手掛かり4
昼前にエイマールに着いた蘭はすぐさま冒険者ギルドへと向かった。ミューティスから紅がいると分かってから数日が経過している。いると分かっているのになかなか逢えないこの状況に、それまでより一層蘭の心は蝕み憔悴しきっていった。
ギルドに入った蘭に気付いたギルド員の一人が彼女に話し掛ける。
「あれ? ベニさん、もう戻って来たんですか?」
「にぃさまっ! にぃさまはここにいないのか」
「あっ! あなたが妹さんですか。ベニさんは今フィリーネピュスさんと一緒に山に行っていますよ。今日中には戻ると言っていましたので、ギルドで待ちますか?」
「どこ」
「エイマールから東の方にある山ですよ。でも行っては駄目ですよ。そこは「感謝する」冒険者ランクが…………って、行っちゃった」
聴きたいことは聴けれたので用済みだとばかりにギルドを出る。
「――あれ? ……ってランさん!? どこに…………相変わらず足速いな」
ロジェームたちとは入れ違いになった。
「ねえ、ちょっといい。ランさんにどこの場所を示した?」
「ロジェームさん!? 先程の方でしたら東の山と……」
「あそこか~。うん、わかった。ありがとう」
蘭を追うようにギルドを出てった男たちにギルド員は首を傾げる。
「なにか……やらかしちゃいました?」
蘭を追って街を奔るロジェームに翔は問う。
「なあ、その東の山ってなんかあるの?」
「あそこは年中雪に覆われているし強い魔物が出現する危険な場所なんだ。基本Bランク以上の冒険者もしくはパーティーしか立ち入れない危険区域に指定されている」
「おっかねえ場所じゃねえか」
「そうだよ。だから引き返すなら今の内だけど」
「そんな水臭えこと言うんじゃねえよ。俺たちのパーティーランクはBランクだし、今更見過ごせねえよ。なあ二人とも」
「もちろんだ」
「ここまで来たんですから最後まで付き合いますよ」
「へえ……いいパーティーだな」
門へと着いた。山の手前には専用の入り口が設置されており、そこにはギルドの門兵がいる。彼らは実力不足の者が入り込まないように監視を担っている。それらが慌てている様子から察するに蘭は強引に通ったことは想像するに容易い。
「ここに黒髪の少女が通っただろう? すぐに連れ帰るから通してくれ」
「失礼ですがギルドカードを…………! ロジェームさんでしたか。どうぞ通ってください。黒髪の子はどこか焦った様子でしたので何事もなければいいのですが……。今日は風が強いのでこちらのコートを支給します。気を付けてください」
「ありがとな。見つけたらすぐに戻るわ」
☆ ★ ☆
「にぃさまー! にぃさまー!」
蘭は奔る。大声で紅を呼びながら。
「にぃさっ……けほ、ごほ」
ビュウビュウと強風が吹き荒れる。積もった雪が風に煽られて中空に舞い散る。吐く息は白く、吸った息は肺を凍らせる。冷たい風が吹きどんどんと体温が低下していく。声を上げても風によって掻き消される。それでも蘭は叫ぶことを止めない。足を止めない。探すことを諦めない。
「にぃさま! 返事をしてください! にぃさまっ! ――――…………邪魔だ!」
蘭の声に反応したのか魔物が往く手を阻む。止まることなく斬りつけ奔り抜ける。その剣筋は荒々しく洗練さの欠片もなかった。その姿まさしく獣の如く。技巧も技術もなにもないそれは、力任せの暴力のようであった。
グラリと視界が歪み霞む。酸欠だ。倒れそうになる身体に鞭を打って無理やり動かす。連日休むことなく動いていたために体力は十全に回復していなかった。今の蘭はもはや気力のみで動いているようなものだった。悴む手足は徐々に感覚を失っていく。震える手が太刀を落としそうになる。
「にぃ……っ……ぅ」
視界は白く染まりもう碌に前が見えていない状態で突如身体に衝撃を受けた。微かに見える風景がグルッと回る。受け身も取れずに勢いそのままに地面に転がる。ぼやける頭で弾き飛ばされたのだと理解した。
