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目覚め1

 水が流れる音、葉の揺れる音、鳥の鳴く声。

 温かい日差し、足元が冷たい、顔を伝る水の感触。



 徐々に意識が浮上していく。微睡みの中、鳥の羽ばたく音に脳が一気に覚醒する。


「にぃさまっ! …………っぅ」


 飛び起きようとするも全身に激痛が奔る。浮かした頭が再び沈む。耐えきれず呻き声が上がった。鈍い痛みにより少し落ち着きを取り戻した蘭は現状の把握を最優先とした。


「――ここは……?」


 重く圧し掛かるような痛みに喉から呻きが漏れ出し乍らも体に鞭打って体勢を仰向けに変え、首だけを動かし最小限の動きで周囲を見渡す。あのまま川の下流まで流れ着いたのか、川岸に打ち上げられていた。お日様を見るに時刻はおおむね昼前。少なくともあれから一夜は明けているのは明白だ。


 息を吸う度に身体が軋むようだ。努めて浅く細い呼吸で肺も腹筋も動かさないようにする。頭がズキンズキンと絶えない猛烈な痛みに顔を顰める。水を滲みこんだのか身体に纏わりつく衣袴が重い。きつめに締めた腰が痛みに苛まれる身体をさらに締め付ける。



 蒼穹を見上げ耳を澄ませる。地に頭部を預けたとき、後頭部に痛みが奔り顔を顰める。簪が地面と頭に挟まれたのだろう。抜き取ろうと腕を上げようとするも鋭い痛みに諦める。一息吐いて頭を地面に擦りつけて簪の位置をずらす。



 サラサラと穏やかに流れる川の音。

 サワサワと風に揺られる葉擦れ音。

 カサカサと草本を揺らし動く軽い音。

 チッチと鳴く鳥の音。

 ポタポタと水溜まりに水が落ちる音。



 人の気配は……ない。少し離れたところに小動物らしき体重の軽い生物特有の軽やかな音。鳥が逃げない様子から危険性はないと予想。現状生命の危機はないこと覚って身体の力を完全に抜く。


 思考が何一つまとまることがない頭で流れゆく雲を眺める。暫くは動けないだろうからこのままの体勢で身体を休ませる。紅の様子が気になるが動けぬ身体ではなにもできない。紅に会いたいと気が急く心、それとは反対に体は休息を求めている。




 お日様が中天に昇ったころ、蘭の腹の虫がくきゅぅると鳴った。


「おなか……空いた……」


 任務前の朝餉からなにも腹に入れていない。その後もぐうぐうと腹を鳴らして尚中空を見遣る。

 さんさんと麗らかで暖かな陽光の日差しを浴びる。自然の音しか聴こえぬ長閑な風景に身を漂わせる。



 なにを考えることもなく目の前の穏やかに流れる風景を眺める。不動のまま刻々と時間が過ぎていく。目が覚めてから三刻ほど経っただろうか。空はほんのり赤くなり、暮れ合ふころにようやく全身の痛みが引いてきた。


「――っ……ゥ、…………ふぅ」


 ゆっくりと起き上がると体を解すように動かす。手を握っては開き、足首を回したり膝を曲げたり。首を回して腰を捻る。まだまだ節々が悲鳴を上げているが目覚めた刻よりは幾分マシとなった。痛みはあるが動けぬほどではない。ならば行動に移しても問題はない。



 近くの川を覘くと己の顔が水面に反射して映る。侍女衆に施された化粧は当然ながら落ちていた。丁寧に纏め上げられた髪は先刻のこともあり見るも無惨な有り様になっていた。

 侍女衆に着飾られた装いを紅に見せたときの情景が思い浮かぶ。好く似合っていると、とても可愛いと、結われた髪を崩さぬように慎重に、然れど優しく撫でられた頭の感覚が蘇る。側にいない紅に思いを馳せるも淋しい気持ちが心に広がる。

 それと同時に、この恰好をもし侍女衆に見咎められたらと考えると背筋が震え冷たい汗が背を伝う。


 頭に過る怒号に慌てて頭を振って情景を打ち消す。再び川面を見るとポタポタと水が滴る。波紋を広げる水面が夕景に雑じって判りづらいが赤みを帯びている。不思議に思った蘭は手を頭上に当てるとぬるりと滑った感触がした。その手を目の前に持っていくとあかが付着している手が見える。


