第4話 初めての海へ
翌朝目が覚めたマリシアは、仕事に出かける時間が迫っているのではないかと思い、ぱっと目を開けた。
そうして今日は確か休みだったはずと思い直し、再び眠りに落ちようとして──。
呼び鈴が鳴る。
「マリシアさん、お届け物ですよー」
集合住宅の管理人であるエレナのおっとりとした声に慌てて飛び起きた。
昨日、帰って来てからそのまま寝てしまったようだ。草木染めのワンピースは皺だらけ、ゆるやかな小麦色の巻き毛は所々もつれていた。
こんな格好で顔を出すのは恥ずかしいと思いつつも、急ぎ扉に向かう。
「おはようございます、エレナさん」
おずおずと扉を細く開けると、エレナはマリシアの姿をチラリと見て、気にしないと示してくれているのかいつも通りの笑みを浮かべた。
「おはようマリシアさん。これを着て準備をして居てくださいって、伝言をうけているわよ。送り主はカミロ様って方ですって」
手渡されたのは大きな箱だった。着て、ということは衣服なんだと思う。
そして続いたカミロの名前にマリシアは昨日の事を一気にぶわっと思い出した。
突然見知らぬ美青年に『魔力を産んでくれ』と言われた事。
その青年が第四王子、ライルであったこと。
そして、自分が彼の『定められた者』かもしれないという事。
全部夢じゃなかったのなら、もうすぐ馬車が迎えに来てしまう。
「エ、エレナさん! 今から洗浄の魔法をお願いできますか?」
「いいわよ」
マリシアが大きく扉を開け放つと、エレナは心得たとばかりにサッと部屋に入って来た。
マリシアはテーブルに置いていた布製の袋を探り、銅貨を取り出すとエレナに渡す。
「はーい、じゃあ目を瞑っていてね。『洗浄』」
エレナはエプロンのポケットから木製の洗濯棒を取り出すと、マリシアの方に向かって軽く振るう。
マリシアはそこでぎゅっと目を閉じた。自分の周りにくるくると石鹸のような香りが舞うのがわかる。
ほんのり冷たい感触が足元から頭まですうっと通り抜けて──。
「はい、おしまい!」
「ありがとうございます! 助かりました」
頭を大きく下げるマリシア。ふわりとやわらかく巻いた髪が頬をくすぐる。目に映るのは皺ひとつない洗い立てのようなワンピース。
エレナが得意としている『洗浄』の魔法は、衣類や人を魔法で洗い上げてくれる便利なもの。
住人から頼まれると銅貨三枚でやってくれる。
マリシアの生活においては贅沢にあたるので滅多にお願いする事はないのだけど、今日は特別だ。
「お仕事あんまり無理しない様にねえ」
エレナはそう言い置くと早々に部屋を出てくれた。
慌てている様子のマリシアに気を遣ってくれたのだろう。
「今度、何かお礼をしなくっちゃ」
言いながらマリシアは先程受け取った箱を開ける。中には綺麗に折り畳まれた服とブーツが入っていた。
取り出してみると、服は海の様な深い青色の麻織物で作られ、胸元には錨と剣を組み合わせた紋章が刺繍されている。
高めの襟と袖口には細い金の縁取り。裾や袖の長さは紐で調整するタイプ。
緩やかなシルエットなので動きやすそうだ。
ワンピースを脱いで椅子の背に掛けると、マリシアはそっと袖を通してみた。
同じ素材で膝下丈のギャザースカートもあった。裾には波を表した金の線がぐるりと一周している。
その上で腰に革製のベルトを巻き、一緒に入っていたブーツを履いた。
「これはきっと港湾守護隊の制服だよね」
水を張った皿を覗き込んでみるけれど、自分の姿は良くわからない。
学園のような場所であれば魔法の効果が付与された大きな鏡があるのだけれど──。
自分には不相応な気がしてそわそわと落ち着かない。
そうこうしているうちに、昨夜迎えに来ると言っていた朝の鐘までもう時間がない。
マリシアはいつも仕事にいく前の様にキッチンの戸棚から硬くなったパンを取り出し、ちぎりながら食べた。
まさかこの時は、この部屋に帰れないなんて思いもしていなかった──。
◆◇◆
「制服、よく似合っていますね、マリシア嬢」
迎えに来たのはカミロだった。玄関前で立って待っているマリシアを見るなり、馬車から降りたカミロはにこにこと笑って褒めてくれる。
「ありがとうございます」
