第1話 思いもよらない言葉
「俺の魔力を産んでくれ」
耳を塞ぎたい。
理解ができないその言葉を聞いた時にマリシアが考えたのはたった一つだった。
なのに、現状マリシアの手は振り払うことのできない強い力で声の主に捕えられていて、動かせない。
それどころか、今にも食い付かれるのではないかという勢いで顔を寄せられ、強い意志の光を宿す濃紺の目で射抜かれていては瞬きひとつできない。
彫像のような美しい顔立ちは遠くから眺める分には心を潤すのだろうけど、今のマリシアにとっては恐怖を煽る一因でしかなかった。
正直、怖い。
「何を──」
何を言っているのか問おうとして、掠れる声を絞り出した。
けれど青年は顔を引き攣らせているマリシアの様子に気づいていないのか、身体ごとマリシアを引き寄せようとする。
全身をこわばらせてそれを拒否するが、マリシア程度の力では抵抗にもならない。
「よく聞こえなかったのか? だから、俺の魔力を産んでくれと言った」
ゆっくりと子どもに言い含めるように、青年はマリシアの耳に声を落とす。
……なんでこんなことになったんだろう。
マリシアは青年の腕が自分を囲い込むのを、絶望の中で眺めるしかなかった。
◆◇◆
今日の学園は、なんだかいつも以上に賑やか。
いつもなら夕刻のこの時間帯は生徒たちもまばらなのに今日に限っては、小さな集団を作ってお喋りに興じている。
貴族と平民。外に出れば身分違いの彼らも対等に会話を楽しんでいた。
この星の道の学園は、魔法の才があれば貴族・平民問わず通うことができる。
学園を卒業後に進む事が多い王国の魔法部への人事は実力主義のため、『学園内では平等』という規律があった。
笑い合う生徒たちの揃いの制服は、マリシアが身に纏っている草木染めの簡素なワンピースに比べていつだってキラキラと輝いて見えて──。
「いけない、早く戻らないと」
マリシアは羨ましいという気持ちを頭を軽く振って追い払った。明るい小麦色のゆるやかな巻き毛が揺れる。
生徒たちの間をすり抜ける瞬間、さざめきのような声が耳に届いた。
「次期国王がいらっしゃるのだそうですよ」
「私達の学舎にですか! それは光栄な事ですね」
同じような会話があちらこちらから聞こえて来て、皆がそれを楽しみにしてることが伝わって来た。
今日、皆がこんな時間まで残っているのはその話題で盛り上がっているからのようで。
「次期国王が? それは先生にも教えてあげないと。ああ、でも今はそれどころではないかも」
両手で抱えた何冊もの本をしっかりと若葉色の瞳で見据えて、マリシアは呟いた。
その間にも足は止めず、学生棟を抜け静かな研究棟へ。
古い木造りの階段を上がると、マリシアが目指す部屋にたどり着く。
艶のある飴色の扉の脇には、『古代魔法研究室 ドロテア・モンテベルデ名誉教授』と掘り込まれた木札が下がっていた。
「先生、戻りました」
そう扉に向かって声をかけたが返事はない。
両手が塞がっているので扉を開けてもらおうと思っていたマリシアは、当てが外れて困ったように眉尻を下げる。
それから辺りを見回し、誰も見ていないことを確認してから足先でそおっと扉を押し開けた。
体で扉を支えながらするりと部屋に入ると昼だというのに中は薄暗い。
インクの香りが微かにするので、部屋の主は居るはずなのに。
「資料を持って来ましたよ、先生」
もう一度声をかけ、書類が積み上がった机の上に運んできた本をなんとか乗せる。
頭を巡らせると、視界の端で何かがごそりと動いた。
顔を向けるとソファの上で布の塊が揺れている。
「おかえりマリシア」
毛布をかき分けて顔が出てきた。いつもならきちんと結われているはずのシルバーグレイの髪はもつれ、その奥で細められた目をぱちぱちと瞬かせてなんとかマリシアの姿を捉えようとしている。
