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神の男

作者: FUJIHIROSHI

 キャバクラ【レインスター】で、俺はその豪華なソファに深々と身を沈め、おしぼりで顔を拭った。

 鼓動が高鳴る——。

 隣に座るキャバ嬢は『ゆき』と言ったか。挨拶の時に笑顔で名刺を出す彼女のその仕草は楚々(そそ)として、とても魅力的だった。

 が、この女が胸の高鳴りの原因ではない。

 それは、ついに研究が成就じょうじゅしたからだ。

 念願であった[悪人を殺すワロナウイルス]。

 およそ八十パーセントの確率で感染し、二十四時間の潜伏期間を経て発症する。

 その症状は胸の辺りに赤い斑点が現れ、七十二時間で死に至る。善良な人間ならば無症状のままだが、ウイルスは拡散されつづけて、邪悪な人間は発症する。

 俺の、悪人だけをこの世界から消したいという願いが生み出した『神のウイルス』だ。


 人類の粛清しゅくせい。俺を『神』へと押し上げるウイルス——。


神楽俊一かぐらしゅんいち』俺が差し出した名刺を見て彼女は目を丸くしている。

「わ、大学院医学研究院ウイルス学准教授、すごいです。准教授でしたら教壇に立ち、その上、自らの研究も続けるから大変お忙しいんですよね」

「まあ、あらためて学び直すことが多いのでね。そんなことよりも、今の研究が上手くいけばもっと『すごい』ことになるだろうがね。そいつがひと段落ついたんで、あとは実験と検証のみ。今日はそのお祝いに来たんだ」

「そうなんですね! それじゃあ私もお祝いします! 今日はゆっくりしていってください」

 彼女がビシッと手をあげ、笑顔で言った。


 どうせそれ、作り笑顔だろ。キャバ嬢なんてみんな同じだ。俺は信用したりしない。

 

 残されているのは実験と検証のみ。俺は横目で彼女を見た——。


 ——お前には、その『マウス』になってもらう。




 零時十分。約束の時間まであと十分か。

 あれから数日間店に通い、ゆきとアフターの約束を取り付けることが出来た俺は、待ち合わせの居酒屋の前でまるで遊園地へ向かう子供のように胸を躍らせていた。

 その胸に手を当てる。懐にはウイルスに感染させたマウスをすり潰し、粉末状にして入れたカプセルを忍ばせていた。

 視線を上げると、この腐った街を無数のネオンがきらびやかに彩っている。


 ふふ、本当に遊園地にいるようだな——ようやく実験開始だ。


 さて、何が善で何が悪なのか……それは人それぞれだし、人種によっても違うだろうが、このウイルスはどう反応するのだろうか。

 このウイルスによって、どれだけの人間が死に、生き延びるのだろうか。


 一歩、二歩と歩を進め、両手を広げた俺にネオンのシャワーが降り注ぐ。


「俺はこのウイルスを使い、神になる」



 感染させる方法は至って簡単だ。ポリオウイルスと同様に、こいつは胃酸に耐え、腸管から感染する。だから彼女の飲み物にこのカプセルを入れるだけ。

 そのはずだったのだが、居酒屋に入って小一時間、そのチャンスは訪れない。

 彼女がトイレに席を立つこともなかった。俺はすでに二度も行っているというのに。

 ただこの間、彼女と話をしていて退屈ではなかったな。教養もあり、話もよく合わせてくる。キャバクラでの彼女とはまた違う……いや、そうじゃない、焦る——。もう時間がない。

 俺が三度みたび腰を上げた時、ほぼ同時に彼女も腰を上げた。俺はすぐに腰を下ろし、お先にどうぞと促す。

 彼女は赤くほてった頬に手を当てて「すぅいません、それでは」と言って立ったままジョッキを持つと、ぐいっと飲み、足早に席を離れた。

 いやいや、本当に店での彼女とはえらい違いだな。それよりも、酒を飲み干されずに済んでよかった。ジョッキにはまだ一口、二口は残っている。俺は彼女の姿が見えなくなるのを確認し、実行した。