そんなふうに男性に褒められた経験がなかったマリシアは小さな声を返すのが精一杯だった。
「殿下の所属している隊は男性ばかりなので、同じ意匠の服でもこんな風に可愛いく見えるものかと感動してます」
さらに言葉を重ね褒めてくれるので、ますますマリシアはどうしていいかわからなくなって身を縮めるばかり。
カミロの視線から期待を感じてしまうが、今までは屑魔法石しか作れなかったような自分が、本当にこれから役に立てるのだろうか。
不安がずしりとのしかかってくる。
そんなマリシアに手を差し伸べ、カミロは馬車へ導く。昨夜乗ったものと同じ馬車だったのでマリシアはちょっと安心した。
席に腰を下ろすと向かいにカミロが座り、馬車はゆっくりと走り出した。
「今日行く所に想像はついてます?」
「はい、港湾守護隊ですよね」
「そうです。我が国最大の港町マリポルトに本部を置く港湾守護隊、海の守護者たちの皆さんのところです。……港湾守護隊の仕事について、マリシア嬢は何かご存知ですか?」
そう聞かれて、マリシアは自分の記憶を探る。
「すみません、港の辺りを守っている方々という事以外はあまり詳しくなくて」
「それが普通ですよ。では簡単に説明しますね。港湾守護隊の仕事というのは多岐に渡ります」
カミロはマリシアが理解しやすいようにという配慮からか、ゆっくりと指を折りながら説明してゆく。
「港周辺海域の巡回、防衛施設の管理、密輸・密航についての取り締まり、海に現れる魔物や外国からの船に関する情報収集も重要な仕事ですね」
マリシアはつらつらと並べらえた内容に目を丸くする。
「場合によっては商船の護衛をすることもありますよ」
「そんなにたくさん……」
国の安全を左右するような重要な任務の数々。
そんな大切な仕事に自分が本当に関わっていいのだろうか。
一歩間違えれば国に、そして多くの人に迷惑をかけてしまうかもしれない。
マリシアの胸に不安が広がってゆく。
「三方を海に囲まれている我が国には各地に港がありますけど、その中でも王都ソラリアから近いマリポルトは商業の中心地でもあります」
マリシアは頷いた。この国の人間なら誰だって知っていることだったから。
「各国から盛んに船が入って来ますからね。そうなると自然とやることは増えてしまいます」
「……大変そうですね」
「ええ。それでもその分、予算も人員もしっかり陛下が割り当ててくださっているので普通なら心配はいらないんですが……」
カミロの表情が微妙に曇った。
「ライル殿下みたいに、宝物庫に並ぶ様なレベルの魔法石を使ったりしなければ」
「あ」
昨日聞いた話を思い出すマリシアの前で、カミロがぎゅっと目を細めた。
「あれは胃の痛い出来事でした」
「それは、大変でしたね……」
マリシアは国宝レベルの魔法石と言われても具体的な実感はできなかったが、自分が一生働いても買えない物が消える瞬間を想像してちょっと胃の痛みを感じた。
「だからこそマリシア嬢、あなたの存在はライル殿下だけでなく僕にとっても救いですよ」
「本当にお役に立てるかはまだわからないので、そんなに期待をかけていただくのは、その、ちょっと」
マリシアの言葉は尻窄みになり、消える。
カミロが微動だにせずこちらを見ている事に気がついたから。
その目が、まるで『逃がさない』と言っているように見えてしまって……。
「いやー楽しみですね。ドロテア教授にも逐次ご報告する事になっているんですよ。定められた者の魔法について知りたいでしょうからね!」
「できるだけ、がんばります……」
マリシアは小さな声で答えるのが精一杯だった。
「そろそろ守護隊の詰所、『守護者たちの塔』に着きますよ。あの港の高台にある石造りの塔がそうです」
カミロはマリシアが窓から外を見やすいように体を動かす。
マリシアが目を凝らすと、遠くに八角形の建物が見えた。一番上には三つの旗が風を受けて靡いている。
中央にあるのはこの国、ソルマリアの国旗だ。太陽と海、そしてそれらを碇が繋ぐ特徴的な意匠。
両側の旗の色は赤。
「カミロ様、塔の上にある旗の色って何か意味があるんですか?」
「ええ、色々な意味がありますよ。例えば、白なら何も起きていない良い状態ですね」
「他には?」
