二十三
賑やかなひと時を得て、満月が浮かぶ夜。
虫の鳴く音だけが、悠李の耳に届いた。
窓の外の景色を一人眺めながら、思い耽っていた。
「(随分遠くに来たものだ。)」
それは異国に来たという意味だけでなく、暮らしも身分も全てがそう思えてならなかった。
一年を待たずして、こうも全てが変わる者だろうか。
辰国にいた頃には考えてもいなかった世界がここにはある。
全てはもう決まった事だと腹は据えたが、未だ違和感は抜けない。
時折、考える。
実はこれは全て夢なのではないのかと思えてならなかった。
自分の心は既に壊れていて、牢に繋がれた哀れな女が幻を見ているのではないかと。
逃げ出した事も、ヨナと旅をした事も、蚩尤に出会った事全てが、自分の見ている夢だとしたら……。
悠李は自分の手を見た。何にも拘束されていない筈の手すら、幻の様に思えてならなかった。
「(その方が合点がいく。)」
悠李には事が上手く運び過ぎているように思えていた。
運よく、ここまで辿り着いたと言うよりは、夢の中の出来事で最初から全てが上手くいくようにできているのだとしたら、大した想像力だとも思えた。
目に見た事のないもの、聞いた事のないもの。出会った事の無い人。
この国に辿り着いた頃に浮かんだ考えが、悠李の頭によぎった。
「(神話の中に迷い込んだ……か)」
もしも夢ならば、案外その考えは間違っていなかったとも言える。
悠李は卓に突っ伏して目を閉じた。
「(夢ならば、どうか覚めないで。)」
あの日々に戻るくらいなら、夢を見続ける方が良い。
悠李は願った。どうか、この幸せな夢が続くようにと。
――
新しい年が明け、領主城には多くの臣下が集まっていた。姜伯が城に戻り、更には新しい息女の披露目とも相まって、宴会場は賑わった。
姜家当主である祝融と領主である玄瑛が中央に座り、玄瑛の隣には蚩尤が。祝融と共工に挟まれる形で座る悠李がいた。悠李は紅い煌びやかな衣を身に纏い、髪飾りには紅玉や花があしらわれた髪飾りを身につけて畏まり、身動きが取れないでいた。
「随分と派手に飾られたな。」
普段は男と見間違うほどの立ち振る舞いを見せる女とは想像もつかない姿に、祝融も目を丸くした。
「翠玲様と珊子様が祝の日だからと……似合わないのは分かっております。」
あれから多少は城での生活に慣れ、武科挙の試験は蚩尤に簡単な手解きを受けただけで受かってしまい、春から一武官の補佐官として働く事にもなっていた。
所作や作法はまだまだだと、珊子に厳しく指導を受けていた。しかも指導を理由に珊子も翠玲も悠李を着せ替え人形にして遊んでいる節があった。
何も分からない悠李に取って代わって、あれやこれやと世話を焼いた二人に文句を言うわけにもいかず、ただ黙って二人の人形に徹するしかなかった。普段は訓練に勤しんでいたため、殆どが動きやすい服ばかり着ていたせいか、無駄に長い袖や裾の所為で動き辛い。剣を片手に持っているため、大した重さでは無いはずなのに飾られた頭が異様に重い。翠玲と珊子にみっちりと扱かれた為、所作もある程度身についたが、ここまで大勢の前に出ることは一度としてなかったため、不手際がないかと心配にもなる。今日の自分は置物だと言い聞かせていた。
「晴れの日だ。見せつけるには丁度いい。」
祝融は宴席に座る家臣たちを一望し、声を上げた。
「皆が雪の中集まってくれたことに感謝する。」
祝融の声に皆が祝融に目を向け鎮まった。
「昨年は妖魔の事もあり、皆不安に思った事だろう。異邦人が厄災を運んだという者もいるが、これは神がこの国に戻って来た事を意味する。妖魔が戻ったならば、新たな不死も生まれるだろう。だが、不死の力だけで国が回るわけではない。この杏があるのは、其方らの貢献があってこそ、この豊かさが保たれている。皆の働きに感謝している。」
