第9話 静かな夜
夜。
セラフィナが用意してくれた湯で体を拭き清め、寝衣に着替えたマリシアは街の明かりが遠くほんのりと見える窓の前に立っていた。
今まで住んでいた集合住宅とは違い、この塔には鉛製の格子にガラスを嵌め込んだ窓があり、蝶番で開閉ができる。
少しだけ開くと外の冷たい空気が流れ込んできてマリシアの頬を撫でた。
『夜に少し窓を開けておいで』
あの時、耳元に落とされたドロテアの言葉。
ライル達に気づかれないよう小さな声で伝えられたということは、彼らには知られたくない何かがある──?
考え込むマリシアの耳に、ぱたた、と羽音が届いた。
塔の上階まで夜に羽ばたく鳥なんて普通はいないはず。
ぱっと窓の方に目をやると、そこには夜闇に紛れる黒い羽の鳥が頭を差し入れている。しばらく様子を窺うようにマリシアを見上げていたが、ちょんちょん、と跳ねながら入って来た。その脚に結ばれているのは小さな筒。
「通信鳥?」
魔法士が急ぎの連絡の際に使う鳥で、筒に魔法がかかっており、設定した相手が触れると中に入れた物が出て来るのだ。
恐る恐る筒に触れると、現れたのは一枚の手紙だった。
折り畳まれたそれを開くと、慌てて書いたような乱れた筆跡が踊っていた。
書かれた文字を読みマリシアは息を飲む。
『体内の魔力は無限ではない。今のやり方を続ければ、今日の魔法石のようになる』
「今日の……魔法石?」
脳裏に蘇るのは、ライルの手の中で粉々に砕けた魔法石の姿。
あんな風になるというのはどういう事なのか。
同じようにこの体も砕けてしまうということなのだろうか……。
通信鳥のつけている筒にこちら側から何かを入れることはできない。
どうやって質問を返そうかと悩んでいるマリシアの耳に、不意にノックの音が届いた。
驚き、びくりと肩を揺らす。
ノックは続いて二度、そして躊躇うように三度。
慌てて手紙を机の引き出しに押し込むと、マリシアは鳥を外へそっと押し出した。
鳥は慣れた様子ですぐに飛び立ってゆく。
羽音が聞こえなくなった事を確認してからマリシアは扉に駆け寄るとゆっくりと開いた。
扉の向こうにいたのはライルだった。
「どうされましたか?」
「少しだけ話をしたいんだ。いいだろうか?」
どこか困ったような顔をしている。
マリシアは頷くと彼を部屋に招き入れた。
椅子を勧めてから急いでクローゼットを開け、寝衣の上に一枚羽織る。
向かい合う椅子に腰を下ろすと、ライルが口火を切った。
「今日はすまなかった」
「何に対する謝罪でしょうか?」
「ドロテアとの会話を聞いていた事だ」
マリシアはそういえばそうだったなと思い返す。
「あの時にもう謝罪はいただいています、気にしていません」
マリシアがそう言うと、ライルは目を伏せた。
「俺は君が今の状況に不満があるだろうと思っていた。……いきなり連れて来られ、外にもろくに出られないんだからな。なのに、君は力になれて嬉しかったと、そんな風に言ってくれた」
そう言われるとマリシアは少し申し訳ない気持ちになる。
「そんな立派な気持ちで言ったのではないんです。あれは私のための言葉だったんですから」
静かにそう言うと、ライルは顔を上げた。
「私、屑魔法石しか作れない自分が本当にずっと嫌でした。魔法石に触れるたびに、自分が役立たずだと思い知る毎日で。……だからこそあの時、私の魔力があんなに鮮やかな魔法に変わったのがすごく嬉しかった」
笑顔を向けると、ライルは眩しい物でも見るように何度か目を瞬いた。
「ああ、それは分かる。俺も君がいなければそうなっていただろうから」
「ライル殿下は」
「皆の前で思わず出るといけない、場所に関係なくライルと呼ぶように」
部屋の明かりを受けてライルの濃紺の瞳がうるりと光っている。
マリシアはその目に見つめられると、なぜだろう逆らえない気持ちになる。
「ライル様」
普段、隊員達といる時に呼ぶのなら、なんとも思っていない。
だってそれは演技の一部だから。
だけどこうして二人だけでいる時に名を呼ぶのは違う。
どこか落ち着かない。
そんなマリシアの気持ちを知らず、ライルは満足そうに目を細めてから口を開いた。
「君には助けられてばかりだ」
「そんな事はないです。バレ・デル・フエゴへの支援のおかげで、私も、領地のみんなも助かってるんですから。だから、お力になれることなら何だってしたいと思ってます!」
「力に、か……。では少し俺の話を聞いてもらえるだろうか?」
マリシアが大きく頷くと、ライルはゆっくりと口を開いた。
「広く知られている事だが、兄上たちと俺は母親が違う……ソルマリアと縁を結びたいと願う国から迎え入れられた二人の妃。その一人である俺の母セレナはかつて独立国だったルナリアの姫だった」
マリシアもそれは聞いたことがあった。
現王の統治は盤石であり、国自体も食糧は豊か、魔鉄鉱などの産出もあり縁を繋ぎたいと願う小国が多かった。
そのうちの一つがルナリアだったと。
「現在は北東にある辺境伯領として存在するルナリアだが、俺が生まれてしばらくの間はこの国から独立しようとする勢力が残っていた。だからこそ小さな頃から決して目立つなと言われて育ってきたんだ。俺を旗印に反乱を企てるような事が無いよう、誰にも期待されない末王子であれと」
ライルは淡々と事実だけを語る。そこに感情の色は見出せなくて、マリシアは勝手に悲しくなる。