「黄金に黒の斑点なら悪天候で航行に危険あり、緑黒色なら毒を持つ魔物が現れた」
「毒のある魔物」
マリシアは想像し、ふるりと体を震わせる。海に毒が広まることがあれば、被害はどれだけ甚大かわからない。
「あとは、紫紺色なら異国船による敵対行為の疑いを示します」
ここまででマリシアは自分が見ている旗の色が登場しない事にそこはかとない不安を覚える。
「深い赤なら……?」
嫌な予感しかしないと思いながらもマリシアは恐る恐る聞くと、カミロは瞬時に腰の革ポーチから小さな遠眼鏡を取り出し、窓へ体を寄せると塔の方角を確認した。
短く息を吐く。
「深い赤は大型の魔物出現ですね。マリシア嬢、馬車を急がせます。舌を噛まないよう口を閉じていてください!」
言うなりカミロは腰に帯びていた短剣を鞘ごと引き抜き、その柄で御者台の後ろ側を強く三度叩いた。
え、と思うまもなく馬車が大きくぐらりと傾く、進行方向を向いて座っていたマリシアの背が馬車に押しつけられた。
速度が増す。馬だけの力とは思えない、多分魔法による加速。
マリシアは両手で座席の端をしっかりと握り、足を踏ん張りなんとか堪えた。
視界がぐらぐらと揺れ、歯を食いしばっていなければ確かに舌を噛みそうで。
目が回る、でもカミロの言葉通り、海に『大型の魔物』が現れたというのなら急ぐ理由は十分にあった。
心の準備なんて何もできていない。心臓が跳ねる。怖いのは嫌だ。
でも、ここで逃げ帰ったらマリシアは屑魔法石を作るだけの自分に戻ってしまう。
自分の仕事があるなら今、この時なのだろう。
不安と恐怖で頭がカアっと熱くなる。
「もうすぐ着きます。到着の衝撃に備えて頭を低くして!」
言われるまま頭を下げる、カミロの腕がマリシアの腰に回った。
再び馬車が揺れ、マリシアは目をきつく瞑る。
支えられていても体は傾き、どっという鈍い音がした。
薄く目を開けると、カミロは覆い被さるような形でマリシアを衝撃から守ってくれていた。
今の衝撃で背中から頭にかけてを強く打ちつけたようで……。
「カミロ様!」
「僕は何ともないので、急ぎ殿下のところへ」
頭を振りながら身を起こしたカミロは馬車の扉を開け、声を張り上げた。
「誰か彼女を隊長の元へお連れしてくれ!」
「承知いたしました!」
間髪おかずに声が返る。
「ライル殿下のこと、頼みました」
「……できるだけの事はしてみます!」
マリシアにだけ聞こえるように言うカミロにそう返して、馬車の外に待機していた青年の前に降り立った。
カミロの事が心配ではあるけれど今はやる事がある。
鼓動は今、少しだけ落ち着いていた。
◆◇◆
青年は馬に飛び乗ると、マリシアの手を取り馬上へと引き上げた。
硬い鞍の感触に身が竦む。背から青年がマリシアを支えたまま手綱を操る。
先ほどの馬車ほどではないけれど、駆ける馬の背もそこそこに揺れる。
緊急事態なのもあり、青年は一言もマリシアに声をかける事なく馬を走らせた。
塔の脇を下るとそこは木造りの中型船が並ぶ船着場だった。
馬はその内の一隻の側に寄るとそこで止まる。
青年が先に飛び降り、マリシアを抱えて下ろしてくれた。
「ありがとうございます」
「隊長はこちらの船におります、急ぎ乗り込みましょう!」
「はい!」
船体側面には錨と剣を合わせた守護隊の紋章が刻まれ、船首には水晶が輝きを放っている。
帆はあるが、風で進むのではなくそこに魔法を受けて進む『魔法船』の一種だろうとマリシアは思う。
目の前には、戦場へ向かう船。
もうここまで来てしまった以上、後戻りは出来ない。
恐怖をなんとか宥めて、マリシアは一歩踏み出した。
渡し板を駆け上るとそこにライルが待っていた。
「マリシア嬢。間に合ってよかった」
え、っと思うまもなくマリシアはライルの手で抱え上げられていた。
ただし出会った時とは違い横抱きにされ、手をしっかりと握られている。
「ライル殿……」
慌てて名前を呼ぼうとしたところで、ライルが静かに首を横に振った。
「ここでは隊長と呼んでくれるだろうか?」
「はいライル隊長。あの、なぜ私は抱え上げられているのでしょうか?」
「船には慣れていないようだからな、これから少し揺れる」
ライルが繋いでいる手を上げると船は音も立てずに海上へ飛び出した。
