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アルビオンの用心棒  作者: adalwolf
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追憶


  

 某日、メイソン邸にて、


 『黒胡椒の準備は完了 取引も予定通りの方法で』


 アドルファスは一枚の紙きれに鋭い眼光を向けていた。以前知り合いの貴族に孫娘へと贈り物として渡された人形、その箱と蓋の間に挟まっていた物だ。

 品名が書かれた通りではないことも、それが真に意味する品物も、慧眼の老人には分かっていた。

 紙きれは暖炉の火にくべられ、アドルファスはもう一つの書状を手に取った。こちらはそこそこ上等な羊皮紙で、すでに切られている封蝋に刻印の類は見当たらない。書き出しには、『この書状にて、敬愛する仲間達への裏切りと告発をお伝えする』とあった。

「……裏切り、か」

 神妙な面持ちのアドルファスの耳に、

『アドルファス様。よろしいでしょうか?』

馴染みの声と扉を叩く音が聞こえた。書状を引き出しにしまってから了承を伝え、レイが部屋へと入ってきた。

「アドルファス様、三日後の一斉捜索についてご報告が」

「そうか。……掛けなさい」

「はっ」


「……ということになり、彼らの担当は東部にまとめられることになりました。騎士会の代表者が事前に顔見せに来るとのことで」

「そうか。頭数を揃えられたのならそれでいい。せめて都市部の治安だけでも浄化したいものだ」

「これまでにない大規模な活動になります。アドルファス様旗下の憲兵だけでは足りず、聖堂騎士会にまで助力を乞うことになろうとは」

「あそこの伯爵には少しばかり貸しがあってな。それを返してもらう。貴様にも存分に働いてもらうことになるぞ」

「分かっております。我が名誉のすべてにかけて、ご期待に応えてみせます」

 真剣さ以外何も感じられないレイに、アドルファスは心強く思う反面どこか寂しそうにも見える表情を浮かべた。

「それでは私はこれで」

「まあ待て。たまにはゆっくり話そうと思っていたところだ」

「は?」

 アドルファスは棚にあったワインボトルとガラスのカップ二つを取り出しテーブルの上に置いた。その両方に、レイは困惑交じりに狼狽して、

「よ、よろしいのですか? 私が、こんな」

 貴重なガラス製のカップは金で縁取りが施され、ワインは輸入物のリザーブだ。どちらも一般庶民が手を出せるような代物ではない。

「以前カップも込みでヘイゼルウッドから贈られた物だ。機会がなく開けずじまいだったが、今開けるとしよう」

「し、しかし」

「今年で五年になるか。お前が家に来て」

「……はい」

 赤黒い酒を注いだカップを、アドルファスは黙祷するように無言で掲げた。

「最近はどうだ?」

「どう、と言われますと?」

「お前とは仕事の話以外あまりせぬからな。まあ年寄りの朴念仁相手に話題を探すのも煩わしかろうが」

「そ、そのようなことは!」

「時にレイナー」

「はい?」

「以前、お前が町外れの丘で年若いお嬢さんと語らっているのを見かけたと小耳に挟んだのだが、よき仲か?」

「い、いったい誰から!」

「他の団員達が話しておった。彼奴等が妬むほどの美女であったそうだが」

 面白いように赤面するレイナーに、アドルファスは口を潤わせてから、

「気が早いようだが、もし婚姻を望んでいるのであれば、私としては歓迎するのだが」

 軽く冷やかしたつもりでいたアドルファスだったが、レイはどこか悲しげに笑った。

「それは、……早々にはありえないかと」

「何故だ? 私に遠慮しているのなら」

「そうではありません」

 そうすべき箇所をきっちり否定してから、レイは理由を語った。

「身分違い、なのです。彼女は爵位を持つ良家の令嬢。アドルファス様の庇護を受けているとはいえ私は一介の憲兵に過ぎません。今の私に彼女を迎えることなど、とても」

「……そうか。ならば例の話、考え直してはみぬか」

「いけませんアドルファス様! 私如きがこの家に名を連ねるなど」

「だがな、知っての通り我が家は娘ばかりで男児に恵まれなんだ。この家で過ごして五年になるお前ならもはや家族同然。私の後を継ぐとしても」

「いえ、それではお嬢様方は元より、すでに婿入りされたジョエル様のお立場がありません。それでもしアドルファス様との関係にひびが入るようなことにでもなれば」

「しかし」

「ご安心下さい。たとえ同格の爵位など望むべくもなくとも、大きな手柄で名を立てることができれば望みも見えてきます。誰の後ろ盾にも依らず堂々と自らの力を以って迎えに行ってこそ、彼女も喜んでくれるはずです」

