2.子爵家三男イラーリオ
イラーリオは伯爵夫人の友人である子爵夫人の3人目の息子。双子の兄は2つ年上で、マウリツィオの1つ下、ティツィアーナの2つ上の年齢である。
ティツィアーナが「幽体離脱」をする前にも後にも顔を合わせたことはあり、兄らを交えて捕まえた虫の大きさを競って遊ぶだけの仲であったが、あの夏の終わりの夜にティツィアーナに命を救われた。
あの日、月夜の獣道を駆けた伯爵の護衛兵たちは、辿り着いた湖で目を凝らし、舟遊びのために係留してある小舟を借りて、ティツィアーナが見た少年を探した。
ほどなくして猟師の息子という使用人が、一足早く夏を終えたひんやりとした湖の上、不自然に傾く小舟を見つけた。急ぎ駆けつけると、金色の髪を月に照らされた少年が、小舟の縁に捕まって、今にも力尽きそうに震えている。
間一髪救われた少年は確かにイラーリオと名乗ったので、毛布で巻かれて子爵の屋敷まで運ばれた。
屋敷には馬車道を駆けた遣いが届いてまだ間もなかったようで、玄関ホールには子爵一家と使用人が集まっていた。そこに扉を開けて担ぎ込まれた、金色の髪を覗かせる毛布の塊を見て、誰もが息を呑んだ。
こんな真夜中に駆けた遣いは、伯爵の指示により「ティツィアーナが満月の夜に咲く妖精の花を探しに行くと言って聞かないので納得させるために使用人らを出したら、湖の中ほどに無人に見える小舟が見えた。とにかく一番近い屋敷に走って来たが、心当たりはないか」と伝えた。それで家人と使用人を集めて点呼をとってみれば、イラーリオの不在が判明したところだったのだ。
夫人が震える手でイラーリオの冷たい頬に触れると、緩く震えたまぶたが開き、若葉色の瞳が母の青い顔を捉え、大粒の涙を零した。
伯爵の護衛兵らは毛布で巻いたイラーリオを子爵に引き渡すと、そのまま屋敷に引き返した。
翌朝、夜中に起きた騒動を聞かされたマウリツィオが「満月の夜は羽が虹色に光るカブトムシの妖精が捕れるんだ!僕も行きたかった!」と騒いだために、くだんの猟師の息子と護衛兵らは、特別手当と引き換えに(これは当然昨夜も出されたが)、次の満月ではカブトムシの妖精探しに行かされることになった。
そして後日伯爵邸を訪れた子爵夫妻は、伯爵夫妻にあの夜の感謝を伝えると共に、イラーリオについて、5日ほど高熱を出して寝込んだこと、「湖に浮かぶ月を捕まえて窓辺に置いておくと、不死鳥がやってきて友達になれると聞いたから、やってみたかった」と言っていたこと、それを言い出したのがイラーリオの兄2人だったために大目玉を食らわせたことを報告した。兄2人は1ヶ月、イラーリオは1週間、家でも外出先でもおやつ抜きだという。
伯爵夫妻もマウリツィオの話を「来月はカブトムシ探しだ。雨が降ればいいのに」と語って聞かせた。
2組の夫妻は揃って窓の外、ピンクのバッタを探して走り回る子供たちを見つめ、彼らの想像力と行動力にため息をついた。
なお今回のこの件については、本来ティツィアーナは全くの無罪である。
その後も家族ぐるみでの付き合いは続いていたが、イラーリオの兄2人に子供の社交が始まると、ティツィアーナの世間での評価が彼らの耳に入ってきた。
「あんな空っぽの娘」「空っぽで貴族に生まれて恥ずかしくないのか」「空っぽの娘と関わるなんて」「空っぽで何の約にも立たないのに?」「関わるだけ時間の無駄では?」
面白くて可愛い幼馴染なのに、貴族の世界では役に立たないと貶されている女の子。
周囲の人間に反抗したい年頃と、口を滑らせて幼馴染を傷付けたくない気持ちでティツィアーナに会うのを避けるうちに、家を継ぐための勉強や社交で忙しくなり、兄2人は彼女と年齢が離れていることもあってそのまま疎遠になった。
イラーリオはその後も母に連れられて伯爵家の兄妹と顔を合わせていたが、マウリツィオも忙しくなるとティツィアーナと2人きりになることも増えた。するとお互いなんだか気恥ずかしい気持ちが芽生え、これまで以上に虫の話や子供たちの間で囁かれる噂話ばかりを話題にするようになった。
続いてイラーリオが子供の社交に参加すると、兄2人やマウリツィオの時と同じようにティツィアーナを貶す子供たちの声が聞こえて心を傷めたが、彼ら彼女らの目的が未来の伴侶探しであることに気付いてからは、真面目に関わることをやめた。嫁入りするなら家格が上の長男、婿探しでも家格が上の次男が人気ならば、高熱で5日寝込んだ子爵家の三男など、最後の最後に見る相手だろうし、積極的に売り込みたいとも思えなかった。
最後にティツィアーナに子供の社交が始まると、これまでイラーリオやマウリツィオらがぶつけられてきた婉曲な悪意が、隠されることなくそのままの形で、ナイフのように直接彼女の心に突き立てられた。
いつ会っても元気で明るくて時々はにかむような笑顔を見せていた幼馴染の、痛々しいまでに変わらない笑顔は、むしろイラーリオの心を抉った。
イラーリオ自身もいつか婿入りを望まれるかもしれないと貴族の教育を受けて忙しくしていたが、母が伯爵夫人に会う時にはなるべく同行して、これまでと変わらず接するように努めることでティツィアーナの心を慰めようとした。
そんなずっと変わらないイラーリオの態度に安心した彼女が時折見せる涙も、黙ってひたすらに受け止めた。落ち込みを外に見せないまま社交を諦めた彼女を外に連れ出したのはイラーリオだ。
楽しくて可愛くて賢くて優しくて柔らかい、そんな彼女の心を、他の誰でもなく自分こそが守りたいと思ったのは、彼女が成人の儀を終えた後。
久しぶりに顔を出した社交の場で彼女が何を言われたのかは、彼女と伯爵夫妻の顔を見れば想像がついた。このまま嫁ぎ先が見つからなければ、どうしたって平民になることも。
イラーリオもこのまま婿入り先が見つからなければ平民になるが、ティツィアーナはいつか「空っぽ」でも構わないと言うような貴族家に求められるかも知れない。相手が社交を不要とするならば、彼女は貴族のまま、静かに裕福に暮らせる。
自分が彼女を求めることが彼女の幸せに繋がるのかが分からず、決心がつかないまま。そうして月日ばかりが過ぎ、ティツィアーナは顔も出さない社交界で「行き遅れ」とまで嗤われるようになった。
子供の社交は10歳から始まるかなーと。