メヒコの赤い鷹 世界フェザー級王者 ビセンテ・サルディバル(1943-1985)
サルディバルが大衆に人気があったのは、単にハードパンチャーだったからではない。勝つためには手段を選ばないような姑息なタイプも少なくない中南米のボクサーにしては威風堂々としていて男気もあり、日本人だったら任侠の世界が似合いそうな男臭さが、気性の激しいメキシカンたちにうけたのだろう。
一九六四年九月二十六日、メキシコシティのエルトレオ闘牛場に押し寄せた二万四千の大観衆は、“世界フェザー級タイトルマッチ”という謳い文句のもとに行われた闘牛士対猛牛の肉弾サバイバルマッチに酔いしれていた。「メヒコ!メヒコ!」の大歓声が轟く会場は、観客が手に握り締めたコロナビールが熱燗になってしまいそうなほどの異常な熱気に包まれていた。
“メヒコの赤い鷹”の異名を取る二十一歳の若きチャレンジャー、サルディバルは二十四勝一敗(二十KO)という軽量級離れしたハードパンチャーである。唯一の敗戦はラウンド終了後のパンチによる反則負けであり、その相手とも後日KOで決着をつけていることから、事実上無敵と言ってよかった。しかし、そのサルディバルをもってしても、勝ち目は薄いと見られていたほどチャンピオンは凄かった。
亡命キューバ人のチャンピオン、シュガー・ラモスは“殺人パンチャー”の綽名が示すとおり、リング上で対戦相手を二名死亡させた恐るべき相手だった。こちらも四十五勝一敗(三十三KO)二引分けという戦績の中での唯一の敗戦は反則負けに過ぎず、実質的には無敗だが、さらに驚くべきはアマチュア時代も七十四戦無敗(三十七KO)とボクシングを始めてからおおよそ敗北の味を知らないことである。
サルディバルも十七歳でメキシコゴールデングローブ大会に優勝し、ローマオリンピック代表になったほどの逸材だが、ラモスに至っては国際試合を含めて十二のタイトルを獲得しており、まさにロイヤルロードを駆け抜けてきた感が強い。この中にはヘルシンキオリンピック日本代表の米倉健司(後に東洋バンタム級チャンピオン)を下した星も含まれる。
二十二歳の若さでこれだけの実績を持つラモス相手では、いくら地元贔屓のメキシコ人ファンたちも、今夜ばかりはサルディバルの勝利に賭ける気にはなれなかった。賭け率二対一は彼らの期待を含めた数字であって、実際のところ両者の実力差はもっと離れているという意見が一般的だった。
試合は“打たせてから打つ”タイプのラモスの誘いに応じるかのように、サルディバルは牡牛のように突進を繰り返した。スパーリングでも、まずは相手に三~四発ほど顎にクリーンヒットを決めさせてから、打ち返すという独特な練習法をとっているだけあってラモスの顎は強い。インサイドに入ったサルディバルのショート連打をまともに浴びながら、全く下がることもなくその体勢から左右のフックで応戦するラモスはまるで装甲車のように頑強だった。
前半こそ先にクリーンヒットを浴びせたサルディバルの方が返しのパンチを浴びて後退するシーンがしばしば見られたが、ここしばらく減量苦が伝えられていたラモスは後半に入ると動きが鈍くなりパンチの切れもなくなってきた。
十ラウンド終盤、サルディバルのラッシュでついにラモスがダウン。これで試合の流れは一気に挑戦者に傾いた。続く十一ラウンドもKOを狙ったサルディバルのラッシュが続くが、ロープに詰まりながらもラモスも果敢にパンチを打ち返してくる。並みのボクサーなら一撃で仕留めてしまうサルディバルの左フックをこれだけ直撃されながら反撃を諦めないラモスの打たれ強さは尋常ではなかった。おそらくサルディバルの方はこれだけ手応え十分のパンチが入っているにもかかわらず倒せないことに対するいらだち以上に恐怖心すら感じていたのではないだろうか。
