その9
霊安室へと向かい、俺たちは階段を降りている。
コツリ、コツリ、とできるだけ音を立てないように。
地下に降りるたび、嫌な湿気が頬を撫でる。
清潔ではあるはずだ。仮にも病院、消毒液のような香りが満ちている。
それでも、この居心地の悪さはただの警戒によるもの、なのだろうか……
そろそろ物音を立てたとしても問題はないだろう。
「凛さん。話をしてもいいです?」
「なんだ。」
「仮に、戦闘になったとして、こちらに武力はあるんですか?」
あえて軽い言葉を使った。
「戦闘ねぇ。」
「まあ、武力は安心しろ。こっちには切り札がある。」
何かが黒く輝いて見えた。
「そんなことより、帰ってもいいぞ? お前ら」
「正直、私の想定不足だ。これは素人が関わっていい事案じゃない。」
いつになく凛さんの表情は真剣だった。
俺はしばらく首をひねり、考えた。
「まあ、辞めときます。」
「あなたたちを見殺しにしたら、夜、安眠できなさそうなので。」
凛さんの目に失望が映った気がした。
「あと、いざって時に俺と卯月さんだけ売られそう。」
凛さんは、息だけで笑った。
「まあ、正解だよ。お前たちが来る以上、守るべき対象は咲希だけじゃなくなる。」
想定内か。
「というか、こんな地下に浮気の証拠があるの?」
卯月さんは何気なく聞いた。
……そう言えば、浮気調査という名目だった。
「まあ、夫人の違和感の正体はわかるさ。きっと」
ごまかし方がうまいなこの人。
一応、卯月さんへの説明の仕方をずっと考えてるんだけどね。
説明しなくとも、いつか勘づきそうだから。
この人なんか鋭いとこあるんだよな。
――霊安室前。
「多分、ここだ。」
凛さんは霊安室の隣のドアを指差した。
「霊安室自体では「それ」がばれかねん。だが、導線のいい場所。」
凛さんの声色が少しかすれた。
自分の生唾を飲む音がやけにうるさく聞こえた。
ドアノブを回す。
ガツ。
……
そりゃ、鍵かかってるか。
「よし、帰りますか。」
「うん。咲希、お前だけ帰れ。」
凛さんは速やかに髪留めのピンを変形させ、鍵穴にそれを通した。
「もう、探偵というより泥棒では?」
「黙れ。ここにおいてくぞ。」
手応えがあったようで、凛さんの目の色が一瞬変わった。
ガチャリ
今度こそ扉が開いた。
――
扉の奥から吹き出すのは消毒液の匂いに、雨に濡れた鉄のような生臭さを足したような空気だった。
部屋に入るたび強まるのは冷気と腐敗臭。それに加え、甘い香りもあるのだから、尋常ではない嫌悪感を抱かせた。
部屋の中央にある鈍色に光る解剖台が目についた。
俺は生唾を飲む。
卯月さんは軽快に尋ねた。
「今度はここで浮気の証拠を探せばいいの?」
凛さんは眉間を押さえるように言った。
「……まあ、さっきの日誌をUSBに入れてある。それに加え確たる証拠がほしい、かな。」
「なあ、もうそろそろこいつにも説明を……」
凛さんがそう言ったところで、何かの物音が外からした。
即座に外に出る四人。
――
廊下の奥から、ずるっ、ずるっ、っと肉を引きずる音。
ぐちゃぐちゃに縫い合わされた肉の塊が、何体も、足を引きずりながらゆっくりとこちらに近づいてきた。
腕の長さが左右で違う。指の本数もめちゃくちゃ。皮膚の色もパッチワークみたいに継ぎ接ぎだ。
……日誌にあった失敗作だ。
「まあ、こうなるわな」
「凛。まずいです。後方、私たちが降りてきた階段方向もグールで塞がれてます。」
ほぼ同数、後方に見えた。十はくだらない数。
「なるほど、部屋の侵入がトリガー。入ってきたやつは口封じってわけだ。」
凛さんはコンクリート壁に両手を当てた。
「おい、ちょいと時間を稼げ。私の魔法は時間がかかる。」
「わ、わかんないけど、あれ倒せってことね?」
困惑しながらも、卯月さんは全身を白く輝かせながら、右腕を振った。
