【番外編】グリエルモの人生
グリエルモという男の人生です。
薄い膜が覆う青。
翻るローブ。
木漏れ日落ちる学び舎。
足取りに合わせて左右に揺れる小麦の煌めき。
反響を残しながら遠ざかる靴音。
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筆頭公爵家の嫡男にして唯一の子として生まれたグリエルモは、物心ついて以降、人肌を知らない人生を送ってきた。
公爵夫人である母はグリエルモを身籠っている間、ずっと床に伏していたという。
妊娠中に医師から「もしかすると出産に耐えられない身体かもしれない」と聞かされた公爵たる父は、伝を辿って他領の医者まで呼び寄せ、妻の出産に備えた。
それまでいかにも高位貴族らしい淡白な関係の夫婦であったので、当事者の夫人含めて屋敷のみなが驚いた。
そして月満ちて1日掛かりの出産に耐えた夫人は、我が子と繋がるへその緒が切られた瞬間、それまでの不調が嘘のように調子を取り戻した。
代わりに赤子を取り上げた医師が目眩を起こして座り込み、とっさに受け取った助手はどうにか生まれたての赤子を寝台に乗せてから倒れ込んだ。
夫人のために集められていた医師らは、目の前で起きた出来事に探究心を駆り立てられ、代わる代わる赤子の世話をしながら自らに起こる症状を研究した。
始めは10人ほど集められていた医師は諸事情で最終的に半分まで減っていたが、夫人の床上げの頃には一つの結論を出すに至った。
後にグリエルモを苦しめる「魔力過剰体質」。
当時は「魔力の器に対して生成される魔力が多すぎるために、溢れた魔力が他者に馬車酔いのような影響を及ぼす」という診断だった。
その頃には公爵家の先祖たる魔法の天才の名を与えられていたグリエルモは、それ以降常に複数の乳母を付けられ、代わる代わる世話を受けた。両親も時折訪れたが長くは保たず、一般的な貴族の育児ほども触れ合うことは出来なかった。
さらに乳児期を終え活発に動き回る頃になると、保有する魔力量も増え、いよいよ触れるだけでも倒れる人間が増えた。
両親にも乳母にも触れられることが少なくなり、3歳の頃には魔力を調整するための訓練が始まり、生活ではまるで平民の子供のように自立を迫られた。
2歳を迎える頃には自らが異質であることを理解していたグリエルモであったが、家族や使用人以外ならば手を取って走り回れる友人ができるのではないか、という幼い期待を持たずにはいられなかった。
しかしそんな希望もじきに打ち砕かれた。
6歳の頃に友人作りを兼ねて開かれたお披露目の会で、走り回って目の前で躓いた子供にとっさに手を差し出したところ、グリエルモに触れられた子供はそのままうずくまると気を失ってしまったのだ。
幸い周囲が「食べてすぐ走り回ったからだ」と勘違いをし、公爵家に常駐する医師もそう診断を下したため騒ぎにはならなかったが、グリエルモは分かっていた。
――僕が触れると人は倒れてしまうのだ――と。
両親の慰めの声も遠く聞こえた。
以降は公爵家の嫡男でありながら、これまでより一層人を近付けなくなった。
貴族の子女が通う学園に入学する頃には、魔力暴走を起こさない程度には発散するコツを覚えていた。
しかしやはり不用意に接触することは危険があったため、グリエルモの魔力保有量が多すぎることと、余剰魔力が周囲の人間に影響を及ぼすことと共に、周囲に対しては不用意にグリエルモに触れることを禁ずると発表した。
学園にはまだ幼い子女も多いため、大きくゆとりのあるローブを羽織って物理的にも人との関わりそのものを避けて過ごした。
その後魔法を専門とする学院に進学する頃には周囲も分別を弁える人間ばかりになったので、貴族として人間関係の構築にも力を入れ始めた。
肩を組み隣り合って座ることは無くとも、挨拶を交わし魔法談義に花を咲かせる学友。冗談を言い合い愚痴を交わす友人。互いに家を行き来する友人。
そして、ただ通り過ぎるだけの恋人たち。
父親に似た涼やかな容姿に母親に似た華やかな色は多くの女生徒を引き寄せた。
美しくも決して触れることは叶わず、間違いが起こりようもないグリエルモは、恋に恋する少女たちにとってひと時の春を彩る安全な宝飾品になった。
グリエルモにとっても、触れることはなくとも美しい彼女らは、傍に置いて取り留めもない話を聞き流しながら世間の噂話を集めるのに役立つ、花を飛び交う蝶か蜂蜜のようだった。
言葉は交わそうとも視線は交わらず、常に自身の見てくれだけを熱心に眺めるそれは――美しい虫のようで――。
余剰魔力を体内から別の場所、例えば水晶のような無機物に移す方法を模索する日々の中、5年間の学院生活が残り1年を切った頃、彼女を見つけた。
グリエルモの容姿にも地位にも興味がないのか宝飾品でも虫でもなく級友として付き合うだけだった女生徒の一人から、「そろそろ私も一人の女としてお話してもよろしいですか」と声をかけられたのだ。
都から遠く離れた地から、魔法の才を伸ばすべく送り出された伯爵家の次女。気安くいながら、田舎貴族と侮られぬほどの行儀作法を叩き込まれたと分かる彼女。
その頃には過去グリエルモを装飾品のように扱った女生徒もほとんどが婚約者を別の男に定め、潮が引くように周囲からいなくなっていた。
彼女のことも始めはそれまでの恋人と何が違うのか分からなかったが、級友の枠を外して話す中で、不思議と心を惹かれた。
