時売りの魔女と社畜
「おに~さんっ。時間、百グラム六十八円でいかがですか?」
「特売のささみより安い」
終電を逃して途方に暮れ歩いていると、何やらやたらと顔が良くてやたらと怪しい女に声をかけられた。
ネオンに照らされた現代的な風景の中で浮きまくる、真っ黒なフード付きのローブ。自分が今ひどく疲れていることもあって、一瞬死神か? と勘違いしそうになった。
真夏になんて暑苦しい恰好してやがる……。
「あ、の。そういうのは、いいです……」
絞り出されたか細い声に情けなくなる。毅然と断ることも出来ないのか俺は。
これ、あれだろ? いかがわしい店のお誘いだろ? それにしては衣装に露出も華やかさも足りない気はするけど、コスプレのようだし。
(でもなんで時間をグラムで売りつけようとしているんだ……?)
秒とか分ではないのだろうか。
何分何円! と言われたらすぐに断れたのだが、妙な言い回しについ意識がもっていかれてしまった。
けど単位が何だろうが、俺には他人の時間を買って自分の時間を消費する暇も余裕もない。
「あ、お兄さんもしかして、えっちなお誘いだと思った? ぶっぶー! ちがいまーす! 私は正真正銘、時間を売ってる魔女さんでーす!」
「そうですか。さようなら」
とりあえずヤバい人には変わりなさそうだ。すり減った心と鈍くなった脳では流されかねないし、さっさと立ち去ろう。
そう思い踵を返した俺だったが、思いのほか強い力で腕を掴まれて肩が跳ねる。
「ちょちょちょ! 待ってってば」
「うわぁ!? は、離してください!」
いくら美人とはいえ、初対面の人間に体を触られる嫌悪感に体が震える。まず返事を返してしまった時点で失敗だったのだろうか。
しかし青ざめる俺を見て女性は何を思ったのか、腕を離して頭をさげた。
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」
「は、はあ」
だったらまず声をかけないでほしい。
そう考えるものの、綺麗な礼でされた謝罪に困惑で体が硬直する。……最近自分が謝ることはあっても、逆なんてなかったから。
「う~ん。なんだかあなた、重症ね。ますますこれをお勧めしたくなったわ」
挙動不審に視線を彷徨わせる俺を前に、女性はそう言って一つの小瓶を取り出した。
手のひらに収まる小瓶の中には、星型を思わせる色とりどりの物体。金平糖……だろうか。
これが"時間"だとでも? ずいぶんな子供騙しだ。
「特別サービス。百グラム、初回はタダであげちゃう」
「あ、そっちの人でしたか……。すみません、本当に勘弁してください」
「怪しい薬とかじゃないわよ!」
そう言われたって怪しさの塊だろう。
もしこれに時間が伸びたように感じる効果があったとしても、実質ただの無駄な消費だ。どんな副作用があるのかも分からない。
(ああ、でも。それでもいいか……)
拒否する一方でふとそんな考えがよぎる。
このままずっと苦しいなら、いっそ線路の中に飛び込んだ方が楽じゃないか? そんな考えを最近よく抱くのだ。人に迷惑をかけるからという理性でぎりぎり保っているだけで、きっかけさえあれば容易く溢れてしまうナニカ。
その中に今、小瓶がひとつ投げ込まれた。
「……もらいます」
「あ、本当? よかったー! まあ、試してみてよ。それを口にすれば百グラムで一時間、あなたの時間が増えるわ」
「それは……素敵ですね」
「でしょ~? まだあるから、欲しくなったら今度は買いに来てね。無料であげてもいいんだけど、タダより高いものはないっていうし」
ああ、これは次回ぼられるやつだろうな。けどきっと、次なんてない。
これがどんなものでも、何か特別なきっかけがあったと思い込めるだけでいい。そうすれば俺は誰にも迷惑をかけない方法で……。
俺は手を振る女性に頭を下げて、小瓶を手にその場を後にした。
「嘘だろ……」
翌日、午前五時に俺が発した台詞である。
正確には"二度目"の午前五時だ。
昨日は運よく日付変更前に自宅へ帰りつき、食事も風呂も無しにベッドへ倒れ込んだ。そして気絶するように眠り、アラームにたたき起こされた朝の五時。
霞む頭で握っていた小瓶を見た俺は、何も考えず中身を全て口に放り込んだ。
金平糖に見えたそれは、意外なことにラムネのごとくしゅわっと溶けてしまった。爽やかな甘酸っぱさが口の中へ広がる。
最期にもう少し眠りたいと、そのまま出社時間など知るものか……と目を瞑ってからおよそ体感一時間。
熟睡して幾分か体の軽くなった俺を迎えたのは、再び目にする同日の朝五時という表示だった。
さすがに気のせいだと思いつつ、気づけば俺は女性……自称魔女のもとへ通うようになっていた。
繰り返すうちに、魔女が売る時間は本物だと思い知る。
魔女は本当にグラム六十八円で"時間"を売ってくれる。
どういう理屈か分からないが、それを口にすると自分で使える時間が増えるのだ。
ただ原理や理屈なんてすぐにどうでもよくなった。
いつもより多く眠れる。
食事を味わって食べられる。
