二
白い光が目に飛び込み、それが朝日だと気づくのにどれぐらい掛かっただろうか。
女は目を擦りながらゆっくりと起き上がると、違和感に気づいた。支える手や自分の体が乗っているその場所が冷たい地面ではなかったからだ。
石造の質素な部屋でこそあったが、寝台に寝かされ、暖かい布が体に掛かっていた。身体は清められ、衣服は見覚えの無い物を着せられていた。
理解ができない状況に置かれ、日が差し込んでいた窓を覗くと、毎日のように見ていた白い山が目に飛び込んだ。見慣れたそれに、故郷に舞い戻ってしまったのかと思ったが、自分が今着せられている衣服はまるで民族衣装の様で見覚えはなかった。
確信は持てなかった。
女は身を起こし、出口と思われる扉に手をかけたが、外側から鍵がかけられているようで開かない。逃げ出すことは容易だが、牢屋に繋がれていると言う悲惨な状況だったらそれも考えただろう。部屋に鍵がかかっているだけで、そこまでするのにはまだ早いと寝台に戻った。
持っていた短剣はなく、寝台以外は簡素な机と椅子が置かれているだけの何もない部屋。
女はただ静かに山を見つめて時を待つことにした。
半刻ほど経った頃、鍵の開く音がした。
女はそちらを向くと、一人の灰色に近い髪色の高年の男が立っていた。男が着ていた紺色の衣には細やかな刺繍が入っている。自身の着ていた物に比べても、上等なものに見えた。
男は女が起きている事に、驚いた様子を見せたが、一瞬で表情を取り戻した。
女は静かに立ち上がり、男に向かい頭を下げた。
物事を荒立てる気はないと示す手段が他に思い付かなかった。頭を下げると相手がどういう反応を示しているかは分かりづらい。
男は寝台のそばにあった椅子を手に取ると、寝台に向かい合わせる様に置いて座った。女に頭を上げるように言うと、寝台に座るよう促した。
女は素直に指示に従い、男に向かい合う様に座った。
「私はこの村に住んでいる者で、蚩尤と言う。まずは、貴方の名前を教えて頂きたい。」
物腰は柔らかく、落ち着いた声で問いかける。女の礼儀に対して、彼も礼節を持って返した。
女は警戒こそしたが、男の態度に安心を覚え、口を開いた。
「ユーリックと言います。あの、ここは何処なのでしょうか。私は山にいた筈ですが。」
耳慣れない名前に、戸惑う仕草と発言。蚩尤は自身の推測に近づきつつあると考えた。
「此処は杏省のイルド村だ。」
「……聞いた事がありません。此処は辰国では無いのですか?」
その言葉に蚩尤はやはりと小さく呟いた。
辰という国の存在は知らないが、ユーリックがこの国では無い別の国から来た存在という事だけは確かなものになった。
「此処は陽皇国。どうやら貴女はこちら側に迷い込んでしまった様だ。」
こちら側を指す言葉の意味が、ユーリックには分からなかった。
「私は辰にある、あの山を登っていました。外側が辰国を指すなら、私は山を越えてしまったようです。」
そう言って、ユーリックは窓から見える山に目を向けた。曖昧な答えだったが、ユーリックにはどう答えて良いかがよくわからなかった。
物腰は柔らかいが、警戒されているのは理解していた。
蚩尤は考え込む仕草を見せた。
「貴女は山を越えたと言うが、とても人が越えられるような山ではないと聞く。あの山は白仙山と言う名で、神が住み人を寄せ付けない。神域は人にとっては毒でしかないからな。」
遠回しの含みのある言い方だった。
お前は人ではないのかと、明らかな敵意がユーリックに向けられた。蚩尤の顔は険しくなり、言葉を続けた。
「はっきりと答えよ。この国に来た目的は何だ?どうやって山を越えた?さもなければ、貴女をこの国を害するものとして扱わなければならない。」
不用意な発言は不信感募らせるだけだ。ユーリックは一度俯くも、疑われる状況は避けるべきだと、蚩尤の目を見た。
「私に目的などありません。誰もいない場所なら何処でも良かったのです。山は彷徨っていたに過ぎません。」
その言葉に蚩尤は目を伏せた。その姿を見せても尚、ユーリックは続けた。
「先程、人には毒と言われましたが、多分私には関係無かったのでしょう。私は…」
ユーリックは言葉を詰まらせた。それを言ったらどうなるかが、判らなかったからだ。汗が滲む手を握りしめる。蚩尤と名乗った男が何者かもはっきりと判らないこの状況でそれを言うのは危険では無いのか。頭によぎるのは、恐怖ばかりだった。
その反応に気付いたのか、蚩尤はユーリックを落ち着かせようと、震えるその手を取った。
