4月の久野原さんは記憶喪失になったと言わなくても不思議と大丈夫みたいだったし、どうしたものか……。

「僕は何にもないけど……。なんでだろう? 頭でも打ったんじゃない?」

「さりげなくお前酷いな」

「あれ、そう?」

 どうしてか、引かれた。

 一緒に昇降口を出ると、これから部活動に向かうらしい彼はテニスコートへ。僕は家へ向かった。その帰り道、ポケットの中で暴れたスマホを取り出そうとして、少なくとも家の鍵ではない固いものに指が当たった。

 取り出してみて、僕はあっと声をあげた。

「……返すの忘れてた」

 それは、彼女が記憶を失くす寸前に落としたフラッシュメモリだった。


 翌日、大型連休初日。朝っぱらのニュースによると、帰省ラッシュによる交通渋滞の距離を得意げに紹介していた。テレビの先ではキロ単位で待たなければならない人たちがいて、実家が同じ県内にあることを感謝した。

 今日は文化祭の買い出しがある。僕は待ち合わせ時間より早く着くよう、早めに家から出た。いつもより人通りの少ない道は、駅に近づくほどに急激に混んでゆく。

 待ち合わせに一番乗りした僕は、キョロキョロと周りを見渡す。僕の右手はポケットの中で、久野原さんのフラッシュメモリを握っていた。

「ごめんなさい江ヶ崎さん。待ちました?」

 メールで送ったよりも5分遅れて、久野原さんがやって来た。僕は笑顔を浮かべて手を振った。同時に、彼女の服装に疑問を覚えた。

 久野原さんは休日なのにも関わらず、学校の制服を着ていた。そういえば、休みの日でも制服の女子はたまに見るけど、なんでだろう?

「大丈夫だけど……なんで制服?」

「さっきまで学校にいたので……」

「学校? どうしてまた?」

「ちょっと探し物を。それより、待ち合わせより早く呼び出すなんて……どうかしました?」

 僕は右手をポケットから引き抜いて、機械部品を見せる。すると、彼女は目を丸くした。

「コレなんだけど、4月の久野原さんが『大事なモノ』なんて言っていたから……」

「はい。大事です、凄く」

 彼女は声を荒げ、奪い取るようにフラッシュメモリを手にした。大きく息を吐いて、大切そうにカバンの中にそれを仕舞う。その動作は、まさしく入学式の時の『久野原奈々』だった。僕は息を呑んだ。

「え、ええと。それは結局なんなんだろう。分かるの?」

「分かりますよ。分かりますけど……説明するのは難しいですねぇ」

 困ったように眉を下げ、久野原さんは長考する。呻きながらじっくり考えた彼女は、顔を上げて首を捻った。

「あえて言うなら……本体?」

「ごめん。今の久野原さんに真面目な回答を求めた僕が悪かった」

「えぇっ! いや結構しっかり考えましたよ」

「そうはいっても、昨日の言動を考えるとどうにも」

 僕の発言に、久野原さんは一瞬たじろぐ。しかしすぐに勝ち誇ったように妖しくほほ笑んだ。その顔は、どうしてか儚げに見えた。

「……昨日家に帰って、日記を見つけたんです。ご丁寧に、高校入学以前の日記もありました」

 えっ。僕が驚きの声をあげると、彼女は怪訝な顔をした。

「知らなかったんですか?」

「初耳……というか、ちゃんと久野原さんと話したの入学式ぶりだし」

「なるほど。では、これは離さない方が良さそうですね」

 しれっと話すことを拒否されたことで、僕は更に驚いた。どう考えても大事な部分じゃないか、気になるよ。

 玉砕覚悟で聴いてみようとしたら、タイミング悪く和田が現れた。恨めしい気持ちで空を仰ぐ。駅前の時計台が示す数字は、買い物の待ち合わせ時刻の25分前。

「お前ら早いなぁ」

「まぁ、いろいろあってね。和田こそ早いね」

「いや、それはアレよ。俺が遅れたらみんな困るだろ?」

 爽やかな表情を見て、僕は文句の言葉を飲み込んだ。黙った僕から視線を外し、和田は久野原さんを見つめた。

「えーと、久野原。別に制服でなくても良かったんだけど」

「女の子には秘密が一杯ですから」

 久野原さん、記憶が飛ぶのは女の子の秘密に入りますか。すまし顔の少女に心の中で皮肉り、僕はベンチに座った。足元を危機感無く通り過ぎるハトを、なんとなく蹴り飛ばしたくなった。


