08 天性無欲正直の人
尼子経久は、一代の梟雄である。
その覇道はまっすぐな一本道ではなく、時に曲がり角もあり、一度は国を失うという憂き目にあったとも言われる。
……だからこそ、亡国という不運というか過失に見舞われたからこそ、経久は貪欲に、飽くなき国盗りに身を投じている。
天性無欲。
そう言われるほど、物欲を捨てきっている経久であったが、国盗りに対する欲は誰よりも強く、それ以外の欲を彼から抜き去っていた……。
*
「……ご婚礼、ならびに、ご帰国、おめでとうござる」
ぬけぬけと経久は言い放ち、いかにも当たり前といった感じですたすたと歩み寄り、安芸武田家・武田元繁の愛馬の轡を取った。
そのあまりの自然さに、誰もが度肝を抜かれた。
元繁もまた自失の渦中にいたが、さすがに数瞬で立ち戻り、手綱を引いて、経久から離れようとした。
が、経久は笑った。
「はは、騅が暴れておられる」
騅とは、史上、本物の項羽の愛馬の名である。
経久から離れようと、元繁は手綱を引いているのだが、馬はぴくりともしない。
経久の腕力というか迫力に、馬がなびいているのだ。
「……とりあえずは入城されては如何かな?」
経久が半ば振り返りながら、その眼光で元繁を射抜く。
「……く」
大内義興が傑物だとしたら、こいつは怪物だ。
元繁は心中の動揺を抑え、ここで狼狽えては、安芸武田家の名折れとばかりに、むしろ堂々と経久の導きに合わせて、馬を進めた。
*
尼子経久は、何を狙ってきたかは察することができない。しかし、少なくとも、甲斐甲斐しく武田元繁の馬を引き、元繁が下馬すると、その手を取らんばかりに城中に招じ入れ、桶に水を汲んできて、元繁の足を洗った。
「天性無欲正直の人」として知られる経久の、真骨頂である。
「…………」
元繁としては忌々《いまいま》しいかぎりだが、この目の前で自分の足を洗う男の恐ろしさの前に、城の者たちが陥落してしまったのも無理はないと思った。
決して、経久は威張ったり脅したり、ましてや殺気を向けたりはしない。
だが、それが、逆に恐ろしいのだ。
この、家来に対しても、物欲しげな場合は、その物をあっさり呉れてやる男が。
城の松の木を良いものと持ち上げた家来に対し、その松の木を差し上げようと切り倒そうとする男だ。
こんなにも人のために尽くす男が、その国盗りという野望のためにどれだけ尽くしているか。
それを想像すると、恐ろしい。
「さ、足を洗えましたぞ、元繁どの」
綺麗になった足を見て、心底嬉しそうに微笑む経久。
この正直なところが、また怖い。
兎にも角にも、ここまでしてもらっている以上、城主としても無下に追い返したり、ましてや切り捨てるわけにもいかないので、礼を言って、とりあえずは城主の間へと向かう。
二人で。
「……こちらへ」
足まで洗ってもらったのだ。
城主である自らが案内せざるを得ない。
元繁と経久は、ごく自然に城主の間に入り、そしてそのまま二人きりとなった。
「……して?」
元繁としては、用件を聞くだけ聞いて、とりあえずは経久に帰ってもらおうという腹積もりだった。
仮にも大内義興の命で安芸へ戻ってきたその日のうちに、敵の首魁である経久と膝を突き合わせているこの状況は、いかにも拙い。
義興の猜疑心を刺激し、せっかくの安芸帰国を取り消しにされ、また上洛を余儀なくされるかもしれない。
「…………」
経久は、そんな元繁の胸中を読み取っているのかいないのか、にんまりとした笑顔を浮かべていた。
それが元繁の癇に障った。
「聞いておるッ! なぜ、答えぬ!」
「……さようでございますな。失礼をいたした」
少しもそのようなことを思っていないような笑顔を浮かべ、経久は詫びる。
しかし次の瞬間、それは凄絶な笑みに変わった。
「尼子を討伐されるとの由。まことかと思いましての」
自分と敵対するか、と聞く経久。
経久の二つ名、雲州の狼。
その牙を見たような気がした。
「……ま、まことだッ」
ここで退くわけにはいかない。
自分にも、安芸武田家の当主として、仮にも項羽と称せられる者として、意地がある。
経久は元繁を睨んだ。
「……ほう、それは残念至極」
「ふん、だが、今すぐとは言わぬ。いろいろと尽くしてくれた礼は言う……が、去ねッ!」
こいつと一緒にいると危険だ。
総毛立ったこの身が教えてくれる。
こいつと一緒にいればいるだけ、深淵に取り込まれる。
……元繁のその感覚は正しかった。