結局、十二ラウンドにラモスが棄権を申し出たことで、サルディバルが新チャンピオンになったが、十一ラウンド終盤の一方的な連打にさらされながらラモスはキャンバスに膝さえ触れることがなかったのだ。
この対戦に先立ち、仮にサルディバルが勝利したとしても、ラモスとの再戦に応じることが契約で取り交わされていたが、ラモスはその権利を放棄している。それほどサルディバルの攻撃が凄まじかったのだろう。
試合後ラモスは次のように語っている。
「サルディバルは私よりも数段強い。最後は恐怖すら感じたよ」
猛牛サルディバルは、手練の闘牛士を血祭りにあげ、エルトレオ闘牛場から世界の舞台へと飛び出したのである。
翌日、「殺人パンチャー、ラモス敗れる」のニュースは世界中のボクシングファンを驚かせたが、中でもわが国のボクシング界にとっては大きな衝撃だった。それほどラモスは日本ではビッグネームだったのである。
なにしろ“KOキング”こと高山一夫を二度までも撃退したデビー・ムーアを昇天させて世界タイトルを奪ったばかりか、東洋無敵の関光徳をもKOに屠っているほどの男である。そのラモスを倒したのだから、サルディバルの強さが神格化されるのも無理はない。中には、パウンド・フォー・パウンド最強と言われる“黄金のバンタム”エデル・ジョフレより強いのではないかという声も出たほどだ。
この日から日本フェザー級の切り札、関はラモス以上の強敵サルディバルとの戦いにボクサー人生の全てを賭けることになった。
サルディバルがボクシングを始めたのは、大のボクシングファンだった父の影響である。手に負えないほどの腕白坊主だった息子のフラストレーションに捌け口としてやらせてみたところ、あっという間に頭角を現し、ローマオリンピックメキシコ代表にまでなった。ローマでは予選で不当な判定負けに泣いたが、ここでトップアマに試合をつぶさに観察したことで、サルディバルはボクサーとして大きく成長したと言われている。
サルディバルのボクシングの特徴は力強さにある。並外れたハードパンチャーでありながら、勝ちを焦らずじっくり攻めてゆくタイプのため、一ラウンドKOが少ないところなどはジョフレに似ている。打たれ強く、スタミナにも自信があるサルディバルは、後半になるほど強く、たとえ途中まで相手にリードを許していてもペースを崩さず、最後には逆転してしまう精神力の強さがあった。
また、「万人に尊敬されるボクサーになれ」という父の教えに忠実に従ったサルディバルは、クリーンファイトに徹し、対戦相手に対しても敬意を表すことを忘れなかった。貧しい家庭に育ちながら、チャンピオンになっても“成り上がり”のように派手で浮ついたところもなく、仕草にも気品が漂っていたのは、ボクシングというスポーツを心から愛した父の教えによるところが大きい。
世界チャンピオンになるまで印刷工場に勤めていたというのも、真面目なサルディバルらしい。
いかなる相手にも奇策を用いたりすることなく正攻法で立ち向かうところは、ある意味、愚直ではあったかもしれないが、その姿はいかにも男らしく、“マッチョ信仰”が根強いメキシコでは、派手な倒し屋として一世を風靡したルーベン・オリバレスやカルロス・サラテよりも人気が高かった。
もし、全盛期同士で戦ったとしても、オリバレスとサラテのパンチをもってしてもサルディバルが倒される姿は想像がつかない。フェザー級で戦った場合は、顎に弱点を持つオリバレスとサラテの方が力負けしてしまうような気がする。それほど、サルディバルは弱点が少なく、まるで重戦車のように頑丈だった。
そのサルディバルが最も苦戦を強いられたのが、世界タイトル挑戦者決定戦とでも言うべき、イスマエル・ラグナ(パナマ)戦だった。
