第一話
緑豊かな町『ベリア』。広大な土地に作られた町で、ここでは観葉から食用まで様々な植物を育てている畑が放射状に広がっており、その中心にある小さな町がベリアだ。
町の中も植物にあふれ、エメラルドグリーンやモスグリーンなど様々な緑色がコントラストを作り、たまに咲いているカラフルな花々がアクセントになっていた。
「いやー来てよかったっスね、旦那ァ。メニューの上から適当に頼んでも、どれも美味しいんスもん」
ノーラは野菜たっぷりのパスタを口に押し込みながら言った。
「まったくだ。たまにはこういう美味しい目に合わねぇと、人生やってらんねぇよ」
リットとノーラはベリアより北にある街で、大きな仕事を終えた帰りだった。
依頼の内容は、いつものように風変わりな光が欲しいというものだ。金持ちの道楽なので支払いも気前が良く、ただのんびりする為だけにベリアに立ち寄ったのだ。
どういう町かは知らないで寄ったのだが、これが大当たり。食事美味しければ酒も言うことなし。気候も暑すぎず寒すぎで、少し太陽が登っている時間は長いが、木々の葉に遮られているおかげで、むしろそれが心地よく感じる。
「旦那ァ、これは一泊して。明日も美味しいものを食べるしかないっスよ。いや……二、三泊するのもいいかも知れませんねェ」
「そうだな……金もあるし。……どうせなら一番良い宿を取って豪遊といくか」
リットは酔っていることもあって、財布の紐がかなりゆるくなっていた。
「それでこそ旦那っスよ。後のことは後で考える。まま、遠慮せず飲んでくださいなァ。旦那のお金ですし」
ノーラは片手でリットのコップに酒を注ぎながら、反対の片手を上げて店員に追加の注文を頼んだ。リットの気が変わる前に、さっさと食べたいものを食べておくつもりだ。
見たことのない不思議な形の野菜がたくさん入ったサラダや、薄色のスープの中で宝石のように輝く煮野菜など、食べたいものは数え切れないほどあったからだ。
だが、そんなノーラの心配は杞憂に終わった。
十分にご飯を食べたあと、宿の一番良い部屋を取り、再び町へ出て食べ飲み歩きを始めたのだ。
幸せな時間はあっという間に過ぎ、昼から夕方へ、夕方から夜へ、夜から夜中へ。
ノーラはお腹がいっぱいになったことにより、リットはお酒が入ったことにより、二人共ぐっすり眠り、朝になるまで一切起きることがなかった。
先に起きたのはノーラだ。まだいっぱいのお腹を抱えるように押さえながら、水をもらおうと部屋を出た。
しかし、宿には誰もいない。それなら他で買うしかないと、仕方なく宿の外へ出たのだが、ノーラは目に映る風景に絶句した。何度も目をこすり、目やにを落としてボケた視界を正して見ても風景は変わることなく、これは一大事だと慌ててリットを起こしに戻った。
「旦那ァ!! ご飯がなくなっちまいましたよォ!!」
「……全部食ったんだろ。オレじゃなくて、自分の腹に聞いてみろよ……」
リットは昨夜飲みすぎたから起こすなと言うが、ノーラはお構いなしに何度も体を揺さぶった。
「私が町中の食べ物を食べたって言うなら、今頃魚のような長いうんちをしてトイレから出てこられないですって」
「なんだってんだよ……。わざわざクソを見せに来たなら、本当に怒るぞ……」
あまりにしつこく起こしてくるので、リットはベッドから出て窓の外を見た。すると、そこには緑の町の面影など一つもなく、枯れ木と枯れ草が佇む。土茶色の荒野へと姿を変えていた。
「ほら、一大事でしょ」
リットが呆気にとられているのを見て、ノーラはなぜか偉そうな態度で腰に手を当てていた。
「……クソは便所でしろって教わらなかったのか?」
「旦那ァ……」
「わかってるよ……。飯がないって話じゃなかったのか?」
「だって、畑も枯れてるんスよ。この町じゃご飯がないようなもんじゃないですかァ」
ノーラの言う通り、この街の特色は一夜にして全てなくなってしまっていた。
リットとノーラは宿の外に出て、この街になにが起こっているのかを確認しに行くことにした。
緑の絨毯はなくなり、何十年も雨に触れていないような亀裂の入った乾いた地面になっていた。まるで途方もなく巨大な爬虫類の鱗の上に立っているかのようだ。
木も枯れてしまい、やせ細った老人の腕のように頼りなく佇んでいる。
新鮮だった空気も消えてしまった。砂塵が舞っているせいで、シャツを引っ張って口元を押さえなければ呼吸が出来ないほどだった。
「街ぐるみで旅人を騙してるわけでもなさそうだな」
リットは慌てる人や途方に暮れている人達を見て、これは前触れもなく起こった非常事態だと判断した。
宿の外の休憩スペースに置いてあったフルーツの盛り合わせが、一晩にして砂山に変わってしまっているからだ。