 大型連休が明けると、やっかいな中間テストが立ちはだかる。それを乗り越えると、いよいよ校内は学園祭一色に染まって来た。

 ウチのクラスも団結して、文化祭に向けた準備が進んではいるのだけれど、気になることが1つある。

 帰宅部とはいえ、奈々ちゃんが作業の主戦力になっている。劇の主演女優を務める彼女は、衣装制作も背景絵も小道具も上手に作り上げてくれる。それは嬉しい。しかし、どういうワケか、彼女のお守り役に僕がセットで付けられるのだ。

「不器用だし、僕は要らないんじゃないかな。奈々ちゃんだけでも……」

と和田に言ったところ、ラケットを握る時のような凄まじい握力で肩を掴まれた。

「頼む優、お前しか無理だ。最近の久野原、なんだか手に負えないんだわ」

 どうやら人が変わったような彼女の様子に、周囲は面食らっているようだ。中には「お祭りテンション」なんて好意的に解釈している人もいるけど、残念ながらそのテンションは祭り後も続くだろう。

「優さん、そこの吸引力の変わらないただ1つのホウキで、その辺のクズ処理お願いします」

「そうだね。ホウキに吸引力は備わっていないからね」

 不本意ながら慣れきったやり取りをし、僕は掃除ロッカーからホウキを取り出す。掃除の時間は好きではないけれど、文化祭準備だとなんとなく面白い。僕が竹の棒を操っている間に、奈々ちゃんはクラスを先導し作業に戻る。

「……よし、出来ました」

 奈々ちゃんの掛け声に、周囲の女子から歓声が上がる。ゴミ箱に全てをぶちまけてから暇を持て余していた僕は、なんとなく声の方を見た。

 奈々ちゃんの手には、どこから見ても市販品レベルの衣装が握られていた。恐らく彼女が本番で着るであろうお姫様ドレスだった。

「どうですか優さん。CADで設計し、カーテンレースとボロ布で作り上げたリーズナブルなドレスです」

「うん、凄いね」

 正直な感想を述べたつもりだったのだけれど、奈々ちゃんはどうやらご立腹なようだった。明らかに不満げに口を尖らせ、後ろの女子たちの方を向いた。

「これは、私のお姫様モードを見せるときですね。ヒナちゃん、私が軽銀細工で作ったティアラ等小道具を」

「うん、全体的に本気過ぎない?」

「どういうワケか体得していたワケです。せっかくですし、使わないと損でしょう?」

 胸を張る奈々ちゃんを見て、僕はため息を吐いた。そう、彼女は「何故だか会得している」ことがやたら多かった。その特殊技能の数々は、文化祭ではいかんなく発揮されたけど。