世界ランキング一位のラグナは、長身のアウトボクサーだが、三十四勝一敗という戦績の中に十連続を含む二十二のKO勝ちを記録しているように、左右のパンチに一撃必倒の威力を秘めた攻防兼備型である。
対するサルディバルは、ここまでに元世界バンタム級チャンピオンのエロイ・サンチェスや後に柴田国明をKOしたドワイト・ホーキンズなどの強豪をことごとく沈めてきたものの、ファイトぶりが地味だったせいかそれほど世界に名が知れているというわけでもなく、世界ランキングも七位に過ぎない。
試合はスピーディーなジャブを繰り出しながら距離を取るラグナに対してサルディバルは正面から突破口を切り開こうという展開だった。ラグナのリードは速く、サルディバルの顔面を正確に捉えるが、頑強なサルディバルは少々のパンチを浴びてもどこ吹く風で、隙あらば左右のフックを振るってインサイドに入ってくる。
身長が15cmも違うため、サルディバルがロープに追い込んでも、顔面へのパンチはスウェーでかわされ、すぐにクリンチに持ち込まれてしまうため、自慢の連打も回転数を上げる前にストールを繰り返すばかりで全く埒があかない。最終ラウンドまで不完全燃焼気味の攻撃が続いた結果、判定は僅差でサルディバルに上がった。
しかし、専門家の多くはラグナが優勢と見ており、サルディバルの勝利は地元判定による前代未聞の番狂わせであると非難を寄せた。この試合を観戦していた次期対戦者候補のドン・ジョンソン(世界二位)も、「メキシコではサルディバルとは戦えない」と判定に対する不信感を隠そうとはしなかった。
というわけで、この一戦はサルディバルが地元判定によって勝ちを拾ったかのように見られているが、試合フィルムを見る限りそこまで酷い判定という感じではない。確かにサルディバルは懐の深いラグナを捉え切れずに終わったが、積極的に前に出てよく攻めていた。逆にラグナの方は左こそよく当てていたものの、あまり打ち合いに応じようとせず、ポイントアウトを狙った戦い方のようにも見えた。ホームタウンデシジョンも珍しくない時代ということを考えると、このくらいは許容範囲ではないだろうか。
後にカルロス・オルチスからライト級タイトルを奪い、ガッツ石松をストップしたラグナのパンチ力を考えると、この時もサルディバルを倒す気で向かってゆくべきだったと思う。
世界タイトルを獲ってからのサルディバルは、後の世界フェザー級チャンピオン、ラウル・ロハス(米)をKOして初防衛に成功すると、これも後にチャンピオンになるハワード・ウィンストン(英)に敵地で完勝、さらに、ラモスをダウンさせたこともあるフロイド・ロバートソン(ガーナ)もKOし、安定王者への道を歩み始めた。そんなサルディバルの前に立ち塞がったのが、東洋フェザー級チャンピオンの関光徳だった。
関はラモスにKOされて以来、三度目の世界戦だが、“名刀正宗”と称される右フックにはさらに磨きがかかっており、さすがのサルディバルも関に勝てないのではないかという意見も少なくなかった。これは、サルディバルには強打のサウスポーと対戦経験がないことや、サルディバルと並ぶメキシコのトップボクサーであるジョー・メデルや、両者と対戦経験のあるラモスが、「関の方が強い」と予想していたことなどによる。
一九六六年八月二十六日、四度目の防衛戦に臨んだサルディバルは、序盤からダブル、トリプルと繰り出される関の左に苦しめられた。ジャブならまだしも、一撃KOの威力を秘めた左リードを連打されては前に出ようにも出られない。
四ラウンド、関の強烈な左フックを浴びてサルディバルがダウン。もう立てないのではないかというほど、ダメージは深刻だった。立ち上がったところにさらに右アッパーが入り、もう足はガクガクである。
あの勇敢なサルディバルがなりふりかまわずクリンチを繰り返す姿は初めてだった。
