七
明朝、祝融は麾下である玄豪雷と共に城の広場にいた。
豪雷は龍人族である玄家の一人だった。龍人族は皇帝の命でも無い限り、人を背に乗せることは余り無い。何より、人に仕えることが殆ど無い。豪雷は、祝融の為人に好感を持ち、自ら彼に下ることを決めた。
勿論、玄家からは反対されたが従わなかった。二度と戻るなと親に言われたが、彼にはどうでも良いことだった。
豪雷は祝融と距離を取ると、その身を龍へと転じさせた。頭には角が生え、尾が現れ、爪は鋭くなり、黒い衣は鱗へと変わっていった。
祝融が黒龍の背に乗ると身体が浮き上がり、空へと飛び立った。
豪雷の向かった先はイルドだった。
蚩尤に志鳥を送ったが、二日経っても返事が無い。何かあったのかも知れないとも思ったが、暫く会っていないのも有り、久方ぶりに祝融は様子を伺いに行く事にした。
馬では不周山を迂回する事しか出来ず、二週間以上かかる距離だが、龍ともなれば僅かニ刻とかからない。暖かい春の日差しの中を、馬よりも早く空を駆け抜けた。
川を越え平原を越え山を越える。暫く行くと平原が青々とした稲穂が揺れる田畑に変わる。田畑のその先に小さな村が見えた。その中でも一際目立つ屋敷が見えると豪雷は高度を下げ、敷地内に降り立った。豪雷は祝融が背から降りるのを確認すると、人の姿へと戻った。
二人を出迎えたのは、屋敷を管理しているジオウだった。ジオウは二人の姿に驚く様子は無く、当たり前の様に頭を下げた。
「祝融様、豪雷様、お久しぶりです。ご滞在ですか?」
屋敷は姜一族の所有物で、祝融も蚩尤が此処で暮らす前は時折使用していた。姜一族は幾つかの別邸を持っていたが、その中でもイルドが一番静かだと、過ごしやすい春にのみ休暇を過ごした。
本来ならば今はその時期に当たるが、異変が起こったとなれば休暇などと言っている暇など無かった。
「いや、蚩尤に会いにきた。」
その言葉にジオウは戸惑った。
「蚩尤様でしたら、お連れ様を伴って出掛けられました。」
祝融は思いもよらない答えに耳を疑った。蚩尤からは何も聞いていない。
「出かけたとはいつだ。」
「十日程前です。暫く戻らないと聞いています。」
「何処に行った。」
「わかりません。西に向かったとしか……。」
蚩尤は省都にいた頃は、家に閉じ籠り、出かけようとしなかった。それを思えば、行動を起こした事は喜ばしいが、祝融に連絡する手段があるにも関わらず、何も伝えず出掛けたのが信じられなかった。
祝融が知る蚩尤は忠実な男だった。
「連れとは誰だ?」
「ユーリックという女性です。去年の秋ごろに突然現れました。」
祝融は耳慣れない名前を不審に思った。
「村の者が見つけたらしいのですが、鎮守の森から現れたとかで。蚩尤様が言うには、誤って鎮守の森に迷いこんだ旅人だと……ここ半年は客人として滞在されていました。」
鎮守の森から現れたというのに、蚩尤は祝融に何も告げなかった。蚩尤が異変と判断しなかったのか、それとも別に理由があるかはわからない。蚩尤が見せる行動は明らかに不審とも言えた。
「その女の特徴はわかるか?」
ジオウはユーリックの事をよく知らなかった。何度か会話をしたし、自身の仕事も何度も手伝ってはいたが、名前と性別程度しか、分からなかった。特徴と言っても思い出せるのは、黒髪に紅い瞳だけだった。
「容姿は端正で黒髪に紅い瞳が目立つ事ぐらいで……そう言えば、彼女の持ち物が残っています。」
そう言うと、ジオウは屋敷に入った。祝融と豪雷もそれに続き、ユーリックが使っていた部屋へと案内した。ユーリックの部屋の片隅には短剣と小さな袋が置いてあった。祝融はその袋を手に取ると、中に入っていたものを手の上に並べた。
「……これは、金か?」
陽皇国のものでは無い硬貨に似たそれに、祝融は首を傾げた。短剣もこの国では見た事が無い形をしている。
「豪雷、見覚えはあるか?」