「さ、これで作るものは全部終わりましたね。来週の本番に向けて、練習頑張りましょう」

 それ故か、台本以外は大概彼女1人で作ってしまったため、クラスの皆は何とも言えない気分になっているのがヒシヒシと感じられた。

 僕は、右手に持ったホウキを教壇に立てかけ、頬をポリポリと掻いた。

「ねぇ、奈々ちゃん。ちょっと聞いてもいいかな」

「なんでしょう」

「始めはさ、どっちかというと劇をやりたくない感じだったよね。なんでそんなに頑張って準備するのかなって」

 僕の質問を受けて、奈々ちゃんは不思議そうな顔をしながらドレスを畳んだ。そして、教室中央の段ボールの中に仕舞いながら、片手間といった感じで返す。

「なんでと言われても……神輿が来たら、みんなで担ぐでしょう。一線下がって眺めている優さんの方が、私には不思議ですよ」

 掃除ロッカーから、使い込まれてボロボロのホウキを取り出す奈々ちゃん。僕が掃いた床を、丁寧になぞっていく。

 僕も教壇に寄りかかる棒を持ち上げ、彼女らが使用していた付近を清掃していく。

「……そんなに、やる気ないように見えた?」

「見えますね」

「奈々ちゃんが働き過ぎなだけじゃない?」

「そうですか? でも1人ぐらい、そんな『私』が居たっていいじゃないですか」

 思わず手を止めて、彼女の方を見る。奈々ちゃんは僕と目を合わせずに、小道具になれなかったゴミたちを集めていた。

 真意を聞こうか悩んでいると、彼女が集めた床のクズとちり取り、そこそこ溜まったゴミ袋が足元に置かれた。

「優さん、お願いしますね」

 ニコリと笑う彼女の顔は、窓から差し込む黄金色の光が生み出す濃淡により、どうしてか泣いているように見えた。

「なんとか本番1週間前に終わりましたね。明日明後日の休日、沢山練習して他クラスに差を付けちゃいましょう」

 この日に生まれたゴミを1つの袋にまとめた僕は、彼女の言葉を聞きながら、ゆっくりと焼却場への道のりを歩んでいった。学校の外は、日が落ちかけで、青赤黒のコントラスト。

 確かに、やる気ないかも。ゴミ捨て場に付いたときには、当然クラスメイトの声なんて聞こえて来なくて。作業を奈々ちゃんに投げっぱなしだった自分を、投げ飛ばしたくなった。


 その休日、彼女は学校に現れることは無かった。

 午前9時を少し過ぎた、太陽が何もない空に浮かぶ日。彼女以外のほとんどが集まっても、奈々ちゃんは学校に姿を見せなかった。心配する僕たちのクラスLiNEには、彼女からの1件の短いメッセージが綴られていた。

『風邪を引きました。練習出られなくてごめんなさい』

 メインヒロインたる彼女がいないことで、クラスには衝撃が走ったけど、和田の「とにかく、久野原がいなくても大丈夫なところはこの土日で完璧にしよう。治って戻って来たアイツを驚かせてやろうぜ」という言葉で動揺は収まった。

 僕は背景持ちだったので、基本的に役者より早くフェードインしてアウトするだけの作業だった。そんな僕に、丁度舞台からはけていた和田が僕に話しかけてきた。

「なぁ優。久野原から個人LINEとか来てねぇか?」

「来てないけど……なんで?」

「ん、まぁなんとなく。しかしどうしたんだろうな、やっぱ過労かな? 色んな分担作業の中心で頑張ってたもんな、アイツ」

「……かもね」

 僕の煮えたぎらない返事に何か言いたげだった和田は、自分の番が近づいてきたことで、劇中の登場人物に変身した。架空の舞台上で演じる態度は、僕には到底出来そうのない自信満々で真摯なモノで、背景を持つ僕は悲しくなった。

 風邪を引いた。彼女のメッセージを見て、僕は何故か心にチクリと針が刺さっているような気分を感じた。

「……ただの風邪だったらいいんだけどな」

 何の気なしだった僕の呟きに和田が反応した。僕を見たことで、劇の流れが止まってしまった。音響係がBGMを止める。

「何で止まったの和田? セリフ飛んだ?」

「悪い、ちょっと躓いた。もう1回同じトコやらせてくれ」

 彼の言葉で、本番ではありえないテイク2が始まる。実際は7分の劇のため、何時間も練習する役者たち。でも、テイクを重ねていく毎、衣装に身を包んでいない彼らが、どんどんキャラクターに見えてきて、中々面白い。

 でも、僕ら背景班はげんなりしていた。「背景が痛む」という理由で、実際に背景を持つことは2回目からは禁止された。演目中、僕は架空のノボリを持ち、演技の領域を作るためにただ立っていた。非常につまらない。コレを午後5時までやるの? 新手のダイエット?