「此処は、貴女がいた国ではない。貴女に恐怖を与えた者はここに来れない。」
何故来れないと言い切るのかは、ユーリックには分からなかった。落ち着いた声に諭され、ユーリックはようやく口を開いた。
「私は、死ねないのです。どうやっても、どんな方法でも。」
それは蚩尤にとって、予想だにしない答えだった。
「出来れば、あの山で一人で生きていこうと思ったのですが……気付いたら此処に居ました。」
「白仙山から歩いて来たのではないのか。」
「私に山を降りた記憶はありません。幻でなければ、白銀の龍に会った気がするのですが、そのあと暫くして記憶が途絶えています。」
神がいると言うならば、あれがその存在だったのだろうか。ユーリックは未だはっきりと記憶に残るその存在を思い浮かべたが、幻同然と思っていた。
「龍に……会ったのか。」
「会ったと言うよりは、ただ此方を見ていただけでした。気がついた時には白銀の龍は消えていました。」
白仙山には神がいる。この国では誰もが知る事だった。存在こそするが、不可視とされ、会いまみえる事はできない。只人なら信じぬ話だっただろうが、蚩尤は違った。
「貴女がここに来て、私と相対して話をしているのは、偶然ではないのかもしれないな。」
「…必然だと?」
蚩尤は穏やかに笑った。
「この国で白仙山に住む白銀の龍は白神という神だ。ユーリック、行く宛は無いだろう。この屋敷で過ごすと良い。神に導かれた者として歓迎しよう。」
「…信じていただけるのですか?」
ユーリック自身、龍に会った事は半信半疑だった。あっさりと信じた蚩尤を見たが、嫌疑は解けた様だった。
「白仙山を越えてきたのなら、それだけの力があるのだろう。しかし、立場上、貴女を完全に信用するわけにはいかない。この屋敷の滞在は、私が監視していると思いなさい。」
「……感謝します。」
ユーリックは立ち上がり、礼を示した。疑われたらと、ユーリックは不安で仕方がなかった。まだ、この御仁を完全に信じる事は出来ないが、今は手段を選べる余裕はなかった。
「この部屋は勝手が悪い。別の部屋を用意しよう。」
そう言って、蚩尤は手を差し出した。ユーリックは戸惑いながらもその手を取り、蚩尤に連れられるまま、部屋を後にした。
――
収穫祭は終わり、秋も終わりつつある。杏の秋は短く冬はすぐそこだ。秋が終わる前に冬の支度が行われ、イルドの村人も忙しなく働いている。
ユーリックは十日ほど眠っていた。死ねないと言えど、神域に長くいた後遺症だろうと蚩尤は言った。
蚩尤はユーリックを客人としてもてなした。ユーリックは対応に困惑したが、蚩尤は気にする事はないと言った。
与えられた部屋は高価な調度品に統一された家具が並んでいた。寝台の布団には上等なものが使われており、座ると身体が沈んだ。贅沢など知らないどころか、質素に生きてきたユーリックにとって身に余る物だった。
本当に自身がこの部屋を使って良いのかと蚩尤に聞いても、どうせ余っていると言うばかりだった。
蚩尤は家や彼の着る衣服こそ高貴な者に見えたが、食事は庶民の家庭料理にも見えた。
米を主食とし、辰国に近いそれに安心した。一口食べると、舌が痺れるとまではいかなくとも、辛味が強く味が濃い。奏国は貧しさからか粥や薄い味付けが多く、食べ慣れない味が異国を思わせた。
目覚めてから三日は蚩尤はユーリックと関わる事を避けている様だった。食事の席だけ共にし、後は好きにして良いと言った。
好きにして良いと言われたところで、ユーリックには目的も無ければ、やることも無い。監視されている身と思い、部屋で白仙山や僅かに見える村を眺めて過ごした。
村の人口は少なく穏やかそのもので、刈り取りを終えたばかりの田、僅かに行き交う人、走り回る子供の姿。そんな当たり前とも思える光景がユーリックにとっては珍しいものだった。
そして、四日が経った朝、朝食の席で蚩尤はユーリックを居間へと呼び出した。
蚩尤は一見、穏やかな顔つきでその実、内心で何を考えているかわかり辛い。
蚩尤は立場や監視を口にした。ならば、それなりの人物への報告でも有るのだろうかと、それらしい話が伺えるものだと思いながら、蚩尤の下を訪ねると、彼の口から出た言葉は予想に反したものだった。
「貴女の国の話が聞きたい。」
ユーリックは戸惑いながらも、これといって隠す理由もない。
「あまり良い国ではありませんが……」