「祝融様が見た事が無いのであれば、私には検討もつきません。」
「女はどんな人物だった。」
「……礼儀正しく真面目で、仕事をよく手伝って頂きました。後は、蚩尤様と何度か剣を交えていた事ぐらいです。蚩尤様が久しぶりに、手応えのある相手だったと言っていたのを覚えています。娘が言っていたのですが、彼女は最初、季節外れの毛皮の外套と見た事も無い衣服を着ていたと。それはあまりにもボロボロで捨ててしまいましたが……。」
「そうか……もし蚩尤が戻ったら、連絡する様に伝えろ。」
「承知しました。」
祝融と豪雷は屋敷を出た。祝融は思考を巡らしながら、手に持ったままの硬貨をまじまじと見る。
陽皇国と違い、文字がはっきりと分かる。打刻された文字は理解出来たが、あまりにも出来が良すぎた。同じ物が数枚あったが、どれも寸分違わず同じ形をしている。
陽の物はもっと歪だ。重さは同じでも、形は並べると同じとはいかない。
「祝融様?」
「昔……似たような事があった。」
祝融はどれだけ前かは思い出せ無かったが、一人の異邦人が頭に浮かんでいた。
「言葉が通じない青海から来た異邦人が持っていたものの中に、硬貨と思われる物があった。やはり、見たこともない形だった。」
祝融は硬貨を袋にしまうと、懐に入れた。
「豪雷、一度キアンに戻る。」
その言葉で豪雷は龍へと転じる。祝融は颯爽と背に乗り、イルドを後にした。
祝融城へと戻ると、玄瑛がいる執務室へ向かった。部屋にいた文官達を下がらせると、玄瑛に事の次第を話した。
「お前は何も聞いていないな。」
「聞いていません。イルドに行ってからは志鳥も送っていませんでした。」
「女は多分、異邦人だろう。只の異邦人なら、蚩尤が女を連れて旅行にでも行ったと喜んでやれたがな……」
無気力だった頃を思えば、これで優秀な男が仕事に戻ってくれると、祝融にとって嬉しい限りだった。
「問題はその女の出どころだ。青海から現れる異邦人がわざわざ陽の最北端にいるのは何故だ?」
杏に海は無い。背後に聳える白仙山があるだけで、海から最も遠い省でもあった。そして、イルドは人が住める土地で、最果てに当たる。海から誰の保護も受けずに此処まで来れるものだろうか。祝融にはそんな思考が浮かんでいた。
「異邦人が現れた報告は?」
「無い。容姿は赤目が目立つ程度だそうだ。言葉も通じる。どっちにしろ、誰も気づかんだろう。」
「何を疑っておいでで?」
祝融は推察の段階で口にするのはどうかとも思ったが、余りにも不自然だった。何より、同時期に不周山で異変が起こった事が、祝融には引っ掛かっていた。
「……白仙山を越えた、とかな。」
「あり得ないでしょう。人では無理です。」
「人で無いなら?」
玄瑛は突飛な発言に目を丸くした。だが、鎮守の森から生きて出て来た事を考えると、その考えがあり得るものにも思えた。
「蚩尤が異邦人の連絡を怠った理由を考えるなら二つしかない。必要が無いと判断したか、隠さなければならない事が起こったか。」
「父上が、その異邦人を庇う理由など無いでしょう。」
「なら何故連絡も無く消えた。……どうにも納得いかない事が有る。」
「如何しますか。」
「蚩尤はイルドから西へ向かったそうだ。朱家の者達に蚩尤が何処へ向かったか調べさせろ。」
「御意。」
「俺はこれから皇宮へ向かう。あとは任せる。」
祝融立ち上がると、背後に立つ豪雷に向いた。
「すまんな、今度は皇宮だ。頼む。」
「問題ありません。」
祝融は再び玄瑛に向き直る。
「今はまだ何もわかっていない状態だ。異邦人の事は他言無用だ。」
「承知しました。」
玄瑛は頭を下げた。諸侯になっても尚、玄瑛にとっては、祝融が主だった。そして、蚩尤にとってもそれは同じはず。玄瑛は頭を下げながら、義父が何を考えているかが分からず不安になっていた。
不安を悟られない様、顔には出せないまま玄瑛は祝融の背中を見送るしかなかった。