 他のクラスの連中が、道具作りのためか廊下を横切ってくる中。制服に身を包まれた僕らは、教室の中でファンタジーの世界を生み出していた。


 休み明け、僕が教室に入ると、先に登校してきたらしい奈々ちゃんが1人席に座って本を読んでいた。本に集中していた視線が、僕に向けられた。

「……おはようございます」

「お、おはよう。風邪治ったんだ」

「はい、おかげさまで」

 彼女の射抜くような視線が、ちょっと怖い。僕はそそくさと席に座る。席替えした後は窓際から廊下側にサイドチェンジしたものの、奈々ちゃんが隣という事実は変わらなかった。

 僕が隣に座ると、彼女は目を少しだけ大きくして本を閉じた。本の隙間からヒモ――スピンが、本のページを保存することなくはみ出ていた。

「優さん」

「ん、どうしたの?」

 休日の詳細が知りたいのかな。目星を付け、どこから話そうかなどと考えていると、無表情な彼女の顔が近づいてきた。

「え、ええと……何?」

 作り笑いをしようにも引きつった笑顔になってしまった。そんな僕を採点するように見ていた奈々ちゃんは、なんだか憐れむような表情になり、小さく息を吐いた。

「なんというか、冴えない顔してますね」

「えぇっ」

 驚く僕を尻目に、奈々ちゃんは薄い笑みを浮かべる。その優美とも言える表情は、彼女からは今まで見たこともないようなモノで――

 ……あ。

 そこまで考えて、僕はもの凄く嫌な考えにたどり着いた。同時に、休日に感じていた胸に刺さった針のような違和感がどこかに行った。

「……あのさ、奈々ちゃん。もしかしたら、なんだけどさ――」

「もしかしなくても、そうです」

 隣の少女は、哀しむように目を伏せた。彼女の右手が、本の表紙を何度も撫でる。本のタイトルが見え隠れするのを、僕はある種の諦めのような感情で見ていた。

「流石に3度目となると、理解が速いですね。ご察しの通り、私はくるくるのぱーになりました」

 嘆息混じりな告白に、僕は納得のため息を吐いた。彼女の言う通り、3度目ともなれば嫌でも少しは慣れてくるものだ。

「……いつから?」

「土曜です。登校しても皆が混乱するだけだと思いましたので、風邪という名目を使いました」

 さて、どうしましょう。奈々ちゃんは落ち着いた様子で、でもちょっとだけ弱々しい表情をしていた。

「日記によれば、今週末が文化祭だそうで。非常に困ったことに、私は主役に抜擢されたみたいですね」

「うん。まぁ、自分から立候補した感じだけど」

 知っています。机の上の本を仕舞いながら、奈々ちゃんは呟く。僕は目の前の彼女より、先週までの『久野原奈々』を悼むような気持ちでその所作を見ていた。……あんなに、準備頑張っていたのにな。

