六
杏省 省都キアン
領主城にある一角で、一人の男は憂鬱に過ごしていた。呉了顕は杏省の武官を勤めている。
春は不周山へ赴かなければならないが、正直面倒と考えていた。長きに渡り、陽皇国は妖魔が跋扈し苦しめられていたが、五十年前を境に減り続けていた。
妖魔は山の影から湧き、人を襲うとされてきたが、今は強い影響の残った一部で確認されているだけとなった。不周山もその一つで、国の命により、杏省が管理を任されていた。そして、その大役を任命されていたのが、了顕だった。
大役と言っても、やる事と言えば数名の部下を連れ、一年に二度、山に出る妖魔の数を数える事だけ。しかもここ数年、出現すら確認されていない。山を闊歩するだけの仕事が彼には、つまらなかった。かと言って、平時のこの世では、大した仕事も回ってはこない。精々、省境に出没する山賊を捕縛することぐらいだ。それも、此処最近は空回りが多く、陰鬱になっていた。
正直、自分でなくても良いのではとは思ったが、官職を賜った身として断るわけにもいかず、了顕は上司であり領主でもある玄瑛がいる執務室へと向かった。
了顕は執務室の扉に向かって声を掛けると、中から入れとだけ声がした。中では、あいも変わらず忙しそうな男が机に向かっていた。
机に座る姿からも、男の体躯の良さが見て取れる。一族特有なのか、姜と名のつく者たちは悉く、長身の者ばかりだ。了顕も小柄では無いが、彼ら程体躯には恵まれていない。横に並んだ時など、玄瑛の方が武官に見えるのではと思う程だった。
「これから不周山に向かいます。何も無いとは思いますが……」
不満そうな声に気づいたのか、諸侯領主である姜玄瑛は顔を上げた。
「皇帝の勅命だ。不満はわかるが、顔には出すな。」
「分かってますよ。」
この五十年、平和になり軍人である了顕の仕事は減っていた。やる事は決まって、妖魔の調査か山賊の相手、時々人と人のつまらぬ諍いばかりで、面白みなど無い。了顕は根っからの軍人というわけでも無く、主が違えば仕事を変える事も考えただろう。
「では、行ってきます。」
「ああ、気を引き締めろ。」
嫌味な去り際の台詞に少しばかり頭には来ていたが、玄瑛とは昔馴染みとは言え彼は杏を治める一族の一人だ。言い返したくなる衝動を抑えて、兵士たちのいる練兵場へと向かった。
練兵場には訓練に励む兵士達がいたが、中にはやる気に無い奴らもいる。了顕の姿が見えると、そういった者達は慌てている姿がよくわかる。睨まれているのがわかっているのか、了顕に目を合わせようとはしない。やる気が出ないのは重々承知だが、律しなければ組織は成り立たない。
こう言う時ほど、自身が軍人に向いていないと思えて仕方が無い。
「軍事規定は知っているだろう。違反者には厳罰もある。我々の俸禄が税で賄われている以上、訓練を怠る者はそれなりの処置を下す事になる。心に留めておけ。」
その場にいた全員が揃って返事をする。了顕はその中から、四名の名を呼び不周山へと同行する様に言った。
不周山へは馬で一日とかからない。さっさと終わらせて、気晴らしに妓楼へでも行こうか。そんな事をぼんやりと考えていた。
北門から街を出ると、田畑が眼前に続いていた。街道を只管に馬で進んでいく。街道から外れ、三刻程進んだ先に漸く不周山が見えた。
妖魔が湧く根源地とだけあって、未だ瘴気が立ち込めている。重々しい雰囲気に、慣れない兵士は何も居ないとわかっていても、この山に怯えた表情を見せる。
了顕は野営を組ませ明朝から調査を開始するとだけ告げた。
――
朝日が昇ると同時に了顕は不周山に慣れていない二名を野営地に残し、山へと登った。日が昇ったはずなのに、山の中は木々が鬱蒼と茂り夕暮れの時の様に薄暗い。異様な雰囲気が漂うこの山は人に手が入っておらず、道と言えるものは無い。