祝融は、悠李を見た。
「そして、一族に新たな顔ぶれを迎えた。我が娘、悠李だ。」
視線が悠李に集まった。紅玉の瞳は動じる事なく、ただ前を見据えていた。動じる事のないその姿、派手な衣装に負ける事のない顔立ち。誰もが息を飲む美しさだった。
「娘こそ、例の異邦人でもあるが、悠李の強さは杏の武官に匹敵するものである。これからの時代、我々の力となるだろう。」
祝融は盃を手に持った。それに倣うように、皆が続く。
「杏の繁栄に!」
威厳ある姿とは、正にこの事だろう。姿こそ若いが、誰もが雄々しき姿に盃を高く掲げた。
祝杯の声で、また会場は賑やかになった。頃合いを見計らって、祝融や玄瑛に挨拶を述べる者達。その中には、それとなく悠李に見合いを薦める声もあったが、祝融はまだ一族に加わったばかりだと断った。
挨拶もひと段落し、ようやく宴会も終わりを迎えた。
悠李は座っているだけだったのにもかかわらず、態度にこそ出さなかったが、これほど疲れる事が今までにあっただろうかと憔悴しきっていた。
「(鍛錬の方が余程楽だ。)」
所作が気になり、大して料理もつまめず、ちびちびと酒を飲むだけ。
その様子を見てか、蚩尤は立ち上がった。
「祝融様、悠李を連れて先に戻ります。」
「構わん。どうせもう仕舞いだ。」
蚩尤は悠李に立ち上がる様に促すと、二人は宴席を後にした。
城から離れの宮まで続く石畳は雪が綺麗に取り払われ、脇に積もった雪が月明かりで照らされていた。
宴会場を離れ人気ない所まで歩くと、蚩尤は息をつき、くたびれた様子だった。
「疲れただろう。部屋まで送る。」
「ありがとうございます。実を言うと、頭が重くて……」
慣れない格好に悠李もまた息がつけると、本音が溢れた。
蚩尤は見慣れない悠李の姿をまじまじと見た。
「今日は格段に美しいな。よく似合っている。」
世辞と分かっていても、悠李の胸は高鳴り頬は紅潮した。雪が眩しいせいで、蚩尤に見られなかっただろうかと、顔を隠すように俯いた。
「お世辞でも、嬉しいです。」
「世辞ではない。」
蚩尤は足を止めた。足音がしなくなった事で、悠李不審に思い振り返り蚩尤を見た。
「蚩尤様?」
「先ほどの宴会場のもの達を見たか?貴女を食い入る様に見るものたちが大勢いた。」
悠李は祝融の言葉で注目が一度に集まった事が脳裏によぎった。物珍しげな目線は、あまり心地の良いものでは無かった。
「異邦人が珍しいだけでしょう。」
「果たしてそうだろうか。」
蚩尤は悠李の顔を食い入る様に見ると頬に優しく触れた。
「……誰かに盗られるくらいなら、私の物にしてしまいたい。」
蚩尤の手が触れた部分だけが熱を帯びている様に思えてならなかった。最早、悠李に想いを心に留めて置く事など出来なかった。
悠李は頬に触れる手に、自分のそれを重ね優しく包み込んだ。
「蚩尤様、貴方をお慕いしております。ずっと分不相応だと、考えておりました。」
「今は従兄妹だ。気兼ねなど必要ないな。」
蚩尤の顔が近づき、悠李の唇にそっと口付けを落とした。
悠李は驚いたが、ただそれを受け入れた。
唇が離れても、鼓動の高鳴りが煩く耳に鳴り響いていた。
「祝融様には婚約する様に言われていた。私の様な老いた者になど嫁ぎたくはないと想っていたが、杞憂だったか。」
「私は、蚩尤様が老いた者などとは思っておりません。それに、祝融様よりもお若いのでしょう?」
茶化す様な悠李の言い様に、蚩尤は笑うしかなかった。
「確かに。あの方を鑑みれば私の方が若いな。」
蚩尤は一頻り笑うと、悠李に手を差し出した。
「此処は寒い、宮へ行こう。」
その手を取ることに、迷いは無かった。寒さの中、その温もりが全てを紛らわせる。
寄り添う二人を、月だけが照らしていた。
終