 ――記憶が戻らなかったってことは、結局本当の自分じゃないんでしょう? 忘れた方が身の為ですよ。

 前の奈々ちゃんが笑い飛ばしているような気がした。僕はかぶりを振った。無理だよ。そんなに簡単に忘れられるもんか。4月の彼女だって、僕はまだハッキリ憶えてる。

「優さん」

 何も無くなった机で、奈々ちゃんが頬杖を突いて僕を見つめていた。冷ややかにも見えるその視線を見ると、別人に見えてしょうがない。

「私は、文化祭に出たくありません。しかし……これはどうにもならないこと、なのでしょうね」

「……そうかもね」

 僕が返すと、奈々ちゃんに肩を掴まれた。曇りながらも、何かを覚悟したような複雑な笑みを浮かべていた。

「優さん。少し歩きませんか?」


 カバンごと持った僕らは、裏庭に出向いた。通学に使われないこの場所に生徒は来なくて、2人で無言を貫いているうちに、どこからかウェントミンスターの鐘が聞こえてきた。

 卒業生から寄付されたベンチに座る僕ら。右半分に僕。もう半分に奈々ちゃん。間に学校指定カバンが2つ。無言で空を仰いでいた奈々ちゃんは、独り言のようにぽつりと呟く。

「中学1年9月の『私』は、自宅にひきこもり登校をしませんでした。中学3年5月の『私』は、保健室に登校しているそうでした」

「何の話?」

「私がいかに気分屋かについての話ですよ。優さんは、こうして堂々とサボタージュしたたことはありますか?」

 首を横に振ると、奈々ちゃんは小さく笑った。そうでしょうね。声にはしないけれども、彼女の口がそう動いていた。

 花壇の前に不法投棄されたジュースの紙パック。ストローから漏れた液体に、働き者のアリたちが群がっていた。

「記憶喪失をした時に失われる記憶。治った時に消えてしまう記憶。それらは、どこにあると思います?」

「……知らないよ」

「でしょうね、私にも分かりません。ただ、ヘンテコな体質の『久野原奈々』に限って言えば、簡単に答えることができます」

 彼女は胸ポケットから小さいものを取り出し、差し出した。受け取った僕は、あっと声を上げた。

 彼女が記憶を失った場合、必ず寸前に見るもの。すなわち、フラッシュメモリだった。

「その中です。その中に、約1か月分の『久野原奈々』の記憶が記されています」

 彼女の言葉に「そんな馬鹿な」という気持ちはあったけど、実際にその場面に2度も遭遇している身。どうしてか納得出来てしまった。

 機械部品には、細い紐でタグが付いていた。そこには、彼女が記憶喪失になった日と昨日の日付が記されていた。それをじっと眺めていると、奈々ちゃんからもう1つフラッシュメモリを渡された。

「4月分です。預かってください」

 彼女の言葉に、僕は心底驚いた。昔の彼女が述べた言葉が、僕の頭をよぎる。

「どうして。大事なモノだって、君は言ってたよ」

「私は言っていません。それに、私が持っていても恐らく意味のないものなんです。それ、どこにも差し込めないでしょう?」

 優さんに持っておいて欲しいんです。晴れやかな笑顔で言うと、彼女は座っていたベンチから立ち上がる。

「優さん、文化祭に向けて練習がしたいのですが、少々付き合ってくれませんか」

「え、いや僕背景だし」

「日記によれば、あまり働かなかったようですね。バツです」

 奈々ちゃんが働き過ぎただけだよ。僕は座ったまま項垂れる。実際、彼女以上に作業に尽力したのは、せいぜいストーリー役の(ひな)(さき)さんと運営の和田ぐらいじゃないだろうか。

 僕が返事をしないでいると、肩に手が置かれた。

「立ってるだけでもいいですから。ヒロインが最も大根役者なんてことになれば、怒られるじゃないですか、私に」

「……ずいぶん、やる気なんだね」

「どーせセミよりちょっと長い程度の命なんです。文化祭準備に全てを費やす『私』がいるなら、文化祭本番に全てを費やす『私』がいてもいいじゃないですか」

 皮肉めいた彼女の言葉は、奇しくも前回の奈々ちゃんが言った言葉そっくりだった。目の前の彼女は、そのことを知っているかは分からないけど。

 僕はベンチから立ち上がる。午前9時過ぎ。登校しても教室に現れない2人の問題児が、劇の世界に飛び込んでいった。


「……終わりましたね」

 奈々ちゃんは小さく呟き、自分が描いた背景絵を丸める。それは、クラスの誰かが持ち帰らない限りは、校内で燃やされる運命に遭う紙。

「そうだね」

 僕も、劇で使用した小道具を段ボールに詰めながら返す。これらは、燃える燃えない関係なく燃やされてしまうのだろう。

 文化祭が終わった。5日という短い期間、奈々ちゃんは遠野有希という架空の人物になり切り、劇は大成功。どのクラスの劇が良かったかのランキングが明日張り出されるけど、多分上位に入るんじゃないか。そう和田も喜んでいた。

 でも、幻想的とも言える祭りが終わると、それまでの努力は全て焼却されてしまう。休日が開ければ、ビックリするほど現実的な授業が待っている。そんな事を考えていると、片付けが捗らない。