外ではまともに話が出来ないと部屋に戻ったリットは、ベッドの横に置いておいた鞄の中からリンゴを取り出すとノーラに投げ渡した。
「街がこうなると、このリンゴが唯一色を持ったものに見えますねェ」
ノーラは真っ赤なリンゴを食べながら言った。萎びていて瑞々しいとは言えないが、寝起きの喉を潤すには十分だった。
「まったくだな……。一晩で砂嵐にでも襲われたのか? 近くに荒野も砂漠もないはずだがな」
リットは地図を見ながら言った。
この地図は先の依頼で依頼主から貰ったものなので、間違っているはずがない。間違った地図など渡したら、請負人が来られないので意味がないからだ。
「砂嵐って言っても、植物が枯れるのはおかしくないっスか? 一晩水をあげないくらいで枯れる植物なんてあります?」
「調べりゃあるだろうけど、全部が枯れるのはおかしいな。……それ貸せ」
「リンゴなら、もう全部食べちゃいましたよ?」
「いいんだよ」
リットはノーラが食べ終えたリンゴの芯を窓から外に向かって投げた。
「あーあー……なにも憂さ晴らしにゴミを投げなくても」
ノーラは放物線を描いたリンゴの芯を目で追った。
なにか変わったことが起きることはなく、地面に落ちると僅かな音と砂埃を上げただけだ。街の人は窓からゴミを投げ捨てられたことなど、気にしている余裕もなさそうだった。
リットは窓を閉めると、顔についた砂を手で拭った。
「干からびて砂にならねぇってことは、今なにか起こってるわけじゃなさそうだな。なにか起こった後ってわけか」
リットとノーラが頭を悩ませていると、宿の主人がやってきて井戸が枯れてしまったと告げた。
これにはリットとノーラも困った。水がないと生きていけないからだ。この土地の長く昇る太陽を遮る植物も枯れてしまっているので、気温は上がっていた。これが昼になれば増々気温は上がる。たとえ夜になったとしても、喉を潤すことが出来ないので体力は奪われていくばかりだ。
急いで街を出ようにも、水もなしに出るのは危険だと判断したリットは、ひとまず様子を見に行こうと一人井戸へと向かった。
井戸の周りには既に人だかりが出来ていて、干ばつの原因究明をしていた。
リットは聞き耳を立てて色々情報を集めたが、その殆どがただ不安を口にする声で、役に立つような情報はなかった。それでもしばらく粘ってそこにいると、数人の若者が帰ってきて次々に「ダメだった」と同じことを口にした。
この異変が起きたのは、太陽が昇るのとほぼ同時だった。収穫作業のために、夜明け前から街の人々は働き始める。青と白の間におぼめく太陽の光とともに、いつもと同じ朝が始まると思ったのも束の間。まるでイナゴの大群が押し寄せてきたかのように緑はなくなったという。
なにが起こったのかと大慌てで探索に行ったのが、周辺はどこも同じありさまになっていたとのことだった。
リットは再び宿へと戻り、ノーラに手立てがないと伝えたのだが、返ってきた答えはノーラらしいのんきなものだった。
「一夜にして水がなくなったのなら、一夜にして水が戻ることもあるんじゃないっスかねェ」
「オマエは本当に幸せな脳みそをしてるな……」
「考えても仕方がないことは考えない主義なんですよ。だって、どうするんスか? 水を求めて旅立とうっていうなら旦那についていきますけど、どこまで水がない地域が続いているのかわからないんですよォ」
ノーラの正論にリットは黙ってしまった。かといってそれが正解というわけではない。なんとかこの現象の範囲から脱出するか、水を手に入れる方法を探さなければならなかった。
「水の心配とはな……。昨日までの飲み食いが嘘みてぇだ」
「旦那ァ、こういう時こそ闇に呑まれた経験を活かすんスよ。水も食べ物もどうにか手に入れたじゃないっスかァ」
「闇に呑まれるか……そういえばあの時は――」
リットが闇に呑まれたペングイン大陸で、なにもなかった川に水が戻った時のことを思い出した時だった。
思い出し切る前に、聞き覚えのある高笑いが響いたかと思ったが、それは幻聴のように消えた。かき消すかのような大きな歓声が上がったからだ。
思わずリットは窓を開けて身を乗り出した。ここから井戸の場所はよく見えないが、助かったという声が次々と声高らかに響いているので、水が出てきたことは間違いない。
「ほら、旦那ァ。無駄に考えずとも事態は解決。ゆっくりしましょうってなもんで。せっかく一番良い宿をとったんスから」
ノーラは万事解決と言った具合に安堵のため息をつくと、布団に包まってすぐに寝息を立て始めた。