老いてもなお聡明さが窺える顔立ちのその人は、まだ半分眠っていると言った風情だ。
「ドロテア先生、明日の発表の準備は整ったんですか?」
彼女が起き出したのを確認して、暗い色のカーテンを少しだけ開き外の光を迎え入れる。
ドロテアと呼ばれた老女は眩しさに少し目を瞑ってから答えを返した。
「おかげでなんとかね」
彼女はそう言いながらソファーを掴むと、欠伸を噛み殺し立ち上がる。
マリシアは慣れた様子で歩み寄り、ソファーから落ちる寸前の毛布を捕まえた。手早く折りたたんで振り返る。
その時にはすでにドロテアは机の上の本を開いていた。
「うん、頼んでいた古代魔法の資料に間違いないね」
マリシアはドロテアの髪をそっと纏めながら、彼女の手元の本に目をやった。
女神の姿が描かれている。
「創世の女神様に関わる本なのですか?」
「ああ、神代の話が重要な鍵になりそうでね。女は魔力を産み、男がそれを魔法に変ずる。互いに手を取り合ってはじめて魔法を使えたという話だよ」
「今とは全然違うんですね」
「そうさね、変わらないのは『生み出す者は使えない』『使う者は生み出せない』という法則だけだろう」
そう説明しながらも、ドロテアの目は忙しく文字を追っているようだった。
「先生、次の資料を読む前に今日は帰ってお休みになった方が良いですよ?」
「ああ、だけどあと少し明日質問に上がりそうな内容について調べておきたくてね」
本の横に置いた紙の束にペンを走らせるドロテアの様子にマリシアは首を傾げる。
「明日は定期報告も兼ねた気軽な場では?」
「それが、明日はお偉いさんが来ると連絡があってねえ。もう少し準備が必要そうなのさ」
その言葉に、マリシアは先ほどの学園内で聞いた話を思い出した。
「もしかして、学生さん達が騒いでいるのはそれに関わりがあるんでしょうか? 次期国王がこの学園に来るとか話していましたけど」
「ん? 訪問は学生達には知らせるなと言っていたのに学園長め、誰に口を滑らせたのやら。私にも誰が来るかは教えなかったのにねえ。次期国王と言うのであれば第一王子レイナルド殿下だね」
「こんな時間まで残って、噂話に花を咲かせていましたよ。なんでしょう、皆さん浮かれている感じで」
「ああ、学園の子らは殿下との運命の出会いでも夢想してるんだろうよ。側妃にでもなろうというのかね。ほら、隣国での話みたいな」
「隣国っていうと、アザレア公国のお話ですか? 公子様が学院内で見初めた方を新たに側室候補にとしたっていう」
マリシアの言葉に頷いてから、ドロテアは唇を歪めて笑う。
「おいそれとそんな事は起こらないんだけどねえ」
「それはそうですよね。アザレアの公子様はきちんと婚約者と話し合いを持った上でのことでしたし。その気持ちに応えたいと、商家でもあったお相手の家が出した輸出の特例を認めたと聞きました」
「その特例のおかげで、様々な魔法染料がこの国にも入ってくるようになったのだから、こちらもありがたい話だけど」
魔法染料とは、アザレア公国が得意とする『色に力を持たせる』色彩魔法による効果を付与された染料のことで、ドレスに軽量化を施したり、鎧の下に着込む厚い綿の防護服に冷感の効果を与えたり、建物の耐久性を上げたりといろんな場所で活躍している。
今まではあまり量が入ってきていなかったので貴族が使うものだったのが、輸出特例をきっかけに、一般庶民にも普及の兆しが見えている。
「新しく買ったそこのカーテンにも光を遮断する魔法染料が使われているんだよ。最近は安価なアザレアの物が入ってきて、私のような研究者にも手が届くようになった。ただ、品質にばらつきがあるという話も聞くがね」
「そうなんですか?」
「まあ、安いものにはそれなりの理由があるということかもしれない。研究者の悪い癖で、つい詳しく調べたくなってしまう。せっかくカーテンのおかげで、ここでもよく眠れるようになったというのに、時間がいくらあっても足りやしないね」
