第二十四話 行き過ぎた勘違い
乾いた木の音が三度鳴る。一枚の壁を隔てた向こう側に人が居るのかを確認する行動。それはノックと呼ばれるものだ
「フェイ・クラウン。もしそこに居るのなら、扉から放れていて下さい」
声を聞くのはいつぶりだろうか。季節が移ろう程の時間でなくとも、死に体の人間からすれば、それは気の遠くなるくらいに長かった
ついに迎えが来たのだ。念願叶い、俺は天へと逃げ込む事ができる。安直な安寧に縋って声の聞こえる方へと這いずる
勢いよく吹き飛んだ瓦礫と扉。内側と外側の境界が取り払われる。天の遣いではない。こんなもの、天使の所業である訳がない
「話をしましょう。フェイ・クラウン」
知っている顔だ。俺を苦しめた元凶とも言える。あの場で死んでいれば、まだ格好はついたのに。あそこで終わっていれば、こんな醜態を晒さずに済んだのに
思わず向けてしまった忌々しげな視線を、彼女は気にもせずに此方へと歩いてくる。逃げようとは思わないし、そもそも王国の騎士であるエクスから逃げ切るなんて不可能だ
力だけは勇者に迫るかもしれない逸材が現れたと大急ぎで囲い混んだは良いが、蓋を開ければその実力は其処らの冒険者以下にも劣るものだから、騙された、恥をかかされたと思い、俺を処刑しにきたのだろう
まぁ良い。飢えで死ぬか、斬られて死ぬかの違いだ。過程が違えど結果に変わりはない。やっと終われる。やっと楽になれる
力が抜けてしまったかのように握る剣を鞘ごと落としたエクスの表情は此方からは影になっていて、よく見えなかった。しかし剣を使うまでもないという事か
食事も水も絶ち痩せ細った俺の身体は、アンデットのそれとなんら変わらないように見えるだろう。俺が魔物になったとでも勘違いしたのかもしれない
たった一度だけでも共に窮地を退けた仲間が、人間の敵に、魔物になっていただなんて勘違いをしてくれていれば、情けとばかりに介錯をしてくれるかもしれない
塵まみれの床に臆することなく、真っ直ぐ歩いて、瓦礫の山に座した俺を、エクスが見下ろしている
エクスの表情は暗くてよく見えないが、きっと見下しているのだろう。落ちるところまで落ちた俺を、堕落してしまった。もはや何が正しいのかさえも曖昧で、善悪の判別すら出来なくなった俺を、見下しているはずだ
エクスが屈んだ。視線が合わされた。エクスの目が此方を覗いている。目と目が合って、刹那の後、衝撃が伝わり、視界は俺の意に問わず天井を映した
軽度の衝撃の後に、熱が触れる。温い温度の柔肌。それは人肌であり、クレアの身体以外のなにももでもない。柔く脆い、人の身体だ
殴れば痣ができ、刺せば血が出る。魔法で殺すにしたって何らかの現象が発生する筈だ。抵抗なんてしていない。せっかく死ねるのだ。する訳がない。にも関わらず俺の身体は変わらず鼓動を刻み続けている
「話を聞かせてください。あなたの、貴方自身の話を」
密着し、腕を回されて、魔法を放てば一撃で殺せるだろう距離。俺では不可能でも、彼女なら出来るはずだ。しかしいつまで待っても終わりは訪れない
視界が明瞭さを取り戻す。身体に無数に刻まれた生傷が癒え、汚ならしい命が意地汚く輝きを取り戻す。ふざけるな。俺はもう生きたくなんてないのに、生きるための魔法なんて使いやがって
「だれが、助けてくれと」
願った死を奪われた。その逆恨みの感情のままに吐き出された怨嗟の言葉はどこか後悔を滲ませる声音によって潰された
「そうですね。言ってません。だからこれは、わたしのわがままです」
治された眼球が、暗がりの中、エクスの表情を捉えた。よく知っている、知らない笑顔だ。無理をした、無理矢理に作った笑顔に、知らない何かが混じり混んでいる
「あなたに死んでほしくなかったから、わたしを見捨てないでくれた、わたしを救ってくれたあなたを、殺したくなかった」
そんなの、勝手だ。俺は死にたかった。お前がどう思おうたって、俺の知った事ではない。許さない、俺はお前を許さない。俺を殺さないなら、俺がお前を殺してやる
「クソが! ごちゃごちゃうるせぇんだよ! 俺はもう十分苦しんだんだ! だから、もう良いじゃねぇか、もう、許してくれよ」
「ええ、許しますよ。勿論」
暖かな声。内包された物の正体が、所詮優しさと、世間様の呼称するそれである事くらい、わかっていた。だから、殺すなんて言えなかった
「何が、許す? お前一人が、何をほざいてやがる。もう取り返しなんてつかねぇんだよ! 力も、なにもかも俺は失ったんだ。俺には、あの場所にいる資格がないんだ」
アベレージ学院は王国の実力者達の中でも選りすぐりの逸材が集う学舎だ。間違っても俺のような人間が入れるような所じゃなかった。その間違いが起きてしまった
「資格ならあります。だって貴方は、勇者じゃないですか」
「は? 」
