目覚め2
明くるつとめて。眠りから覚めた蘭はググっと伸びをして身体の調子を確かめる。昨日よりだいぶ痛みが引いているのに満足げに頷いて川に顔を洗いに行った。
小袖の上に衣袴を着付け打掛を羽織る。少し考えてから羽織った打掛を取り腰巻にする。うん、これなら肩が動かしやすい。
髪に挿していた二本簪は腰に挿す。太刀緒に巻き付けていた薄桃色と紅紫色の結い紐を取り出し垂髪を束ねて高い位置で括り下げ髪にする。サラリと黒い髪が垂れる。〈暁〉を腰巻の内に佩く。
川に沿って上流に向かって歩いて往く。道すがら見つけた果実を取り食しながら進む。腰兵糧に入っていた糧食はすべて食べてしまったので都度調達しなくてはいけない。しゃくりしゃくりと齧る音を響かせながら歩みを進める。
…………。
……………………。
可笑しい。随分と進んだが人の気配が全くしない。紅ではなくても敵は大勢いた。敵兵は報告するために確実に息の根が止まっているのを確認するはずだ。蘭が生きていることから未だ見つかっていないことが予測される。何故ならば生かす必要がないからだ。崖から落ちたなら崖下を見に行く。そこに川があり死体が見つからなければ下流へと進み見つかるまで探す。
それに……と川を見遣る。上流に向かって歩いているが川の流れは一貫して穏やかだ。これでは水が滲み込んだ衣袴を着た蘭が流れるのは難しい。どういうことだと疑問が頭を占める。
時折休息を挟みつつ確実に歩みを進めた。
朝方から暮方まで歩いたが目当ての崖は見つからなかった。
夕間暮れになりその日の探索を打ち切った。焚火のための枝を集めていると少し先に兎を一匹見つけた。夕餉は肉だと目を輝かせた。意気揚々と兎のもとに向かい、然れど進みはゆっくり音を立てずに近寄る。兎は耳を立てて周囲を窺っている。如何に蘭の瞬発力が高いとしても相手は獣。野生の動物だ。獣の察知能力は侮れない。不用意に近寄ってはそれだけで逃走本能を刺激してしまう。
忍ばせていた暗器を手に取る。蘭が唯一扱っている暗器であるそれは、柄のない刃。特注で作られたそれは全方位に刃先が付いているために握ることができないもの。指ほどのサイズしかなく平地を指で挟むように持ち投擲する。持ち手がない分狙いを定めるのが困難で距離を飛ばすのにもそれ相応の技術がいる。それにより蘭以外が扱うことがなかった。
息を吐き、集中する。
音を出さないように構えを取り、だが殺気は抑える。
兎が彼方を向く。
兎の頭部目掛けて投擲する。
蘭の投擲はなかなかに精度が高い。
暗器が当たったと同時に飛び出し懐剣でとどめを刺す。
無事、仕留めた兎をみて蘭はホクホクと得意げに微笑む。両の耳を掴み後ろに振り返る。
「見て、にぃさま。うさぎをしとめ、た……よ…………」
喜々として発した言葉は、しかし尻窄みになっていった。
それは蘭の癖。嬉しかったこと、楽しいことは逐一紅へと報告していた。
笑顔だった蘭の表情はそのまま固まり次いで困惑と哀しみが混ざった表情を浮かべた。
弾んだ気持ちは一気に沈む。一度気分が上がった分、下がったときの感情の振り幅は大きい。溜息一つ吐いて蘭が先刻捨て置いた枝を拾いに戻る。
兎の喉の頸動脈を切って木に吊るし血抜きを施す。その間に焚火を燈す。血抜きを終えた兎を焚火の近くに置く。宵で灯りの頼りは焚火の燈火のみだが問題はない。兎に対して手を合わせ命を頂く感謝を心の中で唱える。
懐剣の切っ先を兎に当てて刃を滑らせていく。まずは胸から股間まで切開し内臓を取り出す。心臓の近くになにやら臓器とは違った硬いものがある。取り出してみるとそれはキラキラ輝いていた。
「なにこれ」
手元で弄り乍ら矯めつ眇めつ眺める。掌でグッと軽く握ると音を立てて砕けた。あっ、と声が零れた。解体中の兎の上でやっていたから破片が降りかかる。慌てて兎を動かしたらその破片は地に触れる前に消えて無くなった。なんだったんだろうと首を傾げて数瞬、元の作業に戻った。
内臓を取り出し終わったら首の部分から順に皮を剝いでいく。頭部を外し、残った肉を適当に切り分けて枝に刺していく。肉を刺した枝を焚火の近くに固定し焼いていく。
火に焙られた肉に肉汁が滴る。美味しそうな匂いが辺りに充満し蘭の嗅覚を刺激する。口の中に唾液が分泌される。ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込む。