 カプセルは溶け、粉末も確認できなくなった。味は……どうだろうな。

「お待たせしましたぁ、どうぞ!」

「あ、ああ」突然背後から彼女は言った。だいぶ酔ってるんじゃないか。

 トイレには今すぐに駆け込みたい。だから早く、酒を飲め。

「そろそろ時間になっちゃいますよねぇ」席につくなり、彼女はジョッキを持ち口元へ運んだ。

 俺はそれを確認してすぐに席を立った。


「おかえりなさぁい」

 戻ると、彼女のジョッキは新しくなっていた……どれだけ飲むんだよ、この女は。

 俺は残りの酒を飲み干すと、すぐにお開きとした。


「ごちそうさまでしたぁ。今日は本当に、たの、楽しかったです」

「そうかい? アフターに誘った時、躊躇ちゅうちょしていたようだけど」

「それは……テクニックですよぅ。あんまり軽いのも良くないんですよぅ」

「なるほど。ま、こちらも楽しかった。まさか、ゆきさんがバケ学に明るいとはね」

「学生の頃にちょっとちょっと。全然大したことはないんですよぅ」


 こんなやりとりの後、タクシー代にと金を渡そうとしたが、彼女は受け取ろうとはしなかった。最終的に彼女が折れ、受け取りはしたがたいした演技力だよ。酔っているのも演技じゃないだろうな?

「ありがとうございますぅ。神楽さんの、ご自宅は?」

 ここからでも見える、と空に突き出したタワーマンションを指差した。

「すごぉい。やっぱりレベルが違いますねぇ」

「じゃあ俺は酔い覚ましに歩いて帰るよ」

「え? 神楽さん、お強いんですねぇ。全然酔ってないですか? 足元、大丈夫ですかぁ?」

「問題ない、歩きたい気分なんだ」

 自分の心配をしろ。俺は軽く手を上げ、彼女と別れた。


 だいぶ骨は折れたが、感染させることは出来た。

 あとは待つだけだ。足取りが軽い——。




 キャバクラ【レインスター】

「いらっしゃいませ、神楽さん。ご指名ありがとうございます。昨日はごちそうさまでした。あと……」続けてゆきは小声で「お恥ずかしいところをお見せしました」と頬を赤らめた。

 俺は検証するために、再び来店していた。発症までおよそ三時間。実際は発症する時間が数時間前後する可能性もあったので、五時間も前から店のそばで待機していたんだが、何の騒ぎも起きなかった。

「今日はラストまでだったね」店の閉店までは約二時間か。

「はい」そう答えた目の前の彼女からは何の変化も見て取れなかった。俺は思わず具合はどうかと聞いてしまった。

「え?」彼女は一瞬驚き、視線を泳がせた。

「ああ、いや、昨日の今日で疲れが溜まっているんじゃないかと」

「ご心配いただきありがとうございます。でも私、体力だけは自信あるんですよ。神楽さんも遅くまでお仕事お疲れ様でした。ゆっくりしていって下さいね。さー今日は何を聞こうかな。そうだ、神楽さんの——」

「いや、君の話が聞きたいな。ゆきさんのプライベートな話。例えばホスト通いしているとか」

 彼女の話しをさえぎった。今は変化はなくとも、もう間も無くだろう。つまらない話をする必要はない。

 俺は聞き出したいんだよ、この女のくだらない毎日を。


 ——だが、それは俺の想像するものとは違っていた。


「え? プライベートな話ですか。ここで、ですか……あ、ホスト通いはしていませんよ!」

 そう強調して、彼女は続けた。

 両親がすでに他界していること。

 大学を辞めて高校生の弟と二人で暮らしていること。

 昼間も働いているので、ほとんどアフターや同伴はしていないこと。

「あ、さすがに今日の昼間はしっかり寝ていましたよ」


 何だ? こいつ、デタラメばかり言いやがって。

 キャバ嬢なんて、どいつもこいつも一緒だろうに。俺から金を巻き上げ、遊び狂い、ホストに貢いでいたあの女と。

 金の無くなった俺をののしり見限ったあの女たちと——。


 怒りのせいか? 体が震えていた。落ち着け……まあ、落ち着け。こんなところで本音を吐くわけがない。そんなことは関係なく『マウス』はキャバ嬢と決めていたんだ。

 初めからキャバ嬢と——。


 突然、視界がグラリと揺れた。


 どうした? 体が重い? めまいがする。

 初めての感覚だった……まさか?