魔法、社会、政治、歴史、領地経営と、およそ色気とは程遠い話題ばかりであったが、小さく微笑み、声を上げて笑い、時に意見をぶつけ合いながらも目を逸らさず見つめてくる彼女を相手にすると、口を噤むことができなかった。――相槌ひとつでもいいから声が聞きたい――と思った。
物心ついてからずっと、万が一触れてしまった時には周囲にすぐ助けを求められるよう、誰かと会う時には必ず人目のある場所を選んでいたが、それまでと同じようにしているのに、そうすると彼女の瞳が自分以外を映すことに酷く焦りを覚えた。
空を流れる雲、頬を染める夕陽、風に揺れる草花、窓を濡らす雨、細く伸びた指が押さえる教本。
どうにもならない相手に、どうしようもなく嫉妬した。
触れ合うことのない2人。
触れることがないからこそ、彼女の名誉を傷つけることなく傍にいられる。
どれほど惹かれ合おうとも重なることのない未来。
卒業式を終えそれぞれが次の場所へ向かう晴れやかな笑い声が響く中、グリエルモは初めて、彼女を人目のない場所へ連れ出した。
そこで懐から取り出した小さな箱には、一級の輝きを放つダイヤモンドのネックレスが2つ収まっていた。
グリエルモが5年間の研究の中でようやく見つけた、周囲に影響を及ぼさないまま余剰魔力を移して蓄えるのに最も相応しいと結論付けた石。
「要らなかったら捨てていいから」
1つを自らの首にかけると、もう1つの長い鎖を彼女の白い首にかけ、その柔肌に決して触れることのないようにそっと金具を滑らせた。
2人の胸元に揺れる輝きが、青春の終わりを告げる。
長い睫毛が伏せられ、華奢な指先が彼女の胸元のダイヤモンドを覆い、一瞬のちにあの日嫉妬した空のような青がグリエルモを射抜く。
「2秒だけでいいから」
すっと差し出された彼女の白く細い指。
磨かれた桃色の小さな爪。
その目を逸らせないまま、自身も胸元のダイヤモンドを包み込むように握り、彼女の柔らかな手を握った。
1、2。
友人同士より短く、恋人同士の触れ合いには程遠い、幻のような一瞬。
名残りを惜しむ間もなくパッと手を離した彼女は、薄く潤む瞳を隠すように満面の笑みを浮かべると、「さようなら!」と大きく告げて走り去った。
翻るローブ。
木漏れ日落ちる学び舎。
足取りに合わせて左右に揺れる小麦の煌めき。
反響を残しながら遠ざかる靴音。
卒業後は学院生活を共にした第一王子の護衛を兼ねた側近の1人として城に上がり、以降独り身で過ごした。
10年を迎える頃に第一王子から「空っぽ令嬢」を妻に迎える話を受けたが、城に召喚した時には彼女はその人生の多くを共に過ごした幼馴染と婚姻を結んだばかりであったため、この話は2人の中だけで終わった。
第一王子はたいそう悔やんでいたが、グリエルモ本人は彼女の青い瞳を見て学生時代の最後の記憶を思い出し、愚かな計画を実行に移さずに済んだことを感謝していた。
グリエルモが32歳を迎えて間もなく、公爵家前当主である父が倒れた。城を辞して1年をかけて執務を引き継ぎ、代替わりしたばかりであった。
「お前に当主の座を譲ったら、モルガーナ(妻)と一緒に旅行にでも行こうかな」と言っていたのは、グリエルモがまだ城に居た頃だ。
そうしていよいよ父の命の炎が消えようという頃、父に呼び出された。
人払いを済ませた部屋には、すっかり痩せ細り、誰の目にもその生の終わりが近いとわかる父の姿があった。
寝台の向こうで父の手を握る母の、泣き笑いのような表情で父を見つめる目を、落ち窪んだ目で母を見つめる父の弱々しい手を、グリエルモはどこか遠い景色のように眺めた。
声も出せずに立ち尽くすグリエルモを掠れた声で呼び寄せた父は、ある願いを口にした。
「グリエルモ、立派な当主になってくれてありがとう。お前は私の自慢の息子だ。最後に父に、お前を抱き締めさせてくれ」
それを聞いたグリエルモは強い衝撃を受けた。
いくらある程度調整できるようになったとはいえ、不意に接触するだけで相手を酩酊状態にすることもある。
そんな自分が今の父に触れれば、その弱々しい命の灯火は――
しかし父はグリエルモの逡巡を理解しながら、その命を賭して息子に己の愛情を伝えた。
家族3人で最期の時を過ごし、グリエルモの父は神の御下に送られた。
父を見送って数年の内に母の手助けの元、親族から優秀な子供を養子に迎え入れて次期当主に育て上げる。
そして母も父の元へ旅立ち、グリエルモは養子と共に領地の為に奔走した。
40半ば、公爵領で起きた災害をきっかけにして魔力過剰体質が落ち着くと、爵位を養子に譲り、自身の体質を記録として書き残すことにした。
生まれてからこれまで我が身に起きていた事、周囲に引き起こした影響を家中の記録をかき集め、そして最後に何が起きたかまでをまとめると、それを手に再び王城へ上がった。
主に仕えて忙しく走り回る中、グリエルモは懐かしい人に出会った。
豊かに実った小麦の髪には少しの白髪が混ざり、抜けるような青空の瞳。
その青はあの日と同じ。
グリエルモの心の奥を射抜いた。
嫌な奴なのに!ただの嫌な奴じゃなかった!お前も苦労したんだなグリエルモ!
ということで嫌な奴枠のグリエルモの番外編を書いてしまいました。
なんか急に思い浮かんでしまって、ティツィアーナより重い?人生を与えてしまいました。
ティツィアーナとイラーリオはちょっと描写が薄いかなーという気持ちがありつつ投稿していたのですが、久しぶりに読み返したらそんな言うほどでもなかったのでやっぱり本編は本編で完成しています。