「ここではなくて家で寝てくださいとあれほど」
小言の気配を感じたのか、ドロテアは遮るように「さて」と声をあげる。
「というわけだから私はもう少しここに残るよ。明日は発表で一日部屋を開けるから休みだからね」
「わかりました。今日作った魔法石はそっちに置いてますね」
「ああ、助かるよ。マリシアが来てからランプの為の魔法石をケチらず使えるようになったからね」
「助手として雇ってくださった上に、普通なら屑魔法石と呼ばれるものでも買い取ってくださっているんですから、助かっているのはこちらの方ばかりです」
屑魔法石。その言葉を口にするたびにマリシアの胸は痛んだ。
どれだけ頑張っても、出来上がるのはいつも魔力の込められた量が少ない魔法石ばかり。
それでもドロテアは、そんなマリシアの魔法石を「屑」ではなく「研究材料」として買い取ってくれる。
値段は安いが、マリシアにとっては何より大切な収入源だった。
「屑魔法石ねえ、それは活かせない方の技術不足というものだ。……さ、それじゃあ気をつけてお帰り、マリシア」
「はい、先生もあまり無理をなさらず」
荷物を手早くまとめて布製の袋に収めると、マリシアは大きく一礼して部屋を後にした。
◆◇◆
部屋を出るとすでに日は落ちかけていた。
荷物を胸の前に抱えて、マリシアは研究棟から学生棟に続く渡り廊下を足早に進む。
見回せば学生達の姿はほぼ無い。すっかり遅くなってしまった様で、急がないと乗合の馬車が出てしまう。
歩いて帰るにはマリシアの住む家は少し遠い。
学園の近くは貴族の子女のための豪奢な屋敷が立ち並び、平民が住める場所ではないから。
でも、ついつい学園の門の向こうを仰ぎ見てしまう。
マリシアはバレ・デル・フエゴを預かるカルデロン伯爵家の長女。
といっても、祖父の鉱山投資の失敗で没落した典型的な『没落貴族』で、驚くほどにお金がない。
今は爵位があるのがむしろ邪魔なくらい。
社交界の招待はされるが資金がなく断ってばかりで、招待する方も父母を裏で笑っているんだろう……。
「はぁ」
伯爵令嬢らしい生活ができていれば、と思うとため息が漏れてしまう。
──最初はマリシアも学生として迎え入れられるはずだった。
故郷で行われた魔力測定で学園での学費免除もあり得る、と言われるほどの魔力量を持っていたが、学園の試験で現実を突きつけられた。
魔力は多いが効率よく出力できず、「屑魔法石」しか作れなかったのだ。
途方に暮れるマリシアを救ってくれたのがドロテアだった。「変わった魔力体質が研究に使える」と言って助手として雇ってくれたのだ。
「先生に拾ってもらえなかったら、金の鎖に縛られるのでもいいと思っていたところだったなあ」
金銭による束縛としての結婚。実家に支援をしてくれるならどんな相手でも受け入れるつもりだった。
そんな風に過去を思い返していたマリシアの耳に甲高い鐘の音が届いた。
「いけない、馬車が!」
鐘の音は乗合馬車出発の知らせ。
マリシアが慌てて走り出そうとした時、急に辺りが暗くなった。
顔を上げると深い海の青色が広がっていた。
「え?」
ばさりと布地が風をはらむ音がして、金の縁取りのある青いマントを纏った青年が目の前に立っていた。
微かに青みを帯びた暗闇色の髪、夜を思わせる濃紺の瞳。滑らかな肌は無表情も相待って、まるで石造りの彫像のように体温を感じさせない。
どこか現実感の無い美しい姿。
マリシアは彼の姿をまるで夢でも見ているように、ぼおっと眺めていた。
「見つけた」
見た目通り声まで美しいんだなと呑気に考えている間に、気が付けば強い力で両手を捕らえられていた。
驚き声も出せないマリシアに彼は強い声で告げた。
「俺の魔力を産んでくれ」
と。