第5話 守護者たちの塔
「マリシアねえ様、こっちに来て!」
右手を弟のダニエル、左手を妹のエステラが握ってマリシアを引っ張る。
そこはマリシアの故郷、バレ・デル・フエゴの中心地。
マリシアが知るその場所は寂れた場所だった。
でも今は違う。
魔法鍛治店には煙が上がり、店頭には数々の武具が並んでいた。
行き交う商人も多く、領民はみんな笑顔で──。
それはマリシアがずっと見たかった光景だった。
「すごいでしょ。全部マリシアねえ様のおかげなんだよ」
まんざらでもないという顔で、マリシアは薄い胸を張る。
「だからね、ねえ様。これからもたーっくさん、魔物を倒してね!」
ダニエルとエステラの声が揃う。
「魔物?」
マリシアの上に影が落ちた。振り返ると街中だったはずのそこは海に変わり、小高い山のような巨魚が虚ろな目をこちらに向けて口を開けていた。
口の中にあるのは暗闇。何もかもを飲み込む真っ暗な、闇。
恐怖がよみがえり、マリシアは思わず叫んだ。
「──助けて!」
その自分の声で覚醒し、勢い良く体を起こした。
鼓動がど、ど、と胸で響いている。
体にはじとりと汗が浮かんでいた。
「よかった。夢だったんだ……」
周りをゆっくり見回すと、清潔そうな白壁の広い部屋の中央、人が2人は寝られそうな大きめの寝台の上にいるのがわかった。
何度見ても、まったく見たことのない部屋。
「ここは……?」
「マリシア!」
大きな声が耳を揺らす。
「マリシア、悲鳴が聞こえたけど大丈夫かい、どこか痛い所は?」
「先生?」
部屋のドアを開け放ち、ドロテアが心配そうな顔でこちらに詰め寄ってきた。
マリシアは状況がわからず目を瞬くばかり。
「守護隊に行って早々、大型の魔物と対峙したと連絡があったから慌てて来てみれば、もう二日もマリシアが意識を失ったまま寝込んでいるというじゃないか。……魔力欠乏の症状じゃ無いかという話だけど……」
「二日も!? あ、そうか大型の魔物が居て……そう、魔物。あんな大きくて恐ろしい」
マリシアは顔を覆った。脳裏に焼きついた光景が頭から消えない。手が震える。
「さっさと帰るよ、マリシア」
ドロテアの言葉にマリシアは驚いて顔を上げた。
「帰るって、え、ここがどこかも私、わからなくて」
「ここは守護者の塔の三階にある上級隊員の個室らしいね。マリシアが目覚めるまではと昨日から私も隣に滞在させてもらっていたんだ。出口は知っているから、着替えたらすぐに帰ろうじゃないか」
「でも、それでは先生の研究は。……それに王族に逆らうことにもなります」
「それがどうしたんだい。研究なんか二の次だし、マリシアに怖い思いをさせるような相手に遠慮することは何も無いよ」
優しいドロテアの声にマリシアは泣きたくなる。
「勝手なことをされると困りますよ、ドロテア先生」
声と共に、ドアをくぐりカミロが顔を出す。
「勝手なとは、随分な言いようですね。……早々に二日もこの子が寝込む様な事態を招いておいて」
「その点については謝罪します。準備もなく、現場に立たせたことについては確かに申し訳ない事をしました。ですが、緊急事態でもあり、その上でマリシア嬢は現場でライル殿下に不可欠な人である事を証明した」
ドロテアの強い拒否の目を物ともせず、一歩一歩、カミロはマリシアに近づいてくる。
「こちらとしても、もう帰すわけにはいかないのですよ」
そう言い、カミロは身構えるマリシアに一通の手紙を渡した。
「開けてみてください。あなたが喜ぶものだと思いますよ」
訝しみながらもマリシアは受け取った手紙を開く。そこには見慣れた筆跡が踊っていた。
「ダニエル、エステラ」
マリシアの弟妹。大事な家族の手による文字だと一目で分かった。