しかし、関は渾身の右が当たった瞬間、右手を痛めており後続のパンチが出ない。このピンチをしのいだサルディバルは、七ラウンドに関が思わず膝をつく軽いダウンを奪い返すと、旺盛なスタミナでポイントを挽回してゆき、十四、十五ラウンドの関の捨て身の攻撃もかわしきった。
僅差ながら判定はサルディバルに上がったが、ラグナ戦の時と違って、今回ばかりは同胞のメキシコ人たちもサルディバルの勝利に不満をぶちまけていた。
「この判定は不当だ。われわれはメキシコ人だからサルディバルを応援したいが、勝者は明らかに関だ」と。
問題は四ラウンドのダウンの時だった。レフェリーは関を一旦ニュートラルコーナーに押しやってから、改めてゆっくりとカウントを始めたのだ。サルディバルはカウント8で立ち上がったものの、足元はぐらぐらしており、ダウンの直後からカウントされていればKO負けになっていてもおかしくなかった。
幸い、関が拳を痛めたため、最終ラウンドまで持ちこたえたとはいえ、試合終了後には病院に直行し、その後数ヶ月に渡って頭痛に悩まされるほどのダメージを負っていたのだ。
ファンはまるで敗者のように顔を腫らし疲労困憊した姿でチャンピオンベルトを受け取るサルディバルの姿に失望を禁じえなかった。その一方で、不当な判定にもかかわらずサルディバルの手を挙げ、勝者を祝福する関は大勢のメキシコのファンから喝采を浴びていた。
「あれはわれわれのサルディバルではない」
地元新聞にこういう見出しが躍ったのはサルディバルにとってはショックだった。ただちに両者の再戦が決定したが、もし関に敗れることがあれば引退する覚悟で、その恐るべき右フック対策を綿密に練りながらサルディバルは再戦の時を待った。
一九六七年一月二十九日にエルトレオ闘牛場で行われたサルディバル五度目の防衛戦は、世界初の商業用人口衛星インテルサット一号による衛星生中継が、日本のお茶の間にも流れた(日本時間三十日昼)記念すべき一戦だった。
“関の楽勝”という声も少なくなかったこの試合、いつになく一ラウンドからサルディバルはエンジン全開で攻めてきた。人里離れたところで秘密トレーニングをみっちり積んできたせいか、スピードも前回とは段違いである。関の左対策として左腕で顎をガードしたサルディバルは、関の左に合わせるようにこの日のために磨いてきた右アッパーを幾度となく関の腹にめり込ませた。
七ラウンド、ついにサルディバルの左フックが炸裂し、関がダウン。「これで何もかもわからなくなった」という関は立つのがやっとという状態で、とてもサルディバルの追撃をかわせる力は残っていなかった。
このラウンドに関をフィニッシュし汚名を晴らしたサルディバルは、その後三度の防衛に成功すると、突如引退を表明した。ハワード・ウィンストンを十二ラウンドに逆転KOで沈めた後、そのままリング上で引退を宣言したのだ。
大観衆が涙を流しながら別れの歌を歌い、去りゆくサルディバルを見送ったが、いくら国民的英雄であっても日本ではこれほど感動的なシーンはかつてなかった。いかにサルディバルというボクサーが人々から愛され尊敬されていたかの証であろう。
サルディバル自ら後継者として指名した関とウィンストンによる世界王座決定戦がイギリスで開催されたが、九ラウンドに関が古傷から血を流し始めたところで、英国人レフェリーから突如TKO負けを宣せられるというドタバタの末、タイトルはウェールズ人の手に渡ってしまう。
この試合を観戦していた前チャンピオンのサルディバルは、試合開始に先立つセレモニーで、持参したチャンピオンベルトを披露しておきながら、贈呈式ではプレゼンターとしてリングに上がるのを拒んでいる。
彼はその足で関の控え室に向かい、敗者を労っていたのだ。サルディバルは英国人の身贔屓によるタイトル略奪劇に対し、無言の抗議を行ったのだった(ウィンストンは半年後にホセ・レグラにKOされ、タイトルを一度も防衛出来ずに引退した)。