「奈々ちゃん」

「なんでしょう」

 背景を持つために、紙に巻き付けていたポールを担ぎながら彼女は返す。僕はそれを半分受け取り、粗大ゴミ用のゴミ捨て場へと向かう。

「これからどうするの?」

「これからって、なんです?」

「いや、文化祭終わったし、どうするのかなって」

 僕の質問の答えは、呆れたようなため息と、彼女が担いでいた残り半分のポールだった。急に増えた重みに体がふらつく。

「私、久野原奈々は学生ですよ。学校生活を楽しむ以外に何かあります?」

「楽しいかなぁ……」

 歩幅が小さくなる僕とは対照的に、足取りを軽くした奈々ちゃんは振り返り、小首を傾げた。

「優さんは、学生生活を楽しいとは思わないんですか?」

「うーん、どうだろう……」

 荷物の重さに耐えきれず、一時壁に棒を立てかける。すると、重力の悪戯で床に突っ伏すポールたち。からんからんと大きな音が響き、周りの生徒が一瞬こちらを見た。

 楽しくないとは思わない。今回みたいな学校行事はもちろんそうだし、友人との会話も面白い。でもそれは学生生活なのかが、分からない。

 黙っていると、勝ち誇ったような笑みがこちらを見てきた。

「ま、私は楽しいですけどね」

「いや、君普通の学園生活知らないじゃん」

「未知の出来事にワクワクしません? 文化祭もその1つでしょう」

 ポジティブだなぁ。彼女の考え方が羨ましい。床を転げまわるポールを集めながら、僕は息を吐いた。

「まぁ、そうかもしれないけど……幻滅しても知らないよ」

「人生その気になれば、なんでも楽しめますよ」

「言い切ったね」

 言い切るも何も。呟きながら奈々ちゃんは誰かが落としたであろうペンキの缶を広い、微笑んだ。

「私に限らず、人生のゴールなんて死以外にないですよ。道中楽しんだもの勝ちですよ」

 余命3週間の少女よりお知らせでした。呟いた奈々ちゃんは、フタの開いた缶をポールに被せた。先週立派な小道具を作った彼女が文化祭で最後に作ったものは、ヘンテコなオブジェクトだった。

 僕はそれを速やかに解体し、休憩終了と言わんばかりにポールを持ち上げる。

「にしたって、楽しいの差はあるんじゃないの」

「でしょうね。優さんにとって楽しい学園生活を送る極意とは?」

「平穏」

「優さんらしい、つまらない答えですね」

 バッサリと斬られてたじろいだものの、別段自分が面白い人間だと思っているワケでもない。とはいえ、流石に何か言い返したくなった。

「じゃあ、奈々ちゃんにとっての楽しみって何」

「何でもです」

「奈々ちゃんらしい、つまらない答えだね」

 得意げに言い返したら、凄く鋭い目で睨まれた。僕は抱えたポールを高く抱えて自分の顔を隠した。奈々ちゃんは「それじゃ転びますよ」と笑い、結局半分のポールを持ってくれた。

 粗大ゴミにポールを捨てた僕らは、真っ直ぐ帰らず例の裏庭に足を運ばせていた。文化祭の片付けのせいか、普段と比べると人通りはあったけど、ベンチは無人だったので、2人で占領した。

「例えばですよ。私の自宅にあった雑誌によれば、男なり友人なり部活なりお菓子なり、娯楽たるものは沢山あるワケです」

「ものの見事に、奈々ちゃんには縁のないものばかりだね」

「残念ながら」

 フンと鼻を鳴らす奈々ちゃん。現在、帰宅部で辛党の彼女には辛い現実なのかもしれない。彼女にとって最も深刻なのは、体質による弊害なのだろうけど。

「というよりですね。1か月置きに記憶喪失になるんじゃ、碌に人間関係が育めないですよ」

「じゃあ、これから休日はニート?」

「不本意ながら」

 ある種の諦めを含んだ声色。心有らずで空を見上げる僕は、電柱の電線で鳥がけたたましく鳴いているのをぼんやりと見つめていた。茜色の太陽との対比で真っ黒に見えたそれは、実際に黒色のカラスだった。