辰国に良い思い出は少ない。生きにくいとすら感じたあの国に愛国心の欠片もなく、ユーリックは自身が過ごした国を頭に浮かべながら、語り出した。
「辰帝国は白仙山より更に北に位置し、冬は寒く暖かい季節は少ない。六百年に渡り国土を広げ、今や大陸を治めんとしている国です。国土は増えるが、戦が多く、貧富の差は増すばかり。戦の多くに魔術師が関わり、それらの力によって国力を維持しているのが現状です。」
「魔術師とは?」
ユーリックは唖然とした。自身も世情に詳しいわけでは無いが、どの国でも魔術師の存在は知られているという。それを知らないという事が彼女には驚きだった。
蚩尤は、そもそも魔術という言葉が存在しないのだと言った。
「魔術師は不死の存在と言われています。全てがそれに値する訳ではないですが、特有の術を使い時に妖魔を狩り、時には戦に役立てます。」
「であれば、不死とはそのもの達だけだと?」
「そうです。私も、その一人です。」
「貴女は死ねないと言うのなら、元より不死なのでは?」
「私は自身が不死身だと知ったのは、不死の術を会得した後です。何より、魔術師として技量を高める為には必要でした。」
魔術師の話に蚩尤は興味を引かれたらしく、更に詳しく話して欲しいと言った。ユーリックにとっては当たり前の事が、蚩尤にとってはあり得ない話だった。
本来ならば魔術師の事を口外するのは裏切り行為に当たるが、ユーリックにとっては既に国も同志であった魔術師達も捨てたも同然の過去になっていた。
辰帝国は長きに渡り、魔術師の力を借りている国だった。それは、魔術師達に仕事を与え、王家に仕えせる。最長老を筆頭に、九人の長老達が各地で魔術師達を纏めており、最長老若しくは長老に認められて初めて魔術師を名乗る事が出来える。ユーリックはその長老の直下の弟子だった。
長老は長く生きている事が重要とされ、最長老は八百年近く生きていると言われていた。不死の力を身につけ生き続ける事が魔術師として重要とされていた。
「失礼ながら、貴女は?」
ユーリックの見た目は二十代中頃と言ったところだった。
「私は五十年程生きています。」
蚩尤は納得した様にユーリックを見た。不死は実年齢が分かりづらい。彼女は礼儀正しく、見た目の年齢よりも落ち着いていたのはその所為だと確信した。
「何故魔術師になったのか伺っても?」
「魔術師は孤児を弟子とします。そして弟子となったからには、選択肢はありません。」
蚩尤には余りにも酷な事の様に思えた。目の前の女は自身もその立場であったのだろうに、それを当たり前の様に言ってのける。
「わざわざ子供を?」
「魔術は魔素と呼ばれる…もう一つの生命とは別に持つ力を使います。これは誰しもが持つものです。例外もありますが、十歳を越えたあたりから生命の中に溶けて消えてしまいます。これを十を越える前に引き出し魔素として確立させる事が重要になります。それを大きくし、器となる肉体と精神を鍛え、生命の流れに組み込み体内に循環させる事で不死になるのです。」
「人でありながら、命を操るか。」
「まだ不完全と言われています。いくら不死の術を身につけても寿命が無いと言うだけで、何ら只人と変わりはありません。致命傷を負ったり、病に罹れば死んでしまいます。」
「少し、魔術を見せてもらっても?」
その問いに、ユーリックは掌を見せた。手のひらに赤い陣が浮かび上がり、蚩尤には見た事もない文字の様なものが並んだ。ふつふつと小さく現れた水滴が集まり、それは球体となる。掌で漂っていた透明な水は、掌に近い部分から白く濁り、徐々に氷へと変化した。ユーリックはそれを蚩尤に手渡した。
「今のは基礎魔術に過ぎません。水を創る陣とそれを凍らせる陣を混ぜ合わせたものです。」
蚩尤は手渡されたそれを見つめた。氷は冷たく、本物となんら遜色はない様に思えた。蚩尤は再びユーリックに手渡すと、掌の中に吸い込まれる様に消えていった。
「まるで異能の様だな。」
「異能…とは?」
今度はユーリックに聞き覚えの無い言葉だった。
「神からの祝福を授かったものだけが使える術だ。殆どが、一つのことに特化したものばかりですが。」
「蚩尤様もそれを?」
「私も祝福を授かった。此処では見せする事は出来ないが。」
今までも、話の節々に神と言う言葉が幾度なく出ていた。よほど信仰が強い国なのだろうと、龍も神に近い力を持つ存在として崇めているのだと、ユーリックは考えていた。