すると、前方に鎌のような形を持つ風が射出された。
ズバンッ、とグールの人体が縦2つに割られた。
「はっ! なんだ、てめぇも魔術師様かよ! ずいぶんと楽になった!」
凛さんは吐き捨てるように叫んだ。
ボトン。
グールの中から、人間の脳みそや臓器がこぼれ出て、床に落ちた音。
「え、え? あれって。」
卯月さんの動きが、表情が固まる。
「え? ひ、人、じゃないの?」
「待たせた! 完成だ。」
「黒」々しい光とともに現れた、彼女の手には刀が握られていた。
ズバン、グールの頭部を切り落とす。
ゴトン、頭部が地面に落ち、床を転がる。
「おい、桃! こっちだ! 階段方向のグールを片付ける!」
しかし、卯月さんは震えて固まっていた。
「え? 私魔法で人を……」
「おい、馬鹿! 何やってんだ! 魔力なんざ十分だろ!」
「だって凛! あれは人、じゃないの?」
「……だろうな、だからどうした!」
凛さんの声は少し震えていた。
「だって、じゃあ! 「これ」は人殺しじゃん!」
大きな舌打ちが聞こえた。
「ああ、だろうな! 人殺しだよ!」
「倫理が何だと言ってる場合かよ!」
卯月さんは戸惑い、迷い続ける。
「おい! 頼むって! 流石の私でも一人じゃ切り抜けれん! お前が頼りなんだよ!」
凛さんの目には真剣さが映っていた。
「わ、わかってる……。でも……。」
卯月さんはブンブン、と右腕を何度も振った。
それでも白く輝くことはなかった。
「で、でない。私の魔法がでない……」
彼女は痛々しくそうつぶやいた。
ブンブン、右腕を振った。
「クソが! 今それ起こすかよ!」
「だからテメェを連れて来るの嫌だったんだよ!!」
刀の軌跡が白く光る。
彼女の震えがさらに強くなった。
ブンブン。
何度も右腕を振っている。
――ああ、もう限界だ。
ダンッ、っと俺は凛を壁に蹴りつけた。
「てめぇ! 凛! いい加減にしろよ!!」
「……痛ってぇな! テメェもそっち側かよ!」
「言ってる場合じゃねえだろうがよ!!」
パシュ。
どこからか、耳の後ろに、冷たいしぶきがあたった。
「言い方ってもんがあるだろうがよ!!」
俺は叫んだ。喉が痛む。
「なこと気にしてる場合かよ! 時は一刻を争うんだよ!!」
俺は凛をさらに強く壁に押し付けた。
「だとして、最後の罵倒は余分だったろうがよ!!」
「あれがお前の八つ当たりじゃないなら、何なんだ!!!」
パシュ。
首筋をつたって、冷たい線が落ちていった。
影が伸びて、足元まで舐めてきた。
「謝りゃ、グールが消えるのかよ!!」
「私はお前らを守るためにやってんだろうがよ!!!」
「だったら!!」
「だったら、卯月さんの心も守ってあげろよ……」
体の奥底、心臓の辺りに透き通るような温かさを感じた。
グシャリ。
甘ったるい腐肉の匂いが濃くなった。
俺は未だに、右腕をふるい続ける卯月さんに近寄り、手を取った。
「もういいから。」
「大丈夫。魔法なんて使おうとしなくていいから。」
「俺たちでなんとかする。」
できるだけ声色を落ち着かせてそう言った。
鼻で笑う音が聞こえた。
「ここにきてヒューマンドラマかよ。馬鹿馬鹿しい。」
「あ?」
再び口論が始まりかけたその時、
チョイチョイ、と咲希に袖を引かれた。
「お二人さん。あれ。」
咲希は何かを指差す。
「あ? 咲希、てめえもそっち側か?」
「違う違う。もう戦う必要ないかも。」
咲希が指さした方向はグールがいた二方向。
そこには、まとまりのないただの肉片があった。
グールがいたはずのそこに
……た、倒した、の?
ドサッ。
俺と凛は地面に体を預けるように倒れこんだ。
何故か俺の両手がうっすら濡れているように見えた。
青白い光が滲んでいるようにも見えたが、瞬きするとそれは消えていた。
……疲れているせい。そう決めつけることにした。