「私を理解し、外に連れ出してくれる人がいるのなら良いのですが……難しい話ですね」

「だね。あえて言うなら……僕?」

「優さんが?」

 あなたこそ家に籠るんじゃないですか。深く考えずに出した声に、せせら笑うような口調での返答。まぁ実際そうだけど。僕は乾いた笑い声をあげた。

「いや、単純にさ。一番奈々ちゃんを知ってるのは、現時点僕だよね」

「じゃあ、付き合ってくれます?」

「別にいいよ。奈々ちゃんのこと嫌いじゃないし」

 奈々ちゃんにとって予想外の返事だったのか、余裕綽々でベンチで身を乗り出していた彼女の顔が崩れる。口をぽかりと開けていた。

「私、可愛くないですよ?」

「どうだろう。可愛いんじゃない?」

「……私、何度も記憶喪失になりますよ?」

「いや、それは嫌というほど知ってる」

 僕は、制服のポケットからフラッシュメモリを2つ取り出す。どちらも彼女から預かったものだ。貴重品なんだけど、なんとなくお守りみたいに携帯している。

 落ち着かなく視線を左右に泳がせていた彼女は、僕の手中の機械を見て満足そうに、ちょっと寂しそうに笑った。

「……やっぱり、お断りします」

「そう?」

「ええ。仮に優さんが本気で『久野原奈々』が好きだったとして。それは恐らく『私』ではないことに気付いたので」

 奈々ちゃんは立ち上がり、スカートのホコリを手でぱんぱんと払った。一部が僕の近くに漂ってきて、むせた。

 せき込む僕を見つめながら、彼女はいじわるな笑みを見せた。

「言ってないことが1つありましたね。そのメモリ、容量制限があるんです」

「制限?」

「思い出の量と寿命が反比例する、どうしようもない人間なんですよ、久野原奈々は」

 奈々ちゃんは振り返り、恐らく教室への道のりを進む。遠ざかっていく彼女の背中を、どうしてか追いかける気になれず見つめる僕。

「わざわざ優さんに付き合っていただかなくても、私は十分楽しいので。無駄に寿命を奪わないでください」

 一度だけ。立ち止まって上半身だけ振り向いた奈々ちゃんの表情は、晴れやかな笑顔だった。視線の奥では、今にも民家の屋根に太陽が隠れようとしていて。最後の悪あがきに、彼女の頬を強く照らしていた。


 新学期の始業式に向かう、最初の登校日。その日、目の前を歩いている少女が何かを落とした。それが何かは見えなかったけれども、ある程度の予想は付いていたので特には驚かなかった。

 地面にからからと転がり、危うく排水溝の手前で止まった『それ』を拾い上げ、僕は思わず薄い笑みを浮かべた。それは、久野原奈々が記憶を失くした証、フラッシュメモリだった。先月までの彼女の記憶は、この中に記されているのだろう。

 フラッシュメモリを落としたことすら、既に記憶にない少女――久野原奈々はどんどん歩を進めている。僕は歩く速度を少しだけ速め、奈々ちゃんの肩を軽く叩いた。

「あの、ちょっといいかな?」

「は、はいなんでしょう?」

 驚いたように肩がぴくりと震え、素早く振り返る奈々ちゃん。彼女からしたら見知らぬ男性に話しかけられて、困っている状態だろう。僕は安心させるため、優しい笑みを心掛ける。

「これ、落としたよ。君のだよね?」

 僕が右腕に持ったものを差し出すと、彼女は手の中身を見て首を傾げた。フラッシュメモリを見る彼女の顔は、ぽかんと口を開けている状態から次第に驚きの表情に変わる。

「多分……私のだと思います」

「多分?」

「はい、多分。よく分からないんですけど……大事なモノのような気がするんです」

 奈々ちゃんは困ったように眉を下げてはいるけれども、どことなくホッとした様な顔をしていた。大事なものだよ。僕は心の中で呟く。

「これ……変な形してますね。何に使うんでしょう?」

「分からないなぁ」

 使う物じゃないからね。喉まで出かかった言葉を飲み込む。結局のところ、旅行で買ったキーホルダーみたいなもので、使い道はほとんど無いに等しいのだ。

彼女は手に持ったフラッシュメモリをカバンのポケットに仕舞う。それから、僕をじっと見つめて、おずおずと口を開く。

「あの……間違っていたら申し訳ないんですけど。私の知り合いだったり、します?」

「うん。昨年同じクラスだったし」

「ご、ごめんなさい……」

 びくつきながら頭を下げる奈々ちゃんを見て、僕は笑顔を保ちながら小さく手を振った。

「いーよ別に。どうせまた記憶喪失になってるんでしょ?」

「えっ」

 驚いて、食い入るように僕を見つめる奈々ちゃん。思い返してみれば、こういう純粋で穏やかな彼女は入学式以来かもしれない。僕は懐かしむような気持ちで、何度目かの口上を述べる。