 なるほど、と蘭は納得した。どうやら岩か何かに頭部をぶつけたらしい。道理であれほど頭が痛むわけだ。


 ひとまず川の水で顔を清める。冷たい水で流したことで幾分か頭の中がスッキリした。手拭いで水を拭き取りあかが付いたそれを川で洗う。



 辺りを見渡すと川の上流の方に森が広がっている。反対側は平野が続く。川に沿って進んでいけば忌々しいあの崖の位置まで辿り着けるかもしれない。そこから紅を探す。


 さぁ往こうと歩き出すも空は宵の口を迎えていた。体を休めるのに時間がかかり過ぎたのだ。森に入れば視界はさらに薄暗くなる。多少なら夜目が利くがそれでも暗ければ見つかるものも見つからない。歯痒い気持ちになり乍らも効率を考えたならば一夜明けてから進むのが吉だ。


 ふむ、と頤に手を当て思案する。一つ頷くと森に向かって歩き出す。道すがら枝を拾い乍ら森の少し入ったところで身を屈める。少し開けた場所、その中心の草本や落ち葉を取り除き場を整える。拾った枝や葉を組んで素早く焚火を燈す。ここなら森の外からは見えないだろう。



 火が安定したのを確認してから打掛や衣袴を脱ぐ。やはり重い。適当な――布の重さに耐えれるほどにしっかりした――枝に引っ掛けて干す。小袖姿になった蘭は己の体を見下ろし、川に向かって歩く。一度周囲の見渡しそのままの姿で川に入水する。川の水深は蘭の太股までしかなく流れは緩やか。空はすでに小夜になっていて冷える。


 腰を下ろすと胸下までが水に浸かる。全身を水に浸けるように仰向けになる。汚れを落とすように肌を擦る。ポタッ、ポチャンと髪から頤から水が滴り落ちる。濡れた小袖や垂髪が身体に張り付く。風が吹き抜け濡れた身体の温度を奪う。こんなもんかなと川から上がって獣のように身震いしてから小袖を絞る。ギュッと絞った小袖から吸った水が出る。



 焚火まで戻り冷えた身体を温める。腰兵糧から兵糧丸を取り出し食べる。袋の中まで水が浸透したのか兵糧丸がべちゃりとしている。これではあまり保たないかなと思い、腰兵糧の中身をすべて食す。


 質素な食事に慣れているが今日は普段よりずっと味気ない。朝な夕なの食事は決して豪勢ではなかったが楽しく美味しかったと記憶している。なんで……と頭を傾げるとすぐに思い至る。紅がいない。今まではずっと、紅がいた。だから、どんな食事であっても美味しく感じたし楽しかった。


「にぃさま…………」


 哀しい、淋しい、虚しい。心にポッカリと穴が開いたみたいだ。塞ぐようにそっと胸に手を当て押さえる。


 勿論、古往今来日がな一日片時も側を離れずに居たわけではない。蘭がまだ幼い時分は紅のみが戦場に赴いていたし任務によっては別行動のときもあった。拾ってくださったお館様は紅と蘭のことを考慮して極力一緒に就ける任務を云い渡していた。仮に離れたとて数刻のみで、今のように一昼夜離れたことは一度たりともなかった。



 パチパチと火の粉が爆ぜる。ゆらゆらと揺れる炎が蘭の顔を赤々と染める。炎が揺れる度に顔の陰翳も形を変える。蘭の黒い瞳には目の前のメラメラと燃える火が映されているも、そのまなざしには炎のような熱さはない。暗く、澱んだ、冷たく、生気のない眼をしていた。



 蘭にとって紅が世界のすべてだった。

 生まれたときから蘭の側にはいつも紅がいた。

 紅がいたから今まで生き永らえた。

 蘭は紅に己のすべてを捧げた。




「…………にぃさま」



 呟いた声は喉から絞り出したように小さく震えていた。恰好も相まってとても弱弱しい印象を抱かせる。深く息を吐いて立ち上がる。焚火の始末をして干してある衣袴を掴み取る。包むように羽織って近くの木の根元に腰を下ろす。愛刀の太刀〈暁〉をしっかり抱き締めて眠りにつく。






 月光照らす真夜。

 静まり返った森の上空に天満月。

 眠る蘭の目尻から零れた一筋の光が暗い森の中に煌めいた。

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