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白鹿の姫

 出発は満月の夜だった。森から踏み出そうとする私は嬉しくて、握り合わせた手をぎゅっと胸に押し付ける。細い一本一本の指、むにゅっとした胸の柔らかさ。私は人間になったんだ。やったあ、と叫び合い気持ちが溢れて、キュルル、と喉がなった。

「お嬢、気をつけろよ。その声、鹿そのまんま」

 私の頭に止まっている白フクロウのホウが呆れて私を嗜める。

 

——あ、そっか

 

「本当に大丈夫かよ。大樹様も酷だよな。人間にするなら声だってくれてやればいいじゃねえか」

 

 ホウがぼやく。

 

「しかたないじゃない。全部人間にしちゃったら、お嬢はもう元の白鹿に戻れなくなっちゃうのよ。森に戻る時のために一箇所は元の姿のものを残しておかなきゃいけないの。お嬢ならちゃんと気をつけられるわよ、ね?」

 

 グルル、と横にいたメイちゃんが頬を私の腕に擦り付ける。メイちゃんは巨大な灰色の熊だ。私はよろけて転んだ。細い二本足は不安定だった。


「あ、ごめん!」

 

 私は首を振る。


  ――声はなくていいの。みんなと会話ができるままでよかった。だってほらみて、これを見れば、王子様は私のこと思い出してくれるから

 

 私は白い布を広げる。あの日、王子様が森に忘れていったハンカチだ。薄茶色に汚れている。血の染み込んでしまったハンカチは、森の小川でに浸して洗ったけれど、白い色には戻らなかった。

 ホウが言うには、人の世界にはこれを綺麗にするための石鹸というのがあるらしい。ワクワクする。街に行ったら、絶対にこのハンカチを綺麗にしよう。王子様に返す前に。

 ホウは夜に人の暮らす街を見に行って、私に人の世界のことを教えてくれた。昼間の鳥たちはあまり森の奥には遊びに来ないから、私はこっそり森の奥から出て話をたまに人の暮らしを教えてもらっていた。だから、私の予習は十分だ。すぐに人と暮らしていける。

 

「王子様さあ、お前のこと覚えてると思うか? もう十七年前だぜ。俺たちみたいな森の奥の者と違って、人間ってすぐ死ぬんだぜ。十七年っていうと結構昔なんだよ」

 

「そうよ、だから王子様ももうすっかり大人になってるわね」

 

 頷いてハンカチを握りしめる。

 懐かしいな。金色の綺麗な髪の毛。青い瞳。早く会いたい。

 

「ったく、嬉しそうだな。浮かれてヘマするなよな。お嬢はボケっとしてるから」


 ――大丈夫だよ。私、ちゃんと王子様をみつけるからね。


「大樹様の言いつけも忘れないでね。お使い姫の力は使わないこと。鹿に戻っちゃうから。鹿に戻ったら一巻の終わりよ。人間は白鹿を食べたがるの」


 ――気をつけるよ。

 

 私は自分にも言い聞かせた。

 白鹿の肉には不老不死の力があるらしい。本当かはわからない。誰も私を食べたことはないはずだから。でもそんな噂があるから、昔から絶対に大樹様の守る森の奥から出てはいけないと言われていた。

 あくまでも噂だ。王子様は優しい目をしていた。鹿なんて食べたりしないだろう。


 メイちゃんとホウが顔を見合わせる。


「あ、あと大樹様の枝な!」


 ホウが慌てたように話題を変える。私、不安そうな顔をしていたかな。

 

 ——わかってる。任せて


「王家の宝だって言うからさ、王子に会ったらちゃんと返せって伝えてくれよ」


 大樹の枝は、私が生まれる前よりずっとずっと昔、森を守ることと引き換えに大樹様が王族に与えた、大樹様自身の小枝だ。綺麗な——ホウが街から持ってきてくれた、ガラスに似てる——キラキラした大樹様の小枝は王家の宝として受け継がれて、この小枝を持つ人間だけは森に入ることができる。

 でも大樹様は今、その小枝を返して欲しいと思っている。最近、どういうわけか森に人の出入りが多くなったみたい。小枝を持っていないはずなのに、森に人が入れるらしい。それはとても危険なことで、大樹様の力が広がっている場所に人が入ると、森は穢れてしまう。穢れた場所からは悪いものが生まれてしまう。

 大樹様はだから、王族に渡した小枝を返して欲しいそうだ。枝を悪用するのなら、もう森へ立ち入る権利は与えられない、と言っていた。だから、それを伝えるために私は森から出られることになった。森の神様である大樹様のお使い姫だから。ずっとずっと人になりたいとお願いしておいてよかった。


 ――じゃあ、私そろそろ行くね!