「……そうか。そこまで覚悟しておるのなら、何も言うまい」

 諦めたように口をつぐんだアドルファスに、レイはその目を真っ直ぐ見据えて言う。

「アドルファス様の過分なお引き立てには、このレイナー、もう十分お世話になりました。母を亡くし浮浪児として生きていくしかなかった私を引き取って下さったこと、能も学もなかった私に剣を教え書を学ばせて下さったこと、心より感謝しております。その御恩に報いるためにも、次の一掃作戦、全力で挑ませていただきます」


 

「〝御恩〟か……」

 レイが去った部屋で、アドルファスは中身を飲み干されたカップを見つめた。ボトルに残っていた全部を自分のカップに注ぎ、暖炉の前の椅子に腰掛ける。

「もう五年か、まだ五年か」

 たとえそれが十年であれ二十年であれ、彼には昨日のことのように思い出せた。顔を照らす炎に映るほどに、その光景はありありと脳裏に焼けついて離れずにいる。


 母さん! 母さんッ!


 目の前で母親を殺され、その亡骸に縋りつく少年の姿。


 なんだと……!


 駆けつけた自分に向けられた、今にもすべて崩れてしまいそうな壊れかけの泣き顔。胸を、心を砕くような絶望の表情。


 心より感謝しております。


 せめてもと引き取り不器用ながらも我が子のつもりで育てた、立派に成長した元少年の言葉。

「礼など、言うな……!」

 カップが割れてしまうほどに握りしめられ、まるで心情を映したかのように、ワインの水面が波立った。

「お前が、私に礼など、言ってくれるな……」

たとえ一人の時でも分別を弁える彼にしては珍しく、葡萄酒は一息に飲み干された。



「見えるかい? あのちょっと古めかしい石造りの大きな建物」

 道に止めた馬車の窓、そこから外を眺めるエドが聞く。鳴河の答えは、

「お前が邪魔で見えん」

「あ、悪い悪い」

「あれが次の標的か」

「え? 違う違う。あれはただの娼館」

「ショウカン、女郎宿か」

「聖書の時代から続く由緒正しき産業だよ。その中でもあそこは別格中の別格」

「というと?」

「貴族御用達で下々の皆さまお断りの高級娼館。女の子はドレス姿で夜会を舞えば男どもの視線を独占できるほどの上玉ぞろいで、プライバシーの保護も万全。万一知り合いに会っても気づかないフリをするのが暗黙の了解。ちなみに奥様方に踏み込まれた時のための秘密の抜け道も完備」

「詳しいな」

 売り子のような口調だったエドが懐かしそうに、

「十六の時にドラコ達と一緒に行って、年上のお姉さんに優しくしてもらってねぇ。まあバレてメイソン卿に説教喰らったけど。あのお姉さんどうしてるかなぁ。よくよく考えてみれば僕が年上好きになったきっかけだしねぇ」

「…………」

「……もうちょっと絡んできてよ」

 無反応だった鳴河にエドが不満そうにしたが、

「お前の体験談や女の趣味なぞ興味はない」

 返事はつれないものだった。

「それで、肝心の〝仕事場〟はどこなんだ?」

「通りを挟んだ向かい側の、三つ奥の建物」

「ずいぶんボロいな」

「一応無人、ってことになってるけど、」

「実際には悪漢の溜まり場か」

「酒の密造にオピウムって薬物、東洋では阿片とか阿芙蓉っていうんだっけ? その栽培製造販売、あと攫ってきた女の子に客を取らせる非合法売春等々、あくどい商売を手広く繰り広げる連中だよ。もっともあそこにいるのはその中でも密造酒に力を入れてるみたいでね。地下のボイラーで安い酒を乱造してるって話さ」

