6.街の伝統
今日という日は、2人にとってはもちろん、街の人々にとっても待ち焦がれた日だ。
それはもう、街の子供たちと一緒になって虫を追い回していた頃から知っている2人のこと。
女の子に意地悪をした男の子を竹箒片手に追い回すティツィアーナと、彼女をなだめようと追いかけるイラーリオの姿を、昨日の事のように思い出す。
そんなティツィアーナが10歳の頃には、彼女の片思いをやきもきしながら見守ったし、彼女の思いに気付かずにぼんやりしているイラーリオに一言物申そうとするオヤジや若者を抑え込む姿は街のあちらこちらで見られた。
イラーリオが彼女を意識し始めて手を繋がなくなった時には、祭りでもないのに2人の周りに人混みを作ってみたりもしたし、街の恋人たちを集めた事もあった。
そしてティツィアーナがついに婚約者も恋人もなく適齢期を迎えた時には、男も女も泣きながら酒を酌み交わしたし、そんな彼女に興味を持った行商の男に常連客が各々お勧めの酒を飲ませて記憶を飛ばさせたのは住人だけの秘密だ。
街にはいつからか花が溢れ、ちょっとお洒落な雑貨屋に、思わず結婚を意識しちゃうような宝飾品店や、プロポーズの場所としても人気の飲食店が沢山できたし、そうこうしている間に2人の家には跡取りになる甥や姪が生まれて、子供用品店まで増えた。
この街はもはや、ティツィアーナとイラーリオのために発展したと言っても過言ではない。今や街全体がここら一帯で人気のデートスポットだ。
そんな街の宝飾品店を何店舗も回ったイラーリオが、とうとう一対の上等な揃いの指輪を買った時、街は静かに喜びに浸って、我慢がきかない男たちは秋祭りにかこつけて歓声まで上げた。
だというのにいつまで経っても進展しない2人の仲。「次の花嫁はアナタ!」みたいな新しい伝統でも作ろうかと話し合いまで始まっていたところだ。
もう焦れに焦れた街の人々の気持ちが、今日ついに爆発したのだ。
いつの間にこんなことになったのか春の花で目一杯飾り立てられた伯爵家の二人乗り馬車に乗せられた2人は、朝には無かったはずの屋台で食べ物を受け取りながら進む。手にした物を互いに食べさせ合い、その後ろを家族が同じく車窓から食べ物を受け取りながら続く。御者の口には串焼き肉が刺さっているし、両家の男たちは酒まで飲んで男泣きだ。
方方で祝いを受け取りながら、空が赤く染まり始める頃にようやく辿り着いた広場には、通常であれば1週間ほどかけて準備されるはずの、この街伝統の「花婿の清め」の準備が完璧に整えられていた。
藁で編まれた輪には家族の女たちと花嫁の手で火が着けられ、大きな桶に汲まれた水を家族の男たちの手で浴びせられた花婿が、立ち会う人々の目の前で7個の火の輪をくぐり抜ける。女神の火で清められた花婿が、花嫁の許まで駆け抜けるのだ。そこで花婿の口付けを受けた花嫁は、花嫁に一番近い子供と額を擦り合わせ、女神の祝福のお裾分けをして儀式を終える。ここは一番小さいマウリツィオの息子の出番だ。
出会ってから20年、願ってから5年。婚期を超えて散々待たせた可愛い幼馴染、やっと結ばれた愛する妻に男を見せるため、イラーリオは鼻息荒く馬車を降りた。そしてティツィアーナにそっと手を差し出して並んで広場に立つと、教会の時とは比べ物にならないほどの歓声が二人を包んだ。
火の輪くぐりなど貴族の子息が挑むような儀式ではないが、ティツィアーナのキラキラ輝く瞳を見たイラーリオは覚悟を決めた。いや、既に決めたからこそ今ここにティツィアーナと並んで居るのだが、それはそれとしてここで逃げれば男が廃る。もう後が無い。
イラーリオは立会人の指示に従って上着を脱いで、指輪を残して装飾品を全て外す。
ティツィアーナは両家の女たちと共に、藁の輪に一つずつ、祈りを込めて火を着けていく。
2人火の輪を挟んで視線を交わすと、イラーリオが力強く頷いた。
両家の男たちが桶一杯の水を残らず浴びせながら、口々に活を入れる。夏が近いとはいえ汲みたての井戸水は悲鳴を上げたくなるほど冷たいはずだが、歯を食いしばって耐えた。
最後の水を浴びて大きく息を吸い込むと、火の輪の先の花嫁を見据えて、歓声の中を駆け出した。
長い体を折り畳むようにして飛び越えて、火の輪をくぐる。
1つ…
2つ…
3つ…
4つ…僅かに膝に疲れが見えたが止まらない。
5つ…
6つ…
野山を走り回る狩人でも、剣を振り回して戦場を駆ける兵士でもない。三男とはいえ時々外を歩くだけの貴族だ。
そんな男が火の輪を飛び越え飛び越え、愛して止まない花嫁を目指す。
広場は水を打ったかのように静まり返る。
最後の力で7つ目の火の輪を飛び越える。
倒れ込むように花嫁の元に辿り着いたイラーリオは、その勢いのままティツィアーナを抱き締め口付けた。花嫁の背中は藁の塊が抱き留める。
その瞬間に広場は再び歓声に包まれ、両家の女たちは肩を抱き合って喜んだ。イラーリオの姪は飛び跳ねている。
ティツィアーナは兄から差し出された彼の息子の眠たげな瞳に微笑んでから、小さな丸い額にそっと自身の額を擦り合わせて、彼のこれからの幸せを祈った。
花婿の清めで盛り上がった街はそのままお祭り騒ぎに移り、あちらこちらで踊りの輪ができた。夜遅くに主役とその家族が帰ってからも、広場では三日三晩祝いが続いた。
この時たまたま街に立ち寄った人々は、あまりの騒ぎに驚きながらも、見知らぬ2人の幸せを祈って時期外れの祭りを楽しんだという。
街遊びの時には護衛兵が付いていたはずですが、このわんぱく2人が幼い頃は体力勝負だったでしょうね。