虚に口なし
クチナシと名付けられる前の少女に名はない。呼ばれる時はいつも出来損ない、役立たず、クズ、ゴミ、そのような意味を持つ言葉で呼ばれていた。
「……」
「何という醜さだ、腕は2本だけ頭は1つきり。誇り高きヘカトンケイルではなくただの矮小な人間ではないか。このような忌み子は早く死んでしまえばいい」
神の住まう神域で生まれたはずの少女はヘカトンケイルとしての特徴をほとんど有していなかった。迫害に次ぐ迫害に遭ったが少女は死ななかった。否、死ねなかった。小さな身体であっても生命力は他の者と同等であったのだ。
「……」
「まだ死んでおらなんだか、無駄に長生きをされても見苦しい。何より、神域を穢されるのは我慢ならぬ」
少女は人間と人間より派生した者達の生きる下界へと捨てられた。超高度よりの落下でも少女は死なず、また傷を負うこともなかった。
「……」
「死体……ではないな、稼ぎの足しになればいいが」
人形のような少女は奴隷商に拾われた。【底】に流れ着くまでそう時間はかからなかった。ヘカトンケイル種であることを前面に押し出し、引っかかったものに押し付ける。そういう手口だった。そもそも神族を隷属させたなどと知れれば、他の神族より滅ぼされることも十分に考えられることであり長く手元におく事はただリスクでしかなかったのだ。
「くち、なし」
少女はそのような経緯でウツロウという男に買われた。だが、ウツロウはクチナシという名前を与えるとすぐに崖から飛び降りて死んでしまった。
「……」
ウツロウは知らない。神族が名前をもらうという事にどれほどの意味があるのか。ウツロウは分からない。今までただの一度も愛されず、ほんの一欠片ほどの優しさにも触れてこなかった少女に笑いかけ頭を撫でるという行為がなにを呼び覚ますのかを。
「……」
芽生かけた何かをくれた恩人が、クチナシの目の前で自ら命を失った。もう一度砕かれた心はもうなにも感じない、この時点で言われるがままに動くだけの肉人形とクチナシは成り果てた。
「よう、遅かったな?」
クチナシの目の前にはもう一度ウツロウが現れた、死んでいないどころか欠損したはずの目と腕が普通に付いている。愚者のサイコロさえもその手にある。ウツロウは何も失わずにクチナシを手に入れていた。
「改めて自己紹介しようか、俺はウツロウ。ペテン師だ」
クチナシにはペテン師という意味がわからない。ただ、今までのどんな経験よりも衝撃を受けたのだけは確かだった。
「ウツ……ロウ?」
「ああ、さっきは悪かったな。俺が死んだ事にしないと【底】の連中に追っかけ回されるハメになるからな」
「死んだ……こと」
「あー、薄々わかってたけど。もしかして話せないのか?」
「話せ、な?」
クチナシは言葉を教えられたことがない、つまり言語というものを使えない。産まれてから約50年ほど経過しているがこれまでまとも話しかけられたことなどなかったのだ。物として扱われてきた人生に言葉は不要、心もまた必要の無いものだった。
「1から教えるのも良いけどな……どうしたもんか」
ウツロウが少しだけ困った顔をする。その瞬間にフラッシュバックするのはウツロウが崖下へと消える光景と出来損ないとして扱われた記憶。言語化出来ない意識下でクチナシは心の底から恐怖する。同族に捨てられるのは良い、もう慣れていた。だが、ウツロウから捨てられるとしたら? それを思うだけでクチナシの全身は全霊を賭して稼働する。
「どうしたクチナシ? 具合でもあつっ!?」
震え始めたクチナシの額は、触れた手が火傷するほどの高熱を持っていた。およそ人であれば死ぬであろう体温である。全身から湯気出始めている、このままでは着ているぼろ布すら発火しかねない。
「バアさん水だ!! 今すぐ冷やせ!!」
「ああ、分かったよ!! あとお前も手伝いな!!」
「おうよ!!」
外にある井戸から水を汲み、大急ぎでクチナシにぶちまけた。水は一瞬で蒸発し爆発的増した体積によって周りのものを吹き飛ばした。
「どわあああ!?」
ウツロウが踏ん張りきれず転がっていく、なんとか立ち上がった時にはクチナシの熱は収まったようであった。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫、俺、は、役に立つから、腕は2本しかないけど、頭も、1つしか、ないけど、役に、立つから、捨て、ないで、ウツロウ」