もう取り込まれているということをのぞいては。
「それは仕方ないのう……可愛い一族の者にさようなことを言われては、の」
「だ……誰が一族だッ! 血迷うたか!」
おれは大内家の身内だぞ、と強がる元繁を、経久は嗤う。
「義興の、しかも養女ごときを娶ったところで……身内?」
大内義興を呼び捨てにした挙句、養女ごとき呼ばわりである。
「そうではないか元繁どの。いかにも間に合わせという感じの、よその家の、しかも分家でもどこでもない、縁もゆかりもない公卿の娘。そんな養女ごときを妻としたところで、あの義興が、おぬしを身内と思うてくれるかの?」
そんなことより、と、いつの間にか経久は、元繁の横に回り、その手を取る。
「な……何をッ」
「この手に取りたくないのか?」
「だから……何をッ」
「安芸を、じゃ」
「そ……それは……大内家の者として……」
「自らの手で取りたくはないのかと聞いておる!」
これまでの柔和な態度を崩して、一転、怒鳴りつける経久。
手を握られたままの元繁は離れることができず、喘ぐように息を漏らす。
「おれの……手……で?」
「そうじゃ……今のように、義興の走狗ではない、使い走りではない、安芸武田……名門、安芸武田家の当主として、守護代として……いや何より……項羽として」
そこで経久は言葉を切った。表情を見ると、能面のよう。これが、この男の本性か。本性の顔か。
能面がしゃべる。
「おのれの手で……盗ろうとは思わないのか、安芸を」
今なら盗れるぞ、易く……と能面はしゃべり終えて、沈黙する。
「い、今なら……」
「ああそうだ、大内は、おぬしに丸投げしたから、他に兵はない……好機だ」
「好機……」
元繁の脳裏に、安芸の勢力地図が浮かぶ。
安芸武田家の軍、そして麾下の国人に声をかければ、五千は集まろう。
そして大内家は、京に兵力を集中しているため、この五千の軍に対抗することはできない。
そうなると、あとは安芸国人一揆ぐらいか。
「しかし……」
「ふむ……」
ここらで決め手を打つか、と経久は表情を戻す。
「元繁どの、元繁どの」
「な、なんだ」
「さきほどのわしの言葉、覚えておるか」
「言葉……?」
「そう……一族に、ということだ」
「一族……?」
「わが弟の久幸に娘がいる」
「そ、それが何か」
「もろうてくれ……正室に」
「正室!?」
こいつは何を言っているんだ。
わが正室は、大内義興の養女で、公卿・飛鳥井雅俊の女だ。
何を今さら……。
「言っておくが、尼子の、他ならぬわが弟の娘だ。尼子は、そなたを切り捨てはしない」
人質と思うても良いぞ、と経久はつけ加えた。
「ぐ…………」
たしかに、大内義興にとって、養女である飛鳥井家の女は、人質の価値が薄い。
しかるに、尼子経久にとって、弟・尼子久幸は腹心である。尼子家にとって、要と言っても良い。その娘を、呉れるというのだ。
「飛鳥井の娘など、離縁してしまえば良いのじゃ」
「…………」
そうだな。
元繁はひとりごちる。
元々、安芸武田家は名門であり、大内義興には、不幸にも戦に敗れて、従っているに過ぎない。
「今こそ……安芸をわが手に。そして今度こそ、大内になど後れを取らぬよう、わが武田を精強なるものに」
元繁は立ち上がる。
同じく立ち上がった経久の方を向く。
「尼子どの」
「なんじゃ」
「おかげで目が覚めた。礼を申す」
「なんの、なんの」
「では早速……妻女を……ではない、妻女だった女を、追い出して参る」
元々、白粉だらけの京女など、薄くて好みではなかったわ、と哄笑して、元繁は城門へ向かった。
しばらくすると女の悲鳴が聞こえた。「やめて」とか「助けて」という声だ。
そしてまたしばらくすると、元繁が戻ってきた。
「これでよし……尼子どの」
「うむ」
「姪御どのは、つまらない女ではあるまいな? おれは元々、強い女が好きなのだ……飽きさせない女だといいが」
元繁の中の何かが変わった。
野性味を増した元繁の風貌を見ながら、経久は、わが姪に伝えよう、と言った。
そうか、と元繁は鷹揚にうなずき、「では家臣どもを集める」と告げた。
「安芸をわが手に……ふっふ……尼子どののおかげで、面白くなってきた……わが人生、大内家の走狗に終わらすには惜しいと思うておったことに、今、気づいたわ。ふっふ……くふふ……はっはっはっは……」
武田元繁の覇道が始まる。
それは確かに、古の唐土の項羽のように苛烈なものであり、安芸を戦乱の巷に叩き込むことになった。