身体が止まったことで少し理性を取り戻した。だがその時分ではもう後戻りできないところまできていた。ああ、不味いな……と呟いた声は果たして音になっていただろうか。
『蘭、冷静さを欠いては駄目だよ。熱くなることはいいけれど考えることを止めてはいけない。感情に飲み込まれては視界を狭め、思考を鈍らせる。そういうときこそ落ち着いて周囲を注意深く見るんだ。私たちの目的は敵を倒すことではない。生きることだ。それを間違えてはいけないよ。いいね、蘭』
「ごめん……ごめんなさい、にぃさま」
云われていたのに、気を付けていたのに、やってしまった。それほどまでに蘭には余裕がなかった。紅がいないのが想像以上に堪えた。身体の痛みより心の痛みの方が遥かに大きかった。ずっと、ずっと、苦しい。あの時から一時も痛まない刻はなかった。ぎゅっと直接握られたように痛む心臓は苦しくて藻搔きようもなく抗えない。
風の音が二重に聴こえる。自然の風の合間に風切り音が耳に入る。横たわったまま目線だけで上を向けば大きな鳥がいた。高らかに咆哮を上げ、蘭を見ている。鋭い嘴がパカリと開く。危機を察知した蘭の身体が震え頭の中に警鐘が鳴り響く。
あれは、危ない。途轍もなく嫌な予感がする。
そうは思っても身体がいうことをきかない。荒い呼吸音が蘭の焦る気持ちをさらに助長する。
「うぅ……はッ…………ぃっ」
転がる。転がる。せめて距離をと離れる。こんなことをしても無駄だとわかっている。それでも――
大きな鳥はその身に溜め込んだ空気を放った。それは圧縮した空気の塊となって蘭へと一直線に逼る。転がった蘭はなんとか直撃は免れたが衝撃波によって再び中空に吹き飛ばされた。
「うぐッ…………ガァ……ッハァ」
息が詰まる。身体中が痛くて意識が朦朧とする。白い視界が赤に染まる。ドスンドスンと大きい足音と地響き、そして雄叫び。魔物がきた。けれど、黒く狭まる視界ではもう何も見えない。
もう、駄目だ。
死ぬのだろうか。
紅に逢わずに?
幸せにならずに?
嫌だ。
それは、嫌だ。
紅に逢いたい。
声が聴きたい。
体温を感じたい。
ねえ、どこにいるの
ねえ、なにしているの
ごめんなんてあやまらないで
あいしているのなら、どうしてそばにいてくれないの
かなしい、さびしい、くるしい、さむい、つらい、くらい、こわい、いたい
ずっとね、くらいの。のみこまれてしずんでなにもみえないよ
あいたい
逢いたいよ
「――にぃさま」
温かい風が吹き通る。
「蘭」
優しい声が耳朶に響く。
「蘭」
重たい瞼を上げれば、忘れたことはない、面影を見ないときはなかった、ずっと心待ちにしていた姿があった。仄見える視界が鮮明になる。
風に吹かれて靡く艶やかな黒髪。目尻が下がった柔らかくて優しい眼差し。緩く弧を描いた口がまた蘭、と名を紡ぐ。打刀を握る手は大きくて剣だこで硬くなっているけれど優しい手付きで触れて温かいことを知っている。きよらかで美しい、蘭の心を寄せる人。
暗闇に射す一筋の光、白黒だった世界に色鮮やかにした眩く輝く天満月のよう。釘付けになる視線を逸らすことはできない。眩しさに目を細めれば笑って手を差し伸べてくれる。震える手を伸ばせばしっかり握って引っ張ってくれる。ぎゅっと抱き締められて冷え切った身体に熱を与えてくれる。全身の力が抜けて凭れ掛かればさらに強く抱き締めてくれる。
「蘭」
頭上から降り注ぐ優しい声に釣られて上を向けば額に温かな熱を送られる。コツンと額合わせになれば眼前の蕩けるように優しい瞳に魅入られる。腰を寄せられて頬に手を添えられる。隙間なく合わさって全身で紅を感じる。
蘭の、たった一人の、愛しい、大切な、蘭だけの――
「――にぃ、さま」
「うん」
「っ、にぃさま」
「うん」
「ぁぃ、あいた、かった」
「私も、逢いたかったよ……蘭」
昏く暗鬱だった目の奥から小さな光が浮かんでいく。それは闇夜に月が浮かび月光に照らされた星々が煌めきだしたかのように。潤んでキラキラと輝き光が灯った瞳は紅の好きな蘭の眼だった。漸く戻った蘭の瞳はとてもとても美しかった。