了顕には慣れたもので、ひたすらに山を見て回るだけだった。何より、妖魔がいれば勝手に寄ってくる。不思議なことに、妖魔は数が増えすぎる事がなければ山からは出ない。付近に人が住んでいない事も関係が有るかはわからない。ただ、あれらは人しか襲わないという事はわかっていた。
一刻程歩いたところで、了顕は妖魔の気配が背後にいる事に気付いた。立ち止まり、兵士達に剣を構える様に指示をする。
木々の奥で複数の動くものが、一斉に了顕達目掛けて走り出した。了顕は腰に帯刀していた青龍刀を構えると、それらに向かった。兵士達もそれに続く。
了顕は、目の前に現れた黒い狼にも似たそれに剣を振り上げた。襲いくるそれの牙を避け、胴を切る。妖魔は倒れたが、さらに二体の妖魔が了顕に向かう。了顕は其れを見ると、飛びかかる一体の懐に潜り込み、心臓部辺りに剣を突き立てた。妖魔が倒れ込むよりも早く後ろに下がり、もう一体に飛び乗り今度は頭に剣を突いた。妖魔は滑り込む様に倒れたが、了顕はすぐさまそれから飛び降りた。
兵士に目をやると、二人で何とか一体は倒していたが、一人が手傷を負っている様だった。
ここ数年妖魔が出現すらしていない。熟練者などいる訳もなく、仕方がない事ではあった。
「一度山を降りるぞ。」
了顕は一度山を降り、野営地に戻った。野営地に残されていた兵士は手傷を負った者を見ると、青ざめた顔を見せた。了顕は同行していた兵士二人に玄瑛に報告する様指示をした。
「俺は再度山を登る。お前らは此処で待機していろ。何が起こるか分からん。気は抜くな。」
了顕は再度山へと向かった。
此処に着いた時と変わらぬ姿を見せているはずなのに、不周山はより禍々しさを漂わせている様だった。
了顕は山を歩き回った。一人では隅から隅とまではいかないが、それでも妖魔を誘き寄せるには十分だった。
また、気配があった。躙り寄るそれに、了顕は自ら向かった。それに気づいた妖魔も姿を現し、すかさず了顕へと牙を向けた。一体の妖魔は素早く了顕の喉元を狙ったが、了顕は身を低くしそれを避けると、胴を切り裂く。更にもう一体も了顕の頭上から飛びかかったが、了顕はひらりと躱し、妖魔を背から断ち切った。
了顕は一息つくと、辺りを探った。妖魔の気配は消え去ってはいない。了顕はまた、山奥へと足を進めた。
――
了顕が城に戻ったのは、それから二日が経った頃だった。城へ戻るなり、自身に付着した妖魔の血など気にする事も無く城の中を進んだ。横を通り過ぎる文官達が青い顔を幾度となく見せたが、了顕には気にしている余裕などなかった。
執務室へ着くと、声を掛ける事なく扉を開いた。そこには、来客用に用意された長椅子に腰掛ける玄瑛と自身の主人である姜祝融が座っていた。自身よりも少しばかり歳上程度にしか見えないその姿からは、いつも威圧を覚えてならない。
普段は温厚な祝融だが、主人としている時は誰に対しても威厳を保っている。歳若い姿では舐められる事が多いと、酒の席で冗談混じりに言っていたが、今はそれを思わせる様子は無い。
居るとは思っていなかった主人の姿に驚いた了顕だったが、慌てる事なく頭を下げた。
姜一族当主でもある祝融は、既に兵士から報告を聞いたのか、いつも以上に真剣な眼差しで了顕の姿を見た。
祝融は了顕に玄瑛の向かいに座る様に指差すと、口を開いた。
「了顕、報告を。」
「不周山に妖魔が確認されました。数は十七。全て狩ったかは解りません。明日、再度山へと向かいます。」
了顕の報告で祝融と玄瑛は顔を歪ませた。了顕の報告通りなら、異常としか言いようが無い。祝融は、了顕の姿を再度見た。了顕自身に傷は無いが、妖魔の返り血と思われる黒い染みが幾つもある。
「お前が鈍っていなくて良かった。明日は共工と相柳に行かせる。」