勇者。勇ましく、勇敢な者。世界を均す救いの主であり、悪に属する者からすれば死神のような存在。絶対的であり、何があっても倒れない、諦めない。正しさの塊。弱きを助け悪を挫く。ただの一度も間違いを起こさず、正解の選択肢だけを取り付け、何一つ取り零す事なく、事を成す。どれだけ強大な敵であろうと人を助ける為なら命なんて惜しくないとばかりに勇猛果敢に戦地に足を踏み入れる事が出来る存在。面倒事だろうがなんだろうが、困っている人がいたのなら、その後のことなんて後回しに、無条件で人助けを出来る存在。澄んだ心を持ち、他者の痛みや苦しみに共感できる存在。間違っても、それを笑わない、蔑まない、見下さない。自分がそうされたとて、殴られ、蹴られ、馬鹿にされても、やり返さない存在。正しさの化身でありこの世で唯一の絶対正義
俺が、それだと? 違う。どこがだ。何一つ当てはまらない。俺は勇者じゃない。俺は勇者に成りえない
「はは、おい騎士さま。まさか俺の妄言を本気にしてんのか? 頭可笑しいんじゃねえのか? ああ? 」
暗澹たる俺の生涯を、お釈迦の英雄等と一緒にされた気がして、腹が立った。沸々と怒りがこみ上げ、悪意が暴言として出力される。それを止める術を俺は持ちえない
「全部嘘に決まってんだろ。俺なんかが勇者な訳がねぇ。全部俺の妄想だ。自分を慰める為のごっこ遊びだ。ありきたりな英雄譚を設定して、物語の主人公になりきる、俺は勇者なんだって、思い込んで」
そうでもしないと、生きれなかった。何度死のうと思ったことか。頼れる人なんて居なかった。助けてくれる人なんて居なかった。逃げ場所なんて何処にもなかった。妄想だけが、俺の拠り所だった
「第一、俺が勇者だったなら。俺を馬鹿にするあの村のクソ共を殺してしまおうなんて、考える訳がない」
死のうと思った。同じだけ、殺してしまおうとも思った。生活の流れを記録し、緻密な殺害計画を組み、実行まであと一歩の所まで準備を進めた。でも出来なかった
人を殺すのが怖かったからだ。人を殺せば、戻れなくなる。二度と正しさに縋れなくなる。人生の指標を失うのが恐ろしくて堪らなかった。度胸がなかった。勇気がなかった。だから、殺せなかった
偽りの善性は既に剥がれ落ちている。目下に晒された剥き出しの欲望を、新たな偽善のヴェールにより秘匿するなんて出来やしない。死を願う者に、死後の威厳や体裁を守ろうなんて意欲は沸きはしない。
「でも、貴方は、私を助けてくれた」
違う。なにもかもが違っている。助けたではなく、利用したのだ。自分の妄想を現実に持ち込むための舞台装置として、適任だった。別に助けられなくて死んだって、俺は構わなかった。悲劇の英雄も悪くないなんて思考が、頭の中には存在していた筈だ
「あの場に貴方が居なかったなら、わたしは一人で死んでいたでしょう。貴方が居たから、わたしは今、こうして生きている」
それが俺である必要はなかった。他の誰でも、多分、エクスは生き延びただろう。俺という足手まといが居なければ、隙を見て逃げることだって出来た筈だ
状況を俺が悪化させていた。俺という英雄気取りのゴミクズが、自身を過大評価して、エクスの命を自慰に浸るために危険に晒した。俺のおかげ? 馬鹿を消え。俺がいない方が良かったに決まっているだろうが
「わたしだって、死にたかった。なのに貴方が死なせてくれなかったんじゃない! なのに自分だけ楽になろうなんて、ズルい。ズルいズルいズルい! 」
身体を握る力が増していく。指が背中にめり込み、骨に触れる、肉が強引に潰され、血液が床と肌を汚す。エクスの声は震えていた。子供が駄々をこねる時みたいな様相で、泣き叫んでいた
泣かれたって困る。勝手だ。泣きたいのはこっちの方なのに、正常ではない光景に、強制的に冷静さを植え付けられてしまう
「助けたなら最後まで面倒みてよ! 中途半端に救われたって、わたしは。あなたが勇者だって言ったからッ…! 」
言って、エクスは俺を突き飛ばして家を飛び出していった。相手にする価値のない、身勝手な、独り善がりな言葉だ。しかしそのように切り捨てられない程に、込められた思いは、優しすぎた。それを感じ取ってしまった
すべての原因は俺にある。最初から、いつだって悪いのは俺だった。俺の嘘が何もかもを狂わせた。妄想に逃げて、嘘を吐いて人を狂わせて、中途半端に相手をして最後まで面倒も見ずに捨てた。興味を失くして、意識の外に捨て去っていた
それなのに自分の番になれば死んで逃げる? 否。否である。そんな事、許される訳がない。あって良い筈がない。責任を取らずに逃げるなんて、罪を重ねるだけだ
憧れたなら、憧れのままに死にたい。こんな悪となんら変わらないような無責任な自分ではなくて、正しさを持ったまま、責務を全うして、役目を終わらせて、死にたい
例え語られる英雄のようでなくても、理想の勇者を騙ったのだから、その理想を、嘘にしたくない。壊してしまいたくない。だから、まだだ
「鞄、何処にやったっけ」
まだ死なない