「……おいおいおい、どういうことだよ。今、覚えたってのか」
「分か、る、ように、なった。俺、捨てられない?」
「おいおい馬鹿言うんじゃねえ、俺はお前が必要だから【底】の奴ら騙くらかしてまでここまで引っ張って来たんだ。腕が2本? 頭が1つ? 何の問題もねえさ、そういうクチナシだから俺に必要なんだよ。居なくなられちゃ俺が困る」
「っ!?」
理由は分からなかった、だがクチナシはただ涙を流す。
「泣くな泣くな、女の涙にゃあ弱いんだ俺は」
「お、れ、はじめて、居て良いって、言われた、から」
「……そうか、お前も散々な目に遭ったんだな。それも今日までだクチナシ。お前は今日から俺と一緒にアルカナの遺産を探すんだ、そんで世界を手に入れようぜ!!」
「うん……うん……!!」
「あと言いにくいんだけどな」
「?」
「一応女の子なんだから、俺じゃなくて私って言おうな? 多分俺の真似だからそうなったんだと思うけどよ」
「クチナシは、俺じゃなくて私?」
「まあ、強制はしないさ」
「……じゃあ、クチナシはクチナシ」
「うん?」
「クチナシはクチナシのことをクチナシって言う」
「……まあ良いんじゃないか」
よく分からなかったが、とりあえずはクチナシが俺と言うことを阻止できたっぽいのでOKを出すことにしたウツロウであった。
「クチナシはウツロウに許して欲しい事がある」
「なんだ?」
「これ」
クチナシが指さしたのは右の拳である。
「これ?」
「これをウツロウにぶつける」
「なぁんで!?」
「なんとなくそうしたい」
「あれ、怒ってらっしゃる? もしかしなくても怒ってらっしゃるの!?」
「分からない、でもウツロウがクチナシの前から消えた時ここが痛かった。今もそう、そしたらこれをウツロウにぶつけたくなった」
クチナシが押さえているのは胸であった。何とは言わないがまだまだ発展途上である。
「……バアさん助けてくれ、このままじゃ俺が死ぬ」
「ああん? 純真無垢な女の子を誑かしておいて1発殴られるだけで良いなら安いもんだろう? なあ、ウツ坊?」
「ダウお姉様!! 助けてください!!」
ダウと呼ばれた老女がイスに座って煙草のようなものをふかす、聖職者のようだった雰囲気が瞬く間に消え失せ裏家業の匂いがプンプンと漂い始めている。
「はん? 都合の良いときだけ甘えるんじゃないよ。いっぺん死にな」
「畜生!!」
「さぁクチナシちゃん、思い切っていきな。大丈夫さ、一通り仕込んであるあるから死にゃしないさ」
「ウツロウ、良い?」
「くぅ……分かったよ。覚悟を決めたぜ……ひと思いにやってくれ。それでクチナシの気が晴れるなら安いもんだ」
「それじゃあやるね」
「もう少し躊躇しても良いんじゃないかな!!?」
迷いなく振りかぶられた拳がウツロウの顔面を捉えることはなかった。その代わりにぎゅっと何かに包まれる感触だけがあった。
「あ、れ?」
「あったかい」
クチナシはウツロウに抱きついて頬をすりつけていた。それはマーキングに相当する行為であったがクチナシは無意識である。
「はい」
「はい、ってえと?」
「ウツロウもやって」
「……分かったよ」
覚悟を決めたと言ってしまった手前、やらないわけにもいかずウツロウもクチナシを抱きしめる。思った以上にしっかりとした骨格に少しだけ驚くが特に人間と変わるようなところはなかった。
「もっと強く」
「これくらいか?」
「ううん、もっともっと」
「ふぐぐぐ……!! これ、くらいか!!」
「もっと、クチナシの形が変わるくらい」
「ふんぎぎぎぎ!!!」
「えへへ……良い感じ」
クチナシは力の限り抱きしめられる事に不思議な安堵感を覚えた、加えて自分がウツロウの1部になったような気がして気分が高揚していた。その顔は艶めかしい女の顔であったが必死で抱きしめているウツロウはそれに気づかない。
「なるほどねぇ……ウツ坊、ちゃんと幸せにしてやるんだよ」
「ふんぎぎぎ!! ああ!? なんだってバアさん!?」
「いんや、あんたにも分かるときが来るさ。そう遠くない内にね」