「……祝融様、兵士の鍛錬を怠りました。反省しております。」
了顕は兵士の手傷を自身の落ち度と思っていた。妖魔などいないと怠けていたのは、兵士ではなく自身だったと反省していた。
「お前は武官になった。何事も無いからと、気を抜くべきではなかった。その事を省みて、今後は一層兵士を鍛え上げろ。」
「承知しました。」
「お前の俸禄を管理しているのは玄瑛だ。処遇は玄瑛に任せる。」
了顕は従うしかなかった。玄瑛の事だ、三月は減俸になるだろうと予測ができたが、今回ばかりは自身の落ち度だと、処遇は受け入れるしか無い。
当の玄瑛は何か思うところがある様で、未だ顰めた顔をしていた。
「祝融様、父上から何か報告は?」
不周山で異変があったのなら、白仙山や鎮守の森で何かしらが起こっているかもしれないと、予測だけはしなくてはならない。何も無いから報告は無いのだろうが、玄瑛は単純に暫く離れて暮らしている父親が心配なのもあった。
「今のところ何も無いが、一度彼方には寄るつもりだ。」
祝融の返答に玄瑛はわかりましたとだけ返事をした。
「俺は皇宮へ報告に行く。事態が悪化するようなら直ぐに連絡を寄越せ。それと、暫く兵士は不周山に待機させ、民が誤って入らん様にしろ。」
「「御意」」
「了顕は休め。ご苦労だった。」
了顕はそう言われ、再度、祝融に頭を下げると部屋を出た。
正直、了顕は疲れていた。二日に渡って山を歩き回り、妖魔と戦っていた。
久しぶりのまともな戦闘ともあって、早く帰って休みたかった。とても妓楼など行く気力もない。祝融はああは言ったが、自身も相当に鈍っているのだと痛感し、了顕は家への帰路に着いた。
――
陽皇国は皇帝一族と八の一族によって纏められていた。その一つ杏省は姜一族の管理下であった。姜一族は不死の一族と呼ばれ、当主である祝融を筆頭とした、たった四人の一族だった。
諸侯領主は玄瑛が担っていたが、当主である祝融の発言は全てにおいて上とされていた。
祝融の役目は国事により近い所にあった。彼は、武官でも文官でも無かったが、陽皇国の元老院を担っていた。元老院は相談役の様な役目であり、時には皇帝に意見する事も許された存在だ。元老院は国をまとめる八つの一族から選出されており、姜一族の当主である祝融がそれを担っていた。
不周山の出来事は国事とされる。管理こそ省に任されていたが、事が起これば話は変わってくる。諸侯はあくまで省を治める存在であり、国事である不周山は元老院である祝融に託される。
祝融は自室で志鳥と呼ばれる白玉を手に取った。志鳥は思い浮かべた相手に言葉を送る事ができる貴重な物だった。
遥か昔に神々が造ったという記録が残されているだけで、限られた者しか使えない。それは仄かに白光すると、白玉から白い鳥が現れた。白玉から出たそれは、祝融の指に留まった。
祝融は言葉を送る相手を頭に思い浮かべ、それに話しかけた。
「不周山にて異変があり、妖魔が多数出没した。慣れていない兵士が手傷を負ったが、武官が概ね討伐を行った。他領での状況が知りたい。至急、審議の間での召集を求める。」
志鳥は言葉を受け取ると羽根を動かし羽ばたいた。祝融の指から飛び立つと、そのまま真っ直ぐ南側の壁へと向かったが、ぶつかる事はなく壁の中に消えていった。
祝融は再度、白玉を念じた。頭に思い浮かべたのは、暫く会っていなかった蚩尤だった。心に病を負い、養生させるつもりでイルドへ行く事を命じていた。何も連絡がないなら構わないが、祝融は純粋に身内で有る蚩尤が心配だった。
「蚩尤、不周山にて異変があった。そちらで何か異変は無いか。一度、連絡をしろ。」
志鳥に言葉を伝え終わると、今度は北へと飛び立った。窓をすり抜け、飛び去る。祝融は、白い鳥が暗闇の中に見えなくなるまで、その様を暫く見届けていた。