「いただきます」
手を合わせ感謝を告げる。枝を手に取り熱々に焼けた肉に冷ますように息を吹きかけ歯を立てる。その顔に似合わぬ豪快さで噛み切り頬張る。目を閉じて味わいを楽しむ。
「……おいしい」
軽快にパクパクと食べ進めきれいにすべて平らげる。ほぅ、と息を吐いて再び手を合わせる。
「ごちそうさま」
食べ終わったら肉を刺すのに使った枝は焚火にくべる。血抜きの際に兎の血が滲みこんだ土を掘って穴をつくりその中に解体で出た頭や骨を入れる。少し迷ってから皮も穴に入れた。それから掘った土を戻して穴を埋める。その際は血が付着している土を下にする。汚れた手を川でしっかりと洗ってから焚火の始末をして眠りにつく。
来る日こそは紅を見つけると胸に誓って――。
☆ ★ ☆
明くる今日も昨日と同じように日もすがら歩みを進める。日盛りに川の源へと辿り着いた。その道中に崖は終ぞ見当たらなかった。勿論、人の気配も。水源を見詰め絶望に打ちひしがれた蘭は暫くの間呆然と立ち竦む。
蘭の脳内には何故、どうして、何処にの三言がぐるぐると反芻する。目の前が真っ暗になる。
意識が遠のきそうになったとき、不意にガサガサと音がした。その音にハッと現実に戻り音のする方に顔を向ける。紅かと期待したが、現れ出たのはそれとは一片も掠りもしない赤毛の大熊だった。
大熊の姿を視認した瞬間、蘭は深い深い溜息を吐いた。そしてガックリと頤が胸に着くほど項垂れた。期待外れの失望、紅がいなかった落胆や悲哀の色を隠さずに。
蘭が落胆した様子が伝わったのか大熊は蘭に鋭い眼光を飛ばす。蘭の倍以上あるその大きい図体を丸ませてから天に向かって強く咆哮を上げる。それは森の遠くまで木霊するほどの大きさで。鳥たちは逃げるように一斉に羽音を立てながら飛び立つ。被食者とされる小動物たちも遠くに逃げ、または木の陰に隠れ、その身を丸め見つからないように小さな身体をさらに縮こませる。
そんな大熊の放った轟音に、それでも項垂れた頭を上げることはなかった。
「……にぃさまぁ……」
蘭と大熊の間には見えない壁があるのか、大熊の言動に全く意に介さず己の世界に浸る。哀しき声を喉から絞り出し、その眼からは今にも溢れ出そうなほどに透明な膜を張っている。その様子は他人が思わず共感してして泪を流してしまうほどに悲愴感が漂って、誰かがすぐにでも手拭いを持ち声を掛け寄ってくるような庇護欲を掻き立てる奥ゆかしさがある。
だが、今その場にいるのは熊だ。人の心などてんで、かつふつも、露聊かも持ち得ない大熊だ。ともすれば眼中にないとばかりに無視され続けて怒りが沸々と溜まっている。
遂には蘭はその場に蹲ってしまった。両の手で頭を抱えて。にぃさま、にぃさま……と何度もそれだけを繰り返し呟きながら。
大熊も我慢の限界を迎え激昂する。地団駄を踏み地響きを轟かせる。地を這いその巨体には想像もつかぬほどに速く、蘭へと逼る。唸り、地を強く踏みしめ足跡を残しながら。
「――……うるさい」
地を這うような低く、凍るように冷たく発せられたその声は、然れど大熊の足音によって掻き消えて。
逼りくる熊に対して焦りも緊迫した様子もない。
ふらりと左右に揺れ乍ら立ち上がる。
ごく自然な滑らかに流れるような動作で構える。
漸く大熊を見据えたその眼には何の感情も伴わず。
熊が蘭に向かって飛び掛かる。
蘭の目の前に熊の手が、爪が逼る。
あと少しで触れる、目と鼻の先で――
熊の視界から蘭が消える。
「単調」
小さい呟きとともにカチンッと鍔が鯉口に当たる音が静かな森に響く。
蘭の背後からドサッと重い音とトサッと軽い音の二つの音が奏でられた。
それには気にもせず蘭は驚きに目を瞠り、己の手を見詰める。
「身体が……かるい……?」
確かに蘭は瞬発力がある。女は男に比べて絶対的な力の差がある。それはたとえ蘭がどれほどに己を鍛え上げようとも決して覆らない。それならばと蘭が鍛えたのは瞬発力だ。力で勝てぬのならば速さで優れ。鍔競り合いになる前に敵を討つ。
然れど、ここまでの力は、速さはなかった。蘭はその場で軽く動いてみたが良く分らなかったので思考を放棄した。
振り向き頭部と胴体が斬り離された大熊を見詰める。
「ゆうけ……こんなにいっぱい。
――――…………兄さまに、あいたい。
どこに、いるの……?」
夕月夜を見上げて独り言ちる。