辰は信仰が薄い。山奥の小さな村では、独自に神を祀り小さな信仰が保たれたりもするが、ユーリック自身も神という曖昧な存在を信じてなどいなかった。
「……蚩尤様は神が存在すると思っておいでですか?」
「神は存在する。目に見えぬだけ。」
蚩尤は、はっきりと言い返した。
「この国では神の力としか思えない事柄が多く存在する。異能がその一つだ。」
神の祝福という曖昧な表現が、ユーリックの思考を鈍らせていた。
「ユーリックは目に見える物だけが真実だと?」
「……目に見えぬ物程、不確かな物はないと考えています。」
蚩尤は顎に手を当て、考える仕草をした。
如何に陽と辰が長い間、時を隔てたが浮き彫りになった。それが両極端な両者の考えを生み出しているようだった。
「私は奇跡を信じません。事柄には何かしら理由があり、事象には原理がある。妖魔は陰から生まれると言われていますが、未だ解明されていないだけだと考えています。こちらの異能も、神と理屈をつけ、誰も解明していないだけでは?」
「……なるほど、こちらには無い考え方だ。」
そう答えた蚩尤はどこか嬉しそうだった。
正直、ユーリックはこの国の考えを否定するのは失礼に当たると思っていたが、自身の考えを捻じ曲げてまで同意する必要は無いとも考えていた。もしかしたら、蚩尤が温厚だから許されているのかも知れないとも思えたが、蚩尤はただ興味を示すばかりだった。
「確かに、理屈で説明できないものは神の領域と言って、事象を明かす事もない。神はそれ程迄に我々の生活の中に浸透しているとも言えます。」
「信仰がそうさせるのですか?」
「否、それ程強い存在が直ぐそばにあるからだ。」
「例えば……白仙山などがですか?」
蚩尤は白仙山を神域だと言った。ユーリックはそこに長く留まっていた。自身は不死身だから特に何かを感じる事は無かったが、人は生きては行けないと言った。それ以前に神域で無くとも、あの山は凍え死ぬ事など容易に想像できた。
「白仙山もそうだが、この国自体が封じられていると言ったら?」
ユーリックは言葉が出なかった。確かにこの国は不自然ではあった。白き山の向こうは何も存在しないと言われ、実際地図にもこの国の存在は示されていない。誰も認識が出来ない国を証明するものなど、ありはしない。
「山は白神が、海は四海竜王の神域によって守られ、何人も入ることができない。また外に出る事も同様。この国はそれを信じ、誰も出ようとは思わない。ごく稀に、貴女の様に迷い込む異邦人がいるくらいだ。それを可能にしたのが神の力だと言われている。そして、不死や不死に準ずる者が存在し、それらは全て人から生まれる。私が知っている方で、千年を越えて、若い姿を維持したまま生きている方もおられる。」
ユーリックは言葉が出なかった。目に見えないものを信じる事が出来ないと言うのなら、今自分がいるのは何処だと言うのだろうか。
「その方は天命を授かった者とも言われている。他の者はそう長くは生きられないが、だからこそ神の祝福だと言われている。」
ユーリックには返す言葉もなかった。不死が生まれる。それは自身も同様の存在だったからだ。ユーリックは死ぬ感覚を知るまで、自身が不死身である事など梅雨の程にも考えてなどいなかった。それは説明など出来ず、ただ受け入れる他無かった。
「……それを言われてしまうと、私は屁理屈を捏ねているだけになってしまいますね。」
困った様な表情を見せながらも、ユーリックは認めるしかなかった。
「貴女が不死身の理由も、何かしらあるのかもしれない。そして、この国でも不死身は稀だ。」
「私はこの国でも異質でしょうか。」
ユーリックの問いに蚩尤は目を伏せた。
「……私が言える事は、不死身とは、とても大きな力が関わっているという事だけだ。」
「理解する事の出来ない存在が、私に不死身の力を与えたと?」
「此方では、そう考えるな。貴女も頭の中では、理解しきれないものとして捉えていたのでは無いか?」
ユーリックは戸惑いながらも、同意するしかなかった。
「……そうです。自分だけが、どう考えても異質で説明のつかない存在だと考えていました。けれど、それを結論づけてしまうと、私はまるで……」
ユーリックの言葉はそこで詰まった。それ以上口にすれば、それを認めてしまう様で言えなかった。
「ユーリック、貴女は死を持たないだけで、只の人だ。」
その言葉に根拠などない。同情とも取れる言葉ではあったが、ユーリックは蚩尤が自身を異質な存在として見ていないという事が純粋に嬉しかった。