「僕は江ヶ崎優って言うんだ。君は久野原奈々。カバンに学生証が入っているから、一応確認した方がいいかな」

「カバン……あ、はい」

 慌ててカバンの奥を漁る奈々ちゃん。その手が、生徒手帳を掴んだらしい。取り出した手帳の表紙に挟んである学生証を見て、彼女は小さく頷いた。

「じゃあ一応信じてくれたってことでいい?」

「えーと……一応、ですね」

「取りあえず今日は始業式だし、遅れてもアレだし行こうか」

 実際朝早い時間でもないので、遅刻したくない。そんな一心で僕が言うと、彼女は目を丸くした。何が言いたいのか分からなかったので、首を傾げて彼女の言葉を待つ。

「あの江ヶ崎さん。私記憶が無くなってるんですけど……」

「大丈夫大丈夫。記憶喪失なんて大したことじゃないから」

 半ば適当に答えると、奈々ちゃんからあからさまに戸惑ったような反応が返って来た。

「え、え?」

 僕の腕時計は、始業式半時間前を示していた。学校まではその半分の時間だけど、余裕がある程じゃない。僕は、奈々ちゃんの手首を掴んで、通学路を進み始めた。

 今では慣れきった道のりを案内するという使命を負った僕は、出勤やらで駅に向かう会社員たちとすれ違う。

 今年も桜は入学式前がピークで、通学路は散った花弁で桃色の絨毯を作っていた。その分桜並木は簡素になっているけれど、我が校の兼六園熊谷は見事に咲いている頃だろう。

「あの、江ヶ崎さん」

「ん?」

「その……私、歩けますから」

 僕はハッとして、手を離した。ごめん。いえ、ありがとうございます。そんな言葉の応酬をしている内、奈々ちゃんが歩幅を速め、僕の隣に来た。

「江ヶ崎さん」

「どうしたの?」

「えぇと、私と江ヶ崎さんって、どういう関係ですか?」

 答えづらい質問だな。僕は即答出来ず、口をつぐんだ。文化祭以降何度か告白はしたけれど、結局断られているし。「友達」が正解なんだけど、和田のような普通の友人とは程遠い関係でもあり。

 適当な言葉を探すけれども、一向に見つからず。僕はしばらく黙ったまま道を進み、学校が視界に入って来た辺りで、精一杯の笑顔でごまかした。

「えーと。凄く答えにくい質問だから、帰宅したら日記を読んでください」

「え」

 再び戸惑った奈々ちゃんを連れて、僕は校門を潜り抜ける。通学路の質素な景色とは真逆に、桜の大木が目の前にそびえ立っていた。

西棟と東棟を隔てる中庭。入学前の見学で気に入った人工池。昨年の整備で水車は無くなってしまったけれど、桃色の桜花は水辺を漂っている姿に変わりは無かった。

「綺麗な桜ですね」

 久野原さんが、桜の木を見上げて呟く。彼女の言う通り、見事な桜だった。僕は帰宅部だから春休みの間見ることは無かったけれども、部活に勤しんでいた人たちは何度も見ているに違いない。僕は頷き、昨年彼女から教えてもらった知識をひらかした。

「兼六園熊谷。ソメイヨシノとかと比べると、遅咲きなのが時期的に丁度いいんだよね」

「珍しいですね。石川県から、原木を借りてきたんでしょうか?……そうだ、昨年――入学式の時も咲いてたんですか?」

「うん、丁度咲いてたよ。今年と同じで、見事な桜だったよ」

 まさしく奈々ちゃんと初めて会った日のことだ。忘れる方が難しい景色だ。答えると、彼女は首を横に振った。違いますよ。断言しながら、彼女は地面に落ちた花弁を拾う。

「同じ木だからといって、同じ花が咲くハズないじゃないですか。違う桜ですよ」

「……そうだね」

 奈々ちゃんを見て納得した。同時に否定したくなった。確かに同じ木だからといって、同じ花は咲かない。でも、同じ花は咲かなくても、同じ木であることに間違いはない。

その最たる例が、僕の目の前で桜の花弁を摘まみ、微笑んでいた。


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