「自分に魔法士の才があるのは小さな頃から知っていた。だから、もし本気を出せる時が来れば、この国一番の魔法の使い手として名を馳せてやろうと思っていた」
ライルは過去の自分を思い出したのか、苦く笑う。
「今考えればなんて思い上がりだろうな」
ライルの気持ちが少しでも軽くなればと、マリシアは元気に声をあげた。
「私も故郷の弟妹に、『学園で勉強して、すごい魔源士になってくるから待ってて!』って大見え切って王都に出てきましたから、似てますね!」
「そうだな、俺たちはきっと似ている」
ライルの笑みは柔らかくて、それがなんだか辛くて。
静かな共鳴。痛みを分かち合えるのは、同じ傷を抱える者だけなのかもしれない。
だからこそライルは今、こうして自分の事を話してくれているんだろうとマリシアは思う。
「ルナリアの反乱分子を纏めていた男が捕えられたのをきっかけに、俺は母の言葉の呪縛から解かれた。だがその時にはもう誰も俺に期待などしていなかった。なにせ次代の王、そしてその万が一の代わりが二人も居て、それぞれが優秀ときている。自由にしていいと言われ、俺は逃げるように港湾守護隊に入った。ここでなら役に立てると思った」
そこで言葉を切ってライルは目を閉じ、深く息を吐く。
「……だが実際はどうだ、魔法の才はあったが存分に力を発揮できない。それでも俺の立場を知る者たちが俺を隊長に担ぎ上げた」
続くライルの声は、その時の悔しさを思ってだろうか掠れていた。
「最初は隊員達も冷たい対応だった。それでも王家から支給されていた魔法石の力を借り、海の魔物をひとつ、またひとつと沈めていく度に彼らからの信頼は得られた。その信頼を裏切りたくない。大型の魔物が出ると予知がもたらされた時、だから俺は焦って城の魔法士向けに保管してある魔法石に手を出した」
「それが国宝級と言われていたものだったんですね」
「ああ、あれが城を守る為のものだと知っていたのにな」
苦々しげにそう言い、ライルは顔を上げた。
同じ立場だったらマリシアもその選択をしたかもしれない……。
「魔物を見事退け、そうして魔法石は割れた。……陛下から魔法禁止を命じられたのはその後の事だ」
笑みは浮かべたままなのに、今にも泣き出しそうな顔をしているとマリシアは思った。
だけど、言葉を遮る事は出来なかった。
今ここでこうして話すことが、彼に必要だと思ったから。
「俺には他に出来ることがない。だから必死に方法を探し、『定められた者』の事が書かれた本を見つけた。これだと思ったよ。もっと情報が欲しいと思い、古代魔法の研究者が学園に居るという情報に辿り着いた」
「それでドロテア先生の発表を見に来る事になったんですね」
ライルは頷く。
「俺はそうして幸運にも君に会えた。君を見つけた時どれだけ嬉しかったか。君が『定められた者』なら、俺の役割が果たせると思ったんだ。そして、思いは現実になった」
ライルはそっとマリシアの手を取った。
「あの日君を取り巻いていた輝きはもう見えないが、こうやって触れていると境なく繋がっているような不思議な感覚がある」
「私もです」
今だってそう。
手が触れている所から繋がっているような、何かが流れていくような感じがしている。
「少しも離れていたくない、そんな風に思ってしまう」
ライルの声が甘いと感じるのは、マリシアの願望だろうか。
吸い寄せられるように目が合うと、頭の芯が熱くなってくらくらする。
二人の距離が少しずつ近づく。
あとほんの少しで吐息まで感じるくらいに。
「ライル様ーもしかしてマリシア嬢の所にいるんですかー?」
能天気な声が隣室からドア越しに届いて、二人はぱっと離れた。
「ああ、こちらに居る」
「それなら、伝えたいことがありますので、お戻りいただけますか?」
「わかった、今そちらに戻る」
ライルは答えを投げて、立ち上がった。
「遅くまで付き合わせてしまった。明日に響くな」
「大丈夫です、この後はもう寝るだけですから」
マリシアは顔の前で両手を振る。
「それなら良い。……おやすみマリシア。また明日」
「はい、おやすみなさい!」
思わず返事に力の入ってしまったマリシアを目を細めて見つめ、それからライルは扉の向こうに消えていった。
マリシアは閉じた扉をしばらくぼおっと見て、それから寝台にとすん、と座り込んだ。
全身が熱い。どうしよう、と思う。
この気持ちは、欠けた力を持つ者同士の共感なんだろう。
なのにどうしてこんなに胸が痛く、熱いのか。
じっとしていられないようなこの沸き立つ気持ちは。
今まではドアの向こうの事は考えずに生活できていたのに、これからはどんな気持ちでこの部屋で暮らして良いのかもわからなくなっていた。
そんな混乱の中で、マリシアは引き出しに入れたドロテアの手紙の事を思いだす。
心配してくれる気持ちはとても嬉しい。
いつだってマリシアのことを気にかけてくれた……。
だけどライルの話を聞いた今、彼を支えたいという気持ちが強くなってしまって……。
「ごめんなさい先生。でもきっと、無理をしなければなんとかなると思います」
呟いてマリシアは学園の方角にぺこりと頭を下げる。
目に入るのは自分の手。ライルの大きな手にすっぽりと包まれてしまう手。触れるだけで魔力で繋がる手。
今はこの手を自分から離すようなことはどうしてもできない。
マリシアは手紙の事を一旦、心の奥にしまい込むことにし、ぎゅっと目を瞑った。
魔力の繋がり以上の、もっと強い絆を求める気持ちが芽生えているのを、マリシアは感じ始めていた。