揺れは大きく、また波の間を進むため海水が降り注ぐ。
何らかの魔法が使われているのか、ライルの周りだけは水が避けてゆくのに驚く。
マリシアは必死にライルに縋り付いた。宥めるようにライルが背を軽く叩いてくれる。
その間にも船は進む、進む。
船の揺れなど感じていないようにライルは悠然と歩き甲板へ辿り着いた。
帆の後ろには多分魔法士だろう男性が2人、甲板には他に誰もいない。
「隊長!」
声に顔だけで振り返ると、先ほどマリシアをここへ連れてきてくれた青年が、操舵室から顔を出していた。
「付近の船の完全な待避を確認いたしました。また、この船の前方には魔法の行使に問題のある島などはありません!」
「わかった、では魔法を展開する。総員、衝撃に備えるように」
「承知しました!」
後方にいる魔法士達からも同様の声が上がる。
「来るぞ」
ライルが何でもないように一言告げると、船の正面の波が大きく盛り上がった。
どう、っと音を立てて甲板に海水が流れ込んでくるが、ライルの周りには一雫も届かない。
「あれが、魔物」
圧巻だった。
質量に圧倒されるという初めての経験に、続く声が喉に張り付いた。
息をすることすら忘れてマリシアは波の向こうに聳える巨大な魚の姿を見上げる。
陽の光をギラギラと跳ね返す銀の鱗、開いた口には船ごと噛み砕く力があるのだと思わせる鋭い歯がずらりと並んでいた。
どろりと暗い眼にマリシア達が乗る船が映っていた。
ライルに触れているマリシアの手が震え出す。
「怖がらなくて良いマリシア嬢、巨魚は、この海域では稀に出現する魔物だ」
「でも、私、ほんとに私の魔力が、役に立つか、わからなくて、怖い、です」
呼吸が乱れ、心臓が痛いくらいにどくどくと音を立てている。全身が熱い。
ここから逃げなければ死を迎えるのだという焦りが頭をいっぱいにする。
「期待していたほどに私の魔力がなかったら、そうしたらこの船も皆さんも……」
「心配はいらない。あんな小魚くらいで怖がる必要は無いんだ。俺は君を信じている、だから君の魔力がどれほどの魔法を形造るか見ているといい」
マリシアをそっと下ろし、しかし左手はしっかりと繋いだまま、ライルは右の手ですらりと剣を抜き放つ。
「この手を離さないでいてくれれば、俺はなんだってできる」
その時、ライルに握られているマリシアの指先から何かが通り抜けて行く感覚があった。
不快では無い。全身から指先へ、繋がったその先へ。まるで最初から一つであったように自然に広がってゆく。
マリシアはその時初めて自分の魔力の流れを感じ取っていた。
隣に立つマリシアににこりと笑みを向けてからライルは巨魚に向かい合った。
剣をピタリと向け、口を開く。
「『疾風』」
短い詠唱と共に風が生まれた。
マリシアとライルの間をごうっと音を立てて走り抜けた風は強く頬を撫で、まるで意思を持っているかのように真っ直ぐに巨魚へと向かうと、大きく開いたその口に飛び込んで行った。
変化は一瞬で起こった。
まず海面が割れた。
マリシアは握られていない方の手で目を擦る。見間違いなどではなかった。
続いてゆっくりと……真ん中から巨魚が二つになった。
言葉を失うマリシアの前で巨魚は左右に別れ、静かに沈んでゆく。
一瞬の後、大きな飛沫が上がる。煽られて船は跳ね、続いて海面に叩きつけられた。
魔法により守られていたのだろう船はバラバラに砕ける事は無く、それでも強い衝撃が船全体を襲う。
ライルはまったく顔色を変えずマリシアの手を引き寄せ、抱き止める事で揺れから守ってくれた。
「言った通り、何の心配も要らなかっただろう?」
至近距離でマリシアの顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべてそう言うライル。
マリシアは返事をする事もできなかった。
巨魚を前に感じた死の恐怖。そんな圧倒されるような存在があっさりと両断される光景。自分の力がやっと役に立てたのかもしれないという感動。助かったのだという安心感。
それらが一気にマリシアの頭を巡り……限界を超えた。
視界がゆっくりと暗く、狭くなってゆく。
マリシアはそのまま意識を手放した。