そのあまりに平和な光景にリットは体の力が抜けていくのを感じた。朝早く起きたせいでリットもまだ眠かったので、深いことは考えずにもう一度眠ることにした。
次にリットが目覚めたのは昼過ぎだった。
自然に目を覚ましたわけではなく、水差しを持った宿の主人が部屋に入ってきた音が耳に入ったのだ。大きな音ではないが、やけに耳に届いた。
「起こしてしまいましたか?」
「いや、起きたんだ。気にすんな。それより、水はもう大丈夫みたいだな」
起きたらまた水がないなんてこともあると少し不安だったリットだが、宿の主人がわざわざ水差しとコップを持ってきたということは井戸には水があるということだ。
「ええ、水は大丈夫です。料理はしばらくお肉ばかりになってしまいますが……。育ちの早い野菜から育てなおす予定です。早いものは七日もすれば芽を出しますよ」
「そこまで長くいる予定はねぇよ。またなんかあったら困るからな」
「それが懸命です。井戸の水は以前と同様に復活したので、旅立つ前にはどうぞお汲みになってください」
一礼して出ていく店主を見送りながらリットは首を傾げた。井戸に水が張るには、いくらなんでも早すぎると思ったからだ。
リットがどういうことなのかと考えていると、宿の主人が駆け足で戻ってきた。隣の部屋に井戸の水を復活させた人物がいるので、時間があるなら挨拶をしておいたほうがいいと伝えて部屋を出ていった。
その時、リットの頭の中には「フハハハ!」という高笑いが響き出していたのだが、それは現実のものとなっていた。頭の中だけではなく、隣の部屋からも聞こえているのだ。
リットは強く拳を握り、壁に向かって振り下ろした。
強い衝撃音は笑い声を止めるには十分だった。
静かになったのを確認してから、リットは隣の部屋と向かった。
ドアの前に立ち、乱暴にノックをするが返事はない。二度三度と繰り返していると、ようやく少しだけドアを開けて、隙間から「お師匠様は留守なので、またのお越しをー」という声が聞こえた。
そのドアが閉められる前にリットは隙間に足を滑り込ませると、太ももをドアに押し付けて無理やり開けた。
ドアを押さえつけている者の力はなく、「あら? あら、あらららら……」というマヌケな声と、尻餅をつく音が聞こえた。
だが、リットはその声は無視して、こんもりと膨らんだベッドへと一直線に向かった。
「……今度はなにをやらかしたんだよ――グリザベル」
リットの声が低く響くと、ベッドの上の毛布の塊は震えを止めた。
そして亀のように顔だけだして、「なんだリットか……」とグリザベルはほっと息をついた。「脅かすでない。輩かと思ったではないか……いや、実に久しいな――」
「世間話をするつもりはねぇよ。なにをやらかしたって聞いてんだ」
リットが睨んで凄むと、グリザベルは再び布団に全身包まってしまった。
「我はなにもしておらぬ……」
「なにもしてねぇのに、水が消えてまた湧いたのか?」
この現象は絶対に魔法が関係していると思ったリットは、グリザベルがなにかしたと疑っていた。ヨルムウトルの時のように余計なことをしたのではないかと。
「それには深い理由がある。井戸よりも深い深い理由が……」
そう言って、リットの背中をちょいちょいと突いたのはマーだった。
「なるほど、今度はアホ魔女二人でやらかしたか」
「だから、我のせいではないと言っておるだろう!! マーのせいでもない」グリザベルは布団から勢いよく出ると、そのままの勢いでリットへ凄み返した。「精霊の仕業だ! 我とマーは精霊を追ってこの街までやってきたのだ! よく聞け、この現象は精霊が暴走したことによって起きているのだ。わかるか? 起きているということは現在進行系だ。つまり、他の街にも起こりえること。我の故郷にも――お主の故郷にもな」
グリザベルは椅子に腰掛けると、リットにも椅子に座れと対面の椅子を指した。
訝しく思いながらリットが椅子に腰掛けると、グリザベルは口元に笑みを浮かべた。
「懐かしき光景だ……そうは思わんか? 我の知識をお主が知恵に変える瞬間だ」
グリザベルはテーブルに肘を付き、手を組むと、手の甲に顎を乗せてポーズを取った。
その隣ではマーが全く同じポーズを取ってリットを見ていた。
呆れ気味のリットの視線に気づくと「お師匠様は形から入れとのこと」と、グリザベルを真似して不敵な笑みを口元に浮かべた。
「いいから話せよ……」
「語るには新しきことが多すぎる。まずは魔女学の初歩から思い出してもらわねば。話はそれからだ。そう――まるで年代物のワインの栓を開けるかのようだ。情報があるからこそ、ワインの芳醇な香りを楽しむことが出来るのだ」
それからグリザベルはお得意の長い前置きをしばらく続けてから、リットに説明を始めた。