 腕時計を見た。入店してまだ四十分弱、発症するにはまだ早い。それ以前に俺が感染しているわけがない。別の病気だ。ならば、何だ?

「どうかしました? 神楽さん、顔が青いですよ」

「ゆ、ゆきさん……君、具合はどうだ?」

 え? 私ですか? と、彼女は眉をしかめ、何ともないと答えた。覗き込んでくる彼女の顔がかすむ。全身が、小刻みに震えているのが分かる。


 まさか——俺が、感染、発症した?




 ゆきとのアフターの帰りに指刺した、あのタワーマンションの下に、停車させたタクシーから俺とゆきは降りた。

 高熱があると思われる。意識ははっきりしているが、全身が怠い。俺はふらつきながらも、彼女に支えられながらタワーマンションの向かいの、小さなアパートへと歩き出す。

「あ、神楽さん、違いますよ。家は逆です」

 当然、彼女は俺の意識が朦朧としているとでも思ったんだろう。だが、良いんだよ。

「こっちで良いんだ。嘘だったんだよ」

 そう言って俺は渾身の力を込めて彼女を突き離そうとしたが、片手が振りほどけた程度だった。もう思うように力が入らない。

 それでも、それで十分だったようだ。

 彼女はもう片方の腕をゆっくり離すと、タワーマンションとアパートを交互に見て……呆然としていた。


 笑いたければ笑え……アパートの玄関に入るなり、視界が闇に包まれた。




 ふと、目が覚めた。

 朝か。枕元の腕時計でそれを確認した。確か玄関で倒れたはず……布団に運んでくれたのはゆきか?

 ワイシャツの胸を開く。鎖骨の少し下に赤い斑点がギリギリ見える。

 熱はまだ高そうだが、身体の異変は無い…… 寛解かんかい状態だろうか。

 どう考えても俺は発症している。なぜ俺が? どこでミスをした? ゆきはどうしてる? 発症していないのか? 俺は、世界を平和にするために研究してきたんだぞ……。


 いくら推究しても堂々巡りだった。


 考えられるとすれば、あの日ゆきが感染して十二時間の潜伏期間を待たずに発症し、俺に感染した。だとすれば、まさかとは思うが空気感染が疑われるな……。



 ——結局ゆきが善人で、俺は悪人ということか。


 ……いつからだろう、俺がこんなふうになったのは。子供の頃は甘えん坊で、いつも母さんにべったりで、休日に出かけるのが楽しみだった。

 正しく、強くて優しい母。


 一体どうしたんだ? こんな昔のことを……。

 情けない。弱気になっているようだ……とにかく、この俺からウイルスは拡散されるはずだし、あの居酒屋のジョッキからも感染拡大の可能性はある。ただ、科学者としては結果を確認できないのは残念だがな。


 ああ、そうだ、科学に興味を持ったのも教師だった母さんの影響だったな。憧れだった。

 そんな母さんが死んでからか、俺が変わっていったのは……感謝の気持ちを伝えることもなかったかも知れない。ごめん。

 ありがとう。母さんの子に生まれて本当に幸せだった。

 死を目の前に、俺の心は母親への謝罪と感謝の気持ちであふれ——再び意識は途絶えた。




 ——神楽さん!

 え?

「神楽さん!!」

 目を覚ますと、目の前にゆきがいた。

「あ、れ? 何で?」

「神楽さんが心配で来ちゃいました。鍵は開いていましたけど、もしかしてあの夜から開けっぱなしなんですか?」

「いや、そんなことはどうでもいい。そうじゃない……」

 今、何日目だ? 腕時計を確認する。

「今、大変なことになってるんですよ。もしかしたら、神楽さんも感染してたんじゃないかと思って」

「え? 大変? 感染?」──しかも、四日も経っている。

 俺は慌ててテレビをつけるが、めまいと体の痛みでその場にへたり込んだ。

「駄目ですよ神楽さん、急に動いたら。あの日からだとしたら、四日間も倒れていたんですよ。もうすぐ救急車が来ますから」

 分かっている。80時間以上寝ていたことになる。何で俺は生きているんだ? 感染は、どれだけ拡大しているんだ?