 薄い雲の隙間から満月が顔を出して、足元が明るくなったのを合図に私は森から一歩踏み出した。人間は、暗い場所だとあまりよく見えないみたい。ちょっと不便だけど、そんなことがわかったことさえ私には嬉しかった。

 お腹まである、波打つ白い髪を私は撫でた。人間の毛はスベスベして柔らかい。


「気をつけてね」


「頑張れよ!」


 背後でメイちゃんが咆哮をあげ、ホウは羽ばたく。二本の脚で私は走りだした。少し濡れた草と土の感触が今までと違う。


 いつの間にか頭上に集まってきたコウモリたちを従えながら森の周りに広がる草原を抜けると、広い土の道ができていた。この道を東に向かえば街があるとホウに聞いていた。道に走り出る。


「今だ! 撃て」


 声と共に、ヒュン、と私の腕に勢いよく痛みが走る。足がもつれて地面に倒れた。

 顔を上げると、少し離れた場所に馬がいた。馬の後ろには箱があって、ぼんやり光が灯る。それで男の人が二人いるのがわかった。一人が箱から身を乗り出してわたしに弓矢を向けていた。

 弓矢、昔、王子様に刺さっていたのと同じやつ。


「動くな!」


 弓矢のほうじゃない人が、火の灯った箱を持って歩いてくる。片手には剣が握られていた。

 近寄ってきた男の人はわたしに剣を向けて、そして目が合う。


「これが……魔物なのか」


 ――魔物!?


 わたしは驚いて首を振った。

 そんな、大樹様はわたしを人の姿にしてくれたのに、魔物だなんてひどい。


「わかっているぞ、お前が街道で拐かしをしている魔物だろう! こんな若い女のふりをして油断させていたとはな」


 わたしは口を開いて、閉じた。誤解だって伝えたかったけど、キュウ、なんて鳴き声を聞かせたら、この人はもっと驚いてしまう。

 どうしよう――両手に握った王子様のハンカチを胸で抱きしめる。曲げた肘から血の雫がポタ、ポタと落ちる感触がある。どうしよう。


「サイファス隊長が戻ってきたぞ!」


 馬車から弓矢の男の人が叫ぶ。よし、と目の前の男の人がごくりと喉を鳴らした。馬の蹄の音が後ろから近づいてくる。


「サイファス様! 魔物を捕らえました!」


 わたしに剣を向けたまま男の人が叫ぶ。

 黒い馬が私の後ろで脚を止めた。黒いローブを着た、背の高い人が馬から降りてわたしを見下ろす。

 その瞳は森から見上げる冬の夜空の色をしていた。


「違う」


 フードを外すと黒い髪の毛がサラリと揺れた。若い男の人だった。

 そのままローブを脱ぐと、わたしの背中にふわりと落とした。


「魔物の匂いがしない」


「なっ、そんなはずは! 若い女が裸でコウモリと走ってたんですよ!? 魔物以外になんだっていうんですか!」


 剣の人が抗議する。


「魔物でないのだから人間だろう」


 わたしから目を離さずに、男の人が答える。

 どちらも間違ってるけど、この人は信じてくれるんだ――瞬間、男の人の背後がキラッと光った。


 ――だめ!


 わたしは地面を蹴って、男の人に飛び掛かる。わずかに揺らいだ首筋すれすれを白い翼が滑空して通り過ぎた。

 暖かい飛沫が私の頬に飛ぶ。

 

 ――だめ!ホウ!


「てめえら、お嬢を傷つけやがったな!」


 ホウがかぎ爪を剥き出したまま素早く旋回し、爛々とした目で今度は剣を構えた男の人の頭の上を滑り抜ける。男の人は悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。


 ——やめて! わたしは大丈夫だから!


 ドゴ、と今度はお腹に響くほどの大きな音が鳴る。


「ひいっ! 隊長! 熊が!」


 弓矢の男の人が、箱から転がるように逃げ出した。後ろにメイちゃんがいた。前脚を振り回して箱をひっくり返す。


 ホウに肩を傷つけられた男の人は口を引き結ぶと腰を落として剣に手をかけた。


「お嬢! 逃げな!」


 唸り声でメイちゃんが叫ぶ。

 私はローブを身体に巻きつけたまま駆け出した。私がこの場にいたら、ホウもメイちゃんもこの人たちを攻撃するのを止めないだろう。


「おい、待て!」


 走りながら振り返ると、背の高い人が馬に跨ろうとしている。


 ――来ないで!


 念じると、馬が前脚を上げて身を捩る。

 森の外の動物とは会話ができないけど、気持ちは通じるみたい。

 その向こうでホウとメイちゃんが森へ駆け戻る姿が見えてホッとした。


 私は走った。背後で男の人たちが騒いでいたけれど、もう振り返らなかった。

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