「あなたの意識が戻るまでの間にバレ・デル・フエゴへ使者を送り、カルデロン伯爵家当主、ガブリエル様と正式な契約を交わしました。あなたが港湾守護隊に力を貸すことと引き換えに、バレ・デル・フエゴの魔法鍛治産業への支援を行うと。お返しに使者が預かってきたのがその手紙です」
白い便箋にはまだ拙い文字で書かれた感謝の文字が所狭しと書かれていた。
2枚目には両親からの、無理はしない様にというメッセージとマリシアのおかげで領地が助かることに対する喜びを綴ってくれている。
さきほどみた夢のように、再び領地が栄える日だってくるかもしれないという気持ちが湧き起こり嬉しい反面、カミロの手のひらの上で良い様に転がされているような気がして、マリシアは唇をぎゅっと結ぶ。
でも、どんなに悔しくてもマリシアが欲しかったものは確かにそれだったから。
「先生、私、もう少し頑張ってみます」
ドロテアはカミロを軽く睨んだ。
「……辛くなったらいつでも私を呼ぶんだよ」
優しい声をかけてくれるドロテアにマリシアはなんとか笑って見せる。
「はい! ありがとうございます」
「お帰りなら、馬車をご用意しますよ」
カミロの申し出にドロテアは首を振った。
「いいや、自分で戻る。……また来ることを邪魔したりはしないだろうね」
「ドロテア先生ならいつだって歓迎しますよ」
歓迎の意を示すように両手を上げてそう言うカミロに、ドロテアはあからさまに不快そうな顔をして立ち上がった。
「それじゃあ、くれぐれも無理をしない様に。次来る時にはマリシアの体の魔力について調べる準備をしておこう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げるとドロテアはマリシアにだけにこりと笑って、部屋を出て行った。
カミロはすぐに部屋に戻ってきた。
「さてマリシア嬢。気分はどうですか? 長く眠っていたんですから、食べられそうなら軽い食事を用意しますが」
「あんまりお腹は空いてないので」
彼の提案を受け入れるのがなんとなく腹立たしくてそう断った瞬間、くぅ、と小さくマリシアのお腹が返事をした。
一気に顔が赤くなる。
カミロはサイドテーブルに置かれていた白い色のベルを手に取ると、数度鳴らした。
鳴らす数に意味があったのか、すぐにワゴンが運ばれてきた。
「まだあまり重い物は食べない方が良いと医師から言われているので、スープで我慢してくださいね」
トレイごと手渡されて、マリシアはベッドの上に置くとまずは一口。
トマトの鮮やかな赤色のスープに根菜や豆類、ホロホロに煮込んだ鶏肉が入っている。味付けはシンプルに塩だけのようなのに、今まで食べたどんなスープよりも美味しい。
「美味しいです」
「それならよかった」
ひとさじひとさじ、ゆっくりと掬って口に入れる。
そうしていると、カミロに対して持っていた抵抗したいという気持ちが解けてしまう。
「食べながらで良いので少し聞いてください。そんなに長い話では無いので」
マリシアの返事を待たずに、カミロはそう言うと一拍置いて口を開いた。
「殿下は、自らの価値は誰かを守ることにしか無い、と思っておいでです」
突然の言葉にマリシアは不思議に思い首を傾げる。スープを掬う手はぴたりと止まっていた。
「ライル殿下はこの国にとっても王家にとっても大事な王子殿下の一人では無いですか、価値が無いなんてそんな」
「他人がどう思おうと、言おうと、殿下には響かないんですよ。……次代の国を支えるレイナルド殿下、賢才の君マルセロ殿下、外交に長けたルシアン殿下。王家には才能あふれる王子殿下達が揃っていた。だから誰もライル殿下に期待をしなかった。陛下もそして殿下達もできるだけ自分たちができなかった分自由に暮らせる様、取り計らってくれたんです。それをライル殿下は『自分は必要とされていない』と受け取ってしまったわけですね。魔法の才はあったものの、魔力を効率よく使えないという体質もそれに拍車をかけました。」