「例の〝一手間〟か」


 昨夜のこと、執務室へと呼び出された鳴河は、そこである男と会っていた。

 細身でなよなよした印象を与える眼鏡の男で、

「紹介するよ。友達のハム」

「ははみ、ハミルトン・マクベスです。よろしく」

「ああ」

 差し出した手をするりと流され、ハムは気まずそうに苦笑いを浮かべた。

「だから、日ノ本には握手で挨拶する習慣がないんだって」

「そ、そうでした。し、しつつ、失礼しました」

「べつに欠礼というわけではない」

 わざとやっているのではないかと疑うほど怯えて謝罪したハムに、鳴河は元から鋭い目をさらに細めて、

「確か、港にいたな」

「え? ああっ、こないだの……。確かにいましたよ。アルテミシア様に依頼されてぎょ、御者の手配を」

「お前の友人ということは、貴族か」

「当主の御父上がそうだね」

「貴族、に含まれますかね? 所詮は騎士(ナイト)、いい、一代限りの爵位ですよ。父は準男爵(バロネット)目指して奮戦中ですが」

 自嘲気味なハムに、鳴河はひとまず話を切り上げ、

「それで、俺に何か用だったか?」

「そうそう。君に仕事を頼みたいんだ」

「なんだ?」

「ドラコ達と一緒の時に話したろ? ラム酒で利益を出すための一手間が残ってるって」

「それは聞いているが、具体的に何をする?」

「街の治安回復に努めてもらいま~す」

「は?」

 わけが分からないと不快そうな顔をする鳴河に、エドはハムに顔を寄せて、

「ねっ? 冗談とかその手の言い回しが通じてないでしょ?」

「少し回りくどすぎたというか、はな、話が見えづらかったんでしょう」

「じゃあもう一から説明するけど、数日後、アドルファス卿が大々的な犯罪撲滅キャンペーンを行うことになっててね」

「きゃんぺーん?」

「街中の犯罪者を片っ端から粛清しちゃおう大作戦」

「まだ見えんな」

「昔から真面目なお方でね。『真っ当に生きる人々が犯罪に怯えることなく平穏無事に過ごせる環境を』なんて賢王みたいなことを本気でお求めになる御人だったんだよ。まだ実績も権限もない頃からその手のことに熱心で、上位の方々に長いこと働きかけて、数年前に市中警備のための憲兵団を創設したってわけ。けど規模はそれほどでもないし、予算だって大してもらえてない。だからできることにも限りがあったんだけど、」

「こ、ここか、今回は複数の犯罪組織を同時にか、壊滅せしめるおつもりらしく、他の貴族から寄付を募り、それで聖堂騎士に協力を取りつけたそうです」

「お前も寄付を?」

「まあね」

「意外だな。お前が市井の平和に熱心だったとは」

「まっさか」

 本気で意外そうだった鳴河に、エドは顔の前で手を振って否定した。

「そりゃあ街が平和な方がウチの商品も売れやすいだろうけど、普段だったら全然全くこれっぽちも興味を示さないよ。そもそもこの国には問題が多すぎてね。どこを見ても不安材料の山さ。他国との関係は冷え込むわ、政府は資金難に陥るわ、囲い込みで貧困層が溢れかえるわ」

「すしゅ、宗教的な対立も多いですからね」

「宗教戦争か?」

「そんな大それたモノじゃないよ。カトリックに清教徒に英国教。異なる宗派が常にいがみ合ってるってだけさ。まあ決して平和的ではないけどね」

「記憶違いでなければ、それらは全部同じ宗教でなかったか?」

「認識が足りてないね。元をたどれば同じ信仰なんだろうけど、崇拝の仕方とか免罪符に関してとか、聖母の方を崇めるかただの人とするか、いろんな理由で分裂したのさ。最大手はカトリックのはずなんだけど、イングランドではまた違ってね。英国教に至っては成り立ちが離婚問題だ。『九日女王』を入れて前の前の前の前の前の王様が王妃様と別れたくて婚姻の無効を願い出たら却下されて、国王至上法を以って自らを頂点とした英国聖公会を作り上げ、気ままに六回も結婚して、教会の財産も自由にしたんだ。信じられるかい?」

「そ、その辺は他にも諸問題を抱えていましたからね。分裂を決定的にしたのが彼であっただけで、おお、王権と教皇権に関する争いは前々からありましたし。もっとも分裂した後もカトリックとしての信仰は持ち続けていたそうですが」

「でもって女王陛下の後を継いだ現王ジェームス一世、この人元はカトリック信者だったはずなんだけど、去年の会議で英国国教の守護とカトリック及び清教徒の排除を宣言して、両方から嫌われてね。おかげで不穏な噂が絶えないんだ」

「手の合わせ方一つでそこまで揉めるか。拝む神は同じだろうに」

「実際にはもっと色々事情があるんだろうけど、無宗教の僕から見れば面倒臭いだけさ。まとにかく、今のイングランドはそういった問題抱えまくりで、それを一度に解決するなんてのは無理な話。メイソン卿だってそこまで夢想家じゃないけれど、せめて手近なところだけでもって思ってるんだろう」

