1.伯爵家長女「空っぽ」のティツィアーナ
間もなく日付が変わろうかという夜の伯爵邸。
当主の執務室に若い娘の声が響いた。
「お父様!お母様!私はイラーリオと結婚します!明日!必ず!絶対!」
――――――――――――
ティツィアーナは現在20歳。成人が16歳と定められているこの国の、貴族の娘としてはいわゆる行き遅れと言われる年齢にも関わらず、婚約者さえいない。
というのも、この国の貴族は皆何かしらの属性に秀でた魔力を持って生まれてくるのに、ティツィアーナは何も持たずに生まれてきたからだ。
両親にはもちろん3つ年上の兄マウリツィオにも魔力があるのに、ティツィアーナだけは何もない。魔力があって当たり前の貴族の世界で、「空っぽ令嬢」と揶揄されながら生きてきた。そして「空っぽ令嬢」に興味を持つ貴族の男などいないのだ。
兄マウリツィオも魔力至上主義の貴族らからは敬遠されたが、幸運にも「血筋も家柄も間違いないのなら、魔力のない子供が生まれるかどうかは神のみぞ知る」と言う奇特な令嬢を妻に迎え、昨年無事に男児を授かった。
とはいえ世間の目はともかくとして誰がどう見ても両親それぞれの特徴を持って生まれて、健康に無邪気に育つ娘を、家族も屋敷に勤める者も皆たいそう可愛がり、慈しんで育てた。ちょっと甘やかし過ぎて、貴族の娘としてはいささか自由に仕上がった気もしたが。
そしてそんな自由なティツィアーナは、言うまでもなく魔法は使えないが、人には言えない特殊な力を持っていた。
眠っている時に、ごく稀に、別の場所の光景を見ることがあるのだ。彼女はそれを「幽体離脱」と呼んでいる。
彼女が初めてその力を発揮したのは、両親曰く3歳の時。屋敷の厩で彼女が気に入っていた馬が産気づいた様子を、「おとうさまのだっこよりたかいところ」から見下ろしていたと言う。
深夜に飛び起きるなり子供部屋を飛び出したティツィアーナは、両親の部屋に飛び込もうとして扉にぶち当たり(当然施錠されていたからだが)、ギャー!と泣いて大騒ぎを起こした。慌てて集まった使用人に助け起こされ、その後に飛び出してきた気まずげな両親に慰められ、与えられた蜂蜜湯を飲みながら「おうまさんがしんじゃう!」とまた泣き出したのだ。
それを聞いた両親は「大丈夫だよ、ティツィ。お馬さんはみんな健康だよ。でも心配なら見てきてもらおうね」とティツィアーナの寝癖だらけの髪を撫で、使用人に馬の様子を見てくるように言いつけた。
そして少しもしないうちに別の使用人が戻ってきて「馬が産気づいております!」と報告するものだから、両親は顔を見合わせて言葉を失った。
なおこの時ティツィアーナ本人はすでに夢の中に戻っていたし、マウリツィオは騒ぎを気にせず朝までぐっすり眠っていた。
馬は早産で難産であったが、叩き起こされた厩番と集まった使用人によって無事取り上げられた。
その次は馬の件から二月ほど後。家族で避暑に出かけた時だった。
早朝から馬車に揺られて疲れたティツィアーナは、母の膝を枕にしてすやすやと眠っていた。朝からずっとティツィアーナのお喋りと自作の歌を聞かされていた家族は、束の間の静寂を噛み締めていたが、それは1時間も続かなかった。
母の膝から突然飛び起きたティツィアーナは、大きな青い目を見開いて「おやまのいしがおちた!」と叫んだ。
両親は顔を見合わせ「夢を見たんだね。ここは馬車の中だから大丈夫だよ」と涎を拭いてやった。
父の膝に移されたティツィアーナがご機嫌で外を眺めて自作の歌を口ずさむのを聞いていたが、しばらく進むと馬車が速度を落とし、やがて止まった。外から数人の話し声が聞こえる。
そして少しも待たないうちに御者が顔を出し、主人に「この先で落石があったようです」と告げた。
それを聞いた両親は顔を青くしてティツィアーナに目をやり、マウリツィオは「予言者だ…カッコいい…」と目を輝かせた。
結局その夏は避暑を諦め、屋敷や近隣でピクニックをして過ごした。
その後は、門番がくしゃみをした拍子に腰を痛めたとか、客人から貰い受けた月下美人が温室で花を咲かせたとか、料理人が新作料理を試作中に喉に詰まらせたとか、倉庫に住み着いた野良猫が子供を産んだとかの、夜中に起きた、屋敷の中で収まるような小さな事件を言い当てた。
そして月下美人の開花を家族で観察した翌朝、屋敷の人間を広間に集めた父は、伯爵の顔をして告げた。
「ティツィアーナには魔力がないが、代わりに勘が大変よく働くらしい。きっかけも基準も分からないが、これが人に知られてしまえば、何か良くない事に利用されることがあるかも知れない。我が家に忠誠を誓うならば、ティツィアーナの幸せを思うならば、決して外に漏らしてはならない」と。
そうして秘匿されたティツィアーナの「幽体離脱」であるが、彼女が6歳になってしばらくして、ついにその秘密に命を救われた者が現れる。
それが冒頭の「イラーリオ」である。
ある夏の終わりの晩、まだ深夜でもない時間に、シクシクと泣きながら両親の部屋を訪れた6歳のティツィアーナは、涙とともに「イラーリオがしんじゃう」とこぼした。
父は今ひとつ反応できなかったが、母はイラーリオの名に飛び上がり、使用人に蜂蜜湯を用意するように言いつけると、ティツィアーナに優しく詳細を尋ねた。
「イラーリオは月をつかまえたくて、ようせいのみずうみにいるの」
「あみをおとしちゃったからとろうとしたら、ふねがゆれてみずにおちちゃった」
「きんいろのかみがぬれてる」
「はやくたすけてあげて」
母はポロポロと涙を流して訴えるティツィアーナを抱き締めて、イラーリオは子爵の息子であること、子爵の屋敷まで馬車で1時間ほどであるが、馬車道を外れて獣道を抜けると最短で湖に行けることを夫に伝え、湖と子爵の元に人を遣ってほしいと頼んだ。
父は速やかに屋敷に詰める使用人と護衛兵を集めると、夜目が利く者と護衛兵の2人一組で湖まで走る者を数組と、馬車道を子爵の屋敷まで走らせる者を選び、別の数人には毛布を持たせて走らせた。
伯爵家と湖と子爵家の立地は、「Y」の上2本の棒の先にそれぞれ伯爵家か子爵家、棒の間に湖があるようなイメージです。
(2025/06/27修正)どこかで何かが矛盾してる…と思っていながらそのまま投稿したのですが、ティツィアーナの目の色が後のエピソードと違っていたので修正しました。