マリシアはカミロの言葉に顔を曇らせる。
きっと体質のことがなければ、ここまでライルの思いが拗れることもなかったのだろうと想像して。
「国宝級の魔法石を使ってでも、魔法を使い魔物を退けようとしたのは、そうやって価値を示し続ける事が殿下にとっては必要だったからなんです。それを封じられた殿下の落ち込み方は見ているこっちが辛くなる程でしたよ。その絶望の中で一筋見えた光明が『定められた者』だった」
マリシアは自分の手のひらをじっと見る。
そうすると、ライルと手を繋ぎ合っていた時の感覚が蘇る。
まるで最初から一つであった様に魔力が自然と流れてゆく瞬間の感覚を。
魔法石に魔力を込める時には、いくら頑張っても押し戻される様な感覚しかなかった。
魔力はこの体に満ちているのに、それは感じられるのに、どうやっても魔法石には僅かしか流れてくれなくて歯痒い思いをしていた。
だけどライルとならまるで違った──。
「マリシア嬢ならわかってくれるでしょう? あなたも自分の持つ力を十分に発揮できたらと思ったことがあったはずです。だからこそ、殿下の為にどうかここに残ってほしい」
切実な声だった。
「いくら僕を恨んでくれても良いから」
真っ直ぐにマリシアを見つめ言い募るカミロに、マリシアは「わかりました」と微笑む。
「カミロ様が言う通り、私もずっとこの魔力を使えないことが辛かったです。だから殿下の気持ちは、誰よりもわかると思います。……すごく、その、怖いですけど」
「そこはライル殿下を信じて欲しいとしか言えませんが」
思い出すのはライルの自信に満ちた眼差し。
疾風魔法で巨大な魔物を両断する圧倒的な魔法の力を目の当たりにしていたマリシアは、その実力は信じられる物だと確かに思う。
「僕が知る限り、殿下はあなた一人守れないような方ではないですよ」
「わかりました、信じます」
マリシアはそう心に決めた。
「よかったです。あ、スープ冷めちゃいましたね、新しいものをもらいましょうか?」
「いえ! まだ十分美味しいです!」
マリシアは慌てて残りを口に運んだ。
「いやあ、ご自身で決意してもらえて本当に良かったです。断られたら陛下にお願いしてマリシア嬢をライル殿下の婚約者とする事も考えていたので」
カミロは軽い口調でさらりと言う。
「んぐっ」
マリシアは口にしていたスープを必死に飲み込む。
吹き出さなかったことを褒めて欲しいと切実に思った。
「なっ、急に変な冗談を言わないでください。うちのような貧乏伯爵家では釣り合いません!」
「そこは、ライル殿下が一目惚れしたとでも言えば通りますよ。あなたの家にはお金がない以外の問題は何もありませんでしたし」
カミロは軽く肩をすくめると、マリシアをじっと見る。
「いつの間に……」
確かに王族の側に置くと判断するなら家に関しても調査が入るのは当然だろう。
でもそれにしても早い。
色々な方面から逃げられないように外堀を埋められていると感じ、マリシアの背に冷たい汗が伝う。
もし、王家から打診があればカルデロン家側から断ることなどできるはずがない。
「その手があったか」
「ライル殿下!?」
不意の声と共にライルが姿を現した。両手いっぱいに花を抱えている。
「目が覚めて良かったマリシア嬢。いきなり怖い思いをさせてしまったな」
カミロが素早く皿の乗ったトレイを下げてくれる。マリシアは目を丸くしてその花束を受け取った。
甘く、華やかな香りがふんわりとマリシアを包む。
「ありがとうございます」
「隊の皆に聞いてみたんだが、女性の見舞いなら花だろうと言うので持ってきてみた」
「こんなに素敵な花束をいただいたのは初めてです」
マリシアが笑顔を向けるとライルはほっとした様子で、寝台脇の椅子に腰を下ろす。
カミロが花束を受け取り、いつの間に用意してきたのか花瓶に移し替えサイドテーブルに置いてくれた。