疎遠になっていた家族や知人に連絡を取る余裕ができる。
積み上げていた本を読むこともできる。
その幸福がグラム六十八円で。
相手は魔女を名乗っているが、おそらくこれは悪魔の契約だ。きっと今使える時間が増えても寿命が減るとか、そういうやつ。
でも、それでいい。だって現状を続けたとして、いったい何歳まで生きられる? むしろ少し前まで自分で終わらせようとすらしていた。
そんな不確定な寿命なら今使いたい。安心できる時間が欲しい。
だからきっと、これは幸運なことだ。
俺は今日も魔女の元へ通う。
その意味に段々別のものが混ざり始めるまで……あまり時間はかからなかった。
「おかげで久しぶりによく眠れたよ」
「本当? よかったぁ」
彼女が俺の言葉を聞いてあんまりにも嬉しそうに笑うから、しばらく見惚れてしまったのが数か月前。
「今度、どこかへ遊びに行かない?」
「え」
精一杯の勇気を振り絞ってデートに誘ったのが数分前。
彼女から買った時間で段々と余裕を取り戻していった俺は会社を辞めた。
本当はもっと早くそうすべきだったのかもしれないが、おそらく彼女と出会う前の俺では気力も体力も足りず不可能だったと思う。
ドツボにはまって自分で道を塞いで、後戻りできない場所に進むところだった。
(だからこれは、お礼。別に下心とかは、ない……はず)
言い訳している時点で自分の気持ちは決まっていたようなものだけど、気恥ずかしさを誤魔化すにはそれが必要で。
「…………」
言葉を発しない彼女の口もとは大きなマスクで覆われている。目深にかぶったフードのせいもあって表情すら窺えない。
ここ最近ずっとそうだ。あれほど快活に喋っていた数か月前と違い、最近は殆ど口をきいてくれない。
俺は少し迷ってから、ひよっている場合じゃないと再度口を開いた。
「時間そのものじゃなくて。……あなたと過ごす時間が欲しい」
火照る顔を自覚しながら真剣な目を彼女に向ける。すると黒いローブに身を包んだ彼女のシルエットが揺れた。
「ふふっ。嬉しいわ。でも私の時間なら、もうずっとあげてましたよ~」
「え……」
数か月前とは似ても似つかないしわがれた声に、今度は俺が困惑した声をこぼす。
……なんで気づかなかった?
冬になる前、残暑が過ぎた頃からずっと手袋をしていたこと。
いつの間にか分厚いフードを取らなくなっていたこと。
たまに聞こえた声が掠れていたこと。
全部、全部が。今繋がった。
焦燥にかられたまま彼女の手を掴み手袋を引き抜く。その下にあったのはすべらかな肌ではなく、枯れ枝のようになった皺だらけの手。
それを見て震える俺の前で……彼女はフードとマスクを自ら取り去った。
「デートに誘った相手がこんなおばあちゃんで、がっかりしちゃいました?」
言葉の調子はそのままに。加齢によってしわがれた声で、彼女が少し困ったように笑った。
「この魔法コスパ悪くって。百グラム抽出するのに、私の一年分が必要。それでこんな姿」
「私、悪い魔女でねぇ。今までたくさん酷いことをしてきたの」
「でも最期くらい誰かのために、時間を使ってみたかった」
「そんな時、死にそうな顔して歩いてるあなたを見つけたわ。最初は偶然だったけど、あなたの嬉しそうな顔を見たらね。あなたでよかったなぁって思えたの」
穏やかに紡がれる言葉が脳みそを通過していく。理解したくない。
だがどうしたって突きつけられる。……俺がつまらないことに使っていた時間は、全部彼女がこれから生きるための時間だった。
「なんで、俺なんかに……」
「だ~か~ら。偶然よ、偶然。誰でも良かったの。最初はね」
悪戯っぽく笑う老女にそれ以上言葉が出てこない。
「でも、丁度良かった。知られたのが今日で」
ふいに唇がひび割れながらも柔らかいそれで塞がれる。口内に広がるのは、ラムネのような甘酸っぱさ。
「こんな姿じゃ、嫌がらせになってしまうかしら」
「そんなこと……」
「あら、優しいのね」
俺に口付けた瞬間から、彼女の体がさらさらと崩れ始めた。
「!?」
「さすがにね、使い切っちゃったのよ。今ので最後」
「……だったら使わないで、デートしてくれてもよかったのに」
「この姿で? 嫌よ。私にもプライドがあるの」
「でも」
言い募ろうとした俺の口を彼女の人差し指がふさぐ。
「ありがとう。私の自己満足につきあってくれて」
俺の口を塞いでいた指がざらりと崩れ落ちた。
「……そんな風に言わないでくれ。俺はあなたに救われた」
「あははっ。そうだったら嬉しいな。あれ。もしかして私って今、幸せ?」
軽やかに笑う魔女は老女にも、これから死にゆく人間にも見えなくて。……それを見ていたら、自分の態度があまりにも無様に思えた。
だから叫び出したい気持ちに蓋をして、不細工な笑顔を作る。
「俺、あなたが好きだったよ」
「私もあなたのこと、結構好きだったわ」
一陣の風が吹き、それは昨晩降り積もった粉のような雪をまき散らして彼女ごと連れ去っていく。
俺はほのかに残るラムネのような彼女の残滓を、舌の上で転がした。