50 西の桶狭間
その所作は、あまりにも美しく、見るものをして、それぞれが静止しているかのような印象を与えた。
矢をつがえ。
弓を張り。
矢を放つ。
それは、多治比元就に組み付かれた武田元繁の目からも、とてもゆっくりに見えた。
だが実際は一瞬であり、雪の射た矢は、元繁へ向かって、滑るように飛ぶ。
安芸武田軍の将兵たちも、思わず見とれ、そして動くことができない。
鬼吉川の妙弓。
俎板吉川。
一方が敵を押さえ、一方がその敵を射る。
応仁の乱当時の、吉川と尼子の、必勝の型。
元就は、先の熊谷元直との戦いにおいて、宮庄経友と雪のそれを見ており、今、この死地において、それに活を見出したのだ。
これなら討てる。
そう思った元就と雪を、裏切るかのように、武田元繁は呟く。
「……ふん、くだらん。実にくだらん」
元繁は元就の両腕を掴んで、強引に持ち上げる。
恐るべき膂力。
元就は、手こそ外さなかったものの、まるで元繁に抱き上げられるかのように、少し、宙に浮いた。
……それは、矢の射線上だった。
元就はそのことを瞬時に悟り、目を閉じた。
*
「……がっ」
多治比元就の背に衝撃が走る。
眼前の、武田元繁が嘲る。
「ばかめ、知らぬと思うたか、鬼吉川のやり口を」
元繁が意味ありげに流し目をすると、そこには故・熊谷元直の家来であった、板垣と山中がいた。
元就が、敢えて逃がした、板垣と山中が。
「そうか……その二人から……」
たまらず、元就は元繁から手を離し、頽れていく。
元繁は、勝ち誇るかのように、そのまま元就を地に叩きつける。
「愚か者めッ! だが、予を謀るのもこれまでッ! どれ、あれなる雪姫を、予がかわいがって……」
元繁が雪の方を見た瞬間。
元繁の首筋に、何かが斬りつけてきた。
斬りつけてきたように、感じた。
ばかな。
井上光政か?
いや違う。
多治比元就は、地に伏している。
だが、一体……。
武田元繁が首に手をやると、それはべっとりと赤い血に染まった。
元繁自身の血で。
「なっ……ぬおおおお!」
元繁は理解した。
後方に落ちる矢を見て、理解した。
飛来した矢が、元繁の首筋を斬ったのだ。
誰が射たのか?
それは分かっている。
鬼吉川の妙弓、雪だ。
どうやって?
それも分かった。
元就が倒れて、空いた空間を、その射線を。
「射抜いたというのかッ!」
何という連携。
あの一瞬で。
「……ぐ」
感心している場合ではない。
頸動脈から血が噴き出す。
早く手当を。
将兵に助けを求めねば。
だが……だが、声がうまく出ない。
と、とにかく、この場を。
「…………?」
動こうとした元繁だが、その足が動くことは無かった。
まるで大地に縫い付けられたかのように。
……多治比元就が、武田元繁の足に組み付いていたのだ。
「は……離せ、離せッ! 多治比元就、貴ッ様!」
元繁が唾を飛ばして動揺するのと反対に、元就は静かに顔だけ上げ、敵手を見た。
能面のような、無表情。
知っている。
こんな顔をする奴を、知っている。
そいつは、雲州の狼と呼ばれて。
謀略においては、右に出る者がいない。
「こやつッ! 尼子経久と同じ……化け物ッ!」
「ここまで来て……」
一方の元就は平静そのものの口調だ。
「武田元繁、貴様を逃がすとでも」
「離せ! 離せと言うに!」
「……鬼吉川の妙弓は」
唐突に謡い出す元就。
「……一の矢、二の矢、三の矢と」
これは安芸武田軍に突撃し、武田元繁の居る場所まで肉迫しつつあった、宮庄経友の声である。
「……ねらいは必中」
井上光政が、安芸武田軍の将兵相手に斬撃を躱しながら、長井新九郎の槍の指し示す先に、ついに元就の刀を見つける。
「……あやまたず!」
吉川雪が弓に矢をつがえる。
これが最後の一矢。
だが、これは外せないし、外さない。
多治比元就が敢えて己の身に矢を受けてまで、作ってくれた隙だ。
今、武田元繁の頸を削った。
これで元繁は驚愕して、声が出せず、動きが単調になった。
加えて、元就がその足を押さえた。
元繁がその元就の頭や体を殴打するのが見える。
闘志が湧いてきた。
「……おのれ」
よくも。
よくも。
「……この矢は、わたくしだけではない。元就さまと……興元さま、そして皆の矢だ!」
雪の目に、己の弓から武田元繁までの線が見えた。
「……射る!」
弓弦が撥ねる。
その矢は、どこまでも鋭く、速く。
武田元繁の命を絶つべく、風切り音を立てて、疾走する。
一方で、もがく武田元繁は、離せ離せと喚き、肘で元就の頭を痛打したが、飛来するその矢に、ついに己の命運が尽きたことを悟った。
首から血が噴き出すのもかまわず、元繁は吼えた。
「……予は! おれは! 武田元繁だぞ! 安芸の守護代だぞ! こんな! こんな! 国人の寡兵なんぞに! この項羽が、中国を制し……」
そこでついに、矢は無情にも武田元繁の断末魔を中断させた。
永遠に。
「……ぐっ」
額に矢が深々と突き刺さった。
熊谷元直のように。
そしてさらに、首から流れるおびただしい出血。
大きく目を見開く元繁。
その目に、ひとりの武者が斬りかかってくるのが見えた。
「多治比元就が臣、井上光政! 御首、頂戴つかまつる!」
剣光一閃。
……首を失った元繁の体は、ふらりふらりと揺れながら、後背の又打川に落下した。
山県重秋のように。
大きな水音を立て、元繁の遺体は水中に沈み、浮かび上がってきたものの、動くことは無く、ゆっくりと、ゆっくりと流されていった。
……永正十四年十月二十二日。
有田中井手の戦いと後に称せられる、この合戦にて。
多治比元就が率いる毛利・吉川連合軍が、武田元繁率いる安芸武田軍に勝った瞬間である。
兵力差、実に五倍。
だが死力を尽くし、そして智謀の限りを尽くした元就が、仲間たちの助けを借りて、ついに成し遂げた勝利である。
この報を知った、京の大内義興は「多治比のこと、神妙」と感状を出している。
この戦いを境に、安芸武田家は勢いを失い、やがて毛利家が安芸を制し、中国を制覇する流れが生まれる。このことから、こう呼ばれる。
――西の桶狭間、と。