「具合はどうだろうか?」
「ご心配いただきありがとうございます。痛い所もありませんし、あれだけ一気に魔力を放出したのが初めてだったので魔力欠乏を起こしただけではないかと思います」
「悪いことをした。できるだけ早く魔力についての試験を行い、体の負担にならない使用量を調べる事にしよう」
言いながらライルはそれが自然だと言う様に、するりとマリシアの手を取る。
指の間に滑り込んでくるライルの指。女性であるマリシアとは違い少し骨ばっており、また剣を握る事もあるからか手のひらは硬くなっていた。
そこから美しい見た目から想像できない『男性』を感じて、マリシアは自分の体温が一気に上がるのを感じる。
しかし、ライルが求めているのはマリシアの魔力。
それ以上ではないと言うことを忘れてはいけないと自分に言い聞かせる。
「ところでカミロ、さっきの話なんだが」
「どの話ですか?」
「マリシア嬢を婚約者とするという話だ」
「えっ」
マリシアは短い声を上げ、思わず体を体を引いてライルの手から逃れようとした。
だが、しっかりと握られた手は解けず、それどころか逆の手がマリシアの体を支える様に腰の辺りに回る。
身を乗り出したライルの顔がマリシアに近づく。
「本当に婚約するという話ではない。男性ばかりの隊に入ってもらう事になる以上、万が一の事態から君を守る為に『俺の婚約者』であるという事を周知したい」
「それは婚約者のフリをするという事でしょうか?」
「ああ、陛下にだけは『定められた者』について報告しているが、公式に発表できる段階ではない。隊においても俺と君が常に側にいる理由も必要だろう」
常に側にいる事になるんだ──。
マリシアは目の前にある整った顔に言葉を失い、困った顔でカミロを見た。
「それならこんな話ならどうでしょうか?」
カミロが話に加わる。
すっと話に入って来た。
どことなく楽しそうな顔なのが、嫌な予感しかしない。
「たとえばライル殿下がマリシア嬢に一目惚れし婚約を望んだところ、カルデロン家の経済状況を理由に父親から反対され、『魔物が跋扈する海であっても片時も離れず過ごせるなら、その間は婚約者として認めてやってもいい』と言われたので、それに『やってみせる』と応えた、というのは?」
「俺は隊においてそんなに短慮な印象なのか?」
ライルは複雑な顔でそう言うが代案が出は出てこなかった。マリシアもそれは同じだった。
「ではこの設定でいきましょう」
仕方なくマリシアは頷く。ライルもそれに続いた。
「この作戦に重要なのは、ライル殿下とマリシア嬢はこの無茶な話を受け入れ、やり遂げようとする程には愛し合っていると皆に信じさせる行動を取ることです。できますよね」
「あいし……」
マリシアは呟くと一気に頬を染める。
「ほら、そんな様子では、皆におかしいと思われますよ」
「あまり虐めてやるな。俺がうまくやればいいだけだろう」
「そういうライル殿下も、さして女性の扱いが上手い訳でないでしょう」
カミロの言葉に、ライルはうっと言葉に詰まる。
「わ、わたし、できます! これでも、弟達に読み聞かせするときには『お姉ちゃんじゃ無いみたい』って言われてたんですから」
なんとかしなくてはと思い、マリシアは精一杯の声を上げる。
「……信じてみよう」
言葉とは裏腹に心配そうな色を宿すライルの濃紺の瞳。
マリシアが大きくゆっくり頷くとライルは握っていた指を解き、名残惜しそうに手の甲でマリシアの手を撫でてから離し立ち上がる。
「今後君のことはマリシアと呼ばせてもらおう。俺のことはライルと」
まだ熱の引かない頬を手で隠すマリシア。
「明日の朝にでも、皆に君を紹介しよう。婚約者として望んでいる大事な相手なのだと」
「……わかりました、ライル、様」
ライルは笑ってからカミロに「あとは頼んだ」と言い残して部屋を出て行った。