引退から二年後、赤い鷹は再びリングに舞い戻ってきた。調整試合で、すでに無冠となっていたレグラを破ると、そのレグラからタイトルを奪取した試合、さらにファイティング原田との初防衛戦と、いずれも露骨な地元判定で勝ちを拾った“悪名高き”WBC世界チャンピオン、ジョニー・ファメション(豪)をほぼ一方的に攻めまくり、あっという間に王座に返り咲いた(一九七〇年五月九日)。
フェザー級では相変わらずの貫禄を示したサルディバルが初防衛戦(一九七〇年十二月十一日)の相手に選んだのは、最大のライバル関の後継者とでも言うべき日本の若きエース柴田国明(世界四位)だった。
デビューから二十連勝(十五KO)と並外れた強打で売り出した柴田だったが、グラス・ジョーが災いして、ドワイト・ホーキンズ戦、ハーバート康戦と世界へのステップをかけた大一番でいずれもKO負けを喫するなど、これまではファンの期待を裏切り続けてきた。しかも、今回はアウェイでの世界戦で、相手もサルディバルとあって、まず勝ち目はないと踏んだのか、柴田と契約するフジテレビも早々に放映中止を決定していた。
「最初からKOしか狙っていなかった」という柴田は一ラウンド開始早々、サルディバルをロープにつめてラッシュ。手も足も出ず、ガードを固めたまま強打を浴び続けるサルディバルの姿に観客席はどよめいた。
身体を小刻みに揺さぶりながら素早いジャブと右ストレートを繰り出す柴田の動きについてゆけないサルディバルはミスブローが目立つ。特に柴田は打った後のディフェンスが巧みで、スウェーとサイドステップで至近弾もすいすいとかわしてしまいショートレンジでの打ち合いでも全く危な気がない。
「初回の連打で動揺してしまった」というサルディバルは、焦りからパンチが次第に大振りになり、得意の後半になっても試合の主導権がつかめずにいた。対する柴田は、ダウンに結びつくような決定打こそ与えていないものの、正確なパンチを顔面に集め、王者の顔をズタズタに切り裂いていった。
十二ラウンド終了後、さしものサルディバルもついにギブアップ。
「今夜は私の完敗だ。彼はあまりにも速すぎた」
六年前、同じエルトレオ闘牛場で、歴戦の闘牛士を力でねじ伏せた猛牛も、今宵は日本からやって来た若き闘牛士のエストックに切り刻まれ、血の海に沈んだのである。
一九七一年のフランキー・クロフォード戦の判定勝ちを最後に二年間もリングから遠ざかっていたサルディバルは、一九七三年十月二十一日、三年間のブランクを乗り越えてWBCフェザー級チャンピオンとなった往年のスーパースター、エデル・ジョフレに挑戦した。
柴田にキャリア初のKO負けを喫したとはいえ、それはあくまでも棄権であり、柴田の強打を浴びながら一度のダウンも奪われていないことで、まだタフネスには自信があったのだろう。しかもジョフレは七歳年上の三十七歳である。また、いかに往年の名王者と言っても、ジョフレは所詮一階級下のボクサーであり、ライト級並みに上半身の発達したサルディバルでは体格が違う。
「雄鶏が鷹と戦うようなものだ」
サルディバルはそう考えたのだろう。
ところがいざ蓋を開けてみると、両者のレベルの差は歴然としていた。四ラウンド、ジョフレのボディーブローを浴びたメヒコの鷹は遂に地に落ちた。これがサルディバルにとって初めてのKO負けであり、ラストファイトとなった。
生涯戦績 37勝 3敗(26KO)
盛時には無敵の感があったラモスもサルディバルも晩年は癌に苦しめられた。サルデイバルは42歳で呆気なく世を去ったが、ラモスは平均寿命まで生き延びた。早々と召されたサルディバルは、あの世で「やっぱりラモスは強ええな」とつぶやいたことだろう。