「ゆきさん、君は、なんともないのか?」確認したが、彼女の体には何の異変も起きていないと言うことだった。

 テレビはどのチャンネルも緊急速報を流していた。


 突如現れた未知のウイルスで、三十二名が病院に運び込まれていた。当然この街の人間だと俺は思ったのだが、二十人近くは隣接する県の人間だった。

 たった四日で? 正確には三日とちょいじゃないか、早すぎる。悪人だらけなのも驚くが、ゆきのように発症していない人間も含めれば百人は余裕で超えているはず。

 やはり、空気感染しているのか?

 報道されている、この厚生病院はここから近い。

 救急車が来る、と彼女の静止もふりほどき、その病院に向かった。

 結局ゆきは折れ、俺を支えながらついてきた。


 タクシーに乗るなり「一体何が起きているんでしょう?」と疑問を口にした彼女に、俺はマスコミの伝える通りだと答え、続けた。

 四年前に猛威をふるったウイルスの変異か、または新たなものではないか、と。

 だが、次に彼女が口にした言葉に耳を疑った。

 あの日、神楽さんがお酒に入れたものが、関係しているんですか? と。

「……なんだって?」

 どうやら彼女はアフターや同伴では細心の注意を払っているらしい。俺がやったように薬を盛られて被害にあう同業者もいるからだ。

 トイレに行くフリをしてこっそりと確認していた。

 席を離れる間際にジョッキの中身を少しだけ残したのも、トイレに行こうとした俺とほぼ同時に腰を上げたのもその手の内で、たとえ薬が盛られても自分が席に戻った時に、酒を飲んだふりをすれば相手はすぐに席を離れる、その間にジョッキの中身を相手のジョッキに移すためだった。

 そして自分は新たにオーダーする。酔っていたのもフリだった……。

 ただ、それから帰るまでの間、俺になんら変化がなかったので、見間違いだと思っていたようだ。

 笑える。人類を粛清しようとウイルスばかり見ていた俺なんかよりも、様々な人間を見てきた彼女の方が、よっぽど賢かったわけだ。


 俺は、彼女に全てを打ち明けた。

 



 病院の入り口は報道関係者であふれかえっている。

 俺は躊躇せず、ただ中に駆け込んだ。

「ちょ、ちょっと神楽さん⁉︎」

 皆、突然現れた俺たちに困惑している。

 彼女に支えられながら、俺はカメラに向けて、

「みなさん、聞いてください——」


 ここに来るあいだ、俺は自分が生き延びた理由を考え、ある推論を立てた。

 このウイルスは単に、悪人に感染すると発症するのではなく、人間の持つ『悪意』に反応し、発症するのではないかと。ならば、その悪意をなくせば良い。

 母親に感謝をした自分のように、謝恩と謝意。助かるには、それが必要なんだ。

 数人の報道関係者が二人を排除しようとするが、俺はワイシャツの胸を開き、赤い斑点をあらわにした。

 すでに感染者の胸にそれがあることが知られていたため、皆、蜘蛛の子を散らすように俺たちから距離を取った。

 中継はされているはずだ——無人となったカメラに向け、俺は自分が生き延びた理由、その推論を告げた。


 赤い斑点も効果的だったのだろう。信じられないような話だが、藁にもすがる思いでいる感染者とその関係者たちは、俺の言うとおりに行動したのだろう、その日のうちに半数が回復し、次の日には収束した——。

 これにより、俺は時の人となった。



 しかしウイルスは消滅したのではないし、感染はすでに何千、何万人と拡大し『悪意』という引き金を引けばたちどころに発症するだろう。


 それから数日経ち、俺の『神楽』という名を知ってか、ネット上では字の如く『神降臨!』『平和の象徴』『悪意のない争いなどない』『まさに神』の文字が踊った。

 中には、『隣にいた女神は誰?』というものもあった。


 以降、神楽は神と呼ばれた。



 おしまい

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