 思うところがありそうな顔をして言ったエドが、

「話を戻すけど、今度の件で不穏の輩が一掃されれば奴らの作るわりと膨大な量の密造酒も流通しなくなる。となると普段はその手の安酒しか飲まなかった連中も正規品を買わざるを得なくなるってわけさ。多少高くてもね」

「需要と供給というやつか」

「そういうこと。需要は変わらないのに安酒の供給が減れば他の値が上がる。上げても文句が出にくくなる。普段よりだいぶ高い値をつけてもみんな買い漁るさ。浮世の憂さを酒で晴らした人間は、二度とそれを手放せなくなる。何故ならいつの世も市井は絶えることのない不満と不安で満ちているのだから」

「そのために、俺に悪党どもの殲滅を手伝えと」

 芝居がかった言い回しのエドに鳴河が聞いて、

「〝得意分野〟だろう?」

 雇い主は意地の悪い笑みを浮かべた。


 偵察を終え屋敷に戻った後、

「屋内での斬り合いならこれが要るか」

鳴河は荷物の中から二振りの刀を取り出していた。英国に渡ってからは一度も使うことのなかった脇差だ。

 呼び名は同一だが、大きさはかなりの差異がある。一方は刃渡りが肩からピンと伸ばした指先ほどまであり、反りは浅い。もう一方はその半分もない短さで、刀身の中ほどから先すべてが切っ先で反りの深い異形の造りをしていた。

だがいくら見た目に違いがあろうとも、その用途に変わりはない。戦のための、人を斬るための、殺めるための道具達。普段使いと合わせて三振り、一つとして血に汚れていない物はない。

 

 人を斬ったんだね、大和……。


「……ええ師匠。数えきれないほどに」

 かつての、最初の師へと鳴河が呟いた。行き倒れ同然の鳴河を救った、剣の基礎を教えた男の姿を、鳴河は磨き抜かれた刀身に思い浮かべた。



「戦に出たい?」

 常日頃穏やかな表情を崩すことのない男が、弟子の言葉に目を丸くした。元服前の、まだ十四の少年は、十年後とまるで変わらない鋭い目つきで、

「この乱世でどこの馬の骨とも知れない、学もなければ家柄もないガキが名を上げようと思ったら、そうするしかない」

「んー、まあそりゃ確かにそうだし、そもそも剣術ってのは人を斬るための業なんだけど」

「反対だと?」

「そうじゃないよ。僕が教えたことを何に使おうとキミの自由だ。けどねぇ、」

「?」

「もし人を斬るために剣を学びに来たのなら、間違った師を選んだね」

 ますます怪訝そうにする少年に、男は笑いながら言う。

「なんせ僕、人を斬ったことなんて一度もないから」

「一度も?」

「一度たりとも。初めて剣を握ってからもう三十年近くかな? 殺したこともないし、斬りつけたことさえない。普段から真剣じゃなくて木刀持ち歩いてるだろう?」

「新当流……。師匠は、実戦剣術を学んだはずでは?」

「そうだよ。キミと同じく身寄りもなく彷徨って行き倒れたのを救ってもらってね。それから十年以上道場で学ばせてもらってた。その師匠の教えでもあるんだ。『剣術の極みとは、即ち刀を抜かずに相手を制すること』だってね。研鑽を積んだ真の強者なら、鞘に納めたままの刀でも相手を圧倒できる。それが真の剣聖、一流の使い手というものだ」

「刀を収めたまま……」

「……なんて、格好つけたことを言ってはみたが僕の場合は違う。単純に怖いだけさ。人を斬るのが、斬ってしまうのがね。斬ってしまって、あの目になってしまうのが、僕は怖くて仕方ないんだ」

「あの目?」

 遠くを見ているようだった男が、その視線を伏せて言う。

「僕の両親はね、子供の頃に殺されてしまったんだ。どこの誰とも知れない辻斬りに、恨みなんて買っているはずもなかったのに、問答無用さ。僕は、僕だけは母の機転で川へと放り投げられて難を逃れたんだけど、宙を舞っている間に見てしまったんだ。辻斬りの目をね。人のモノとは思えないが、かといって獣のそれともまるで違う。人だけが至る人でない何かの目。その後鹿島の道場に流れ着いて剣を修めたが、いざ真剣を振るおうとすると怖くなってしまったんだ。この刀で誰かを斬ってしまった時、僕もあの辻斬りと同じ目になってしまうんじゃないか、ってね」

「…………」

「それから師匠の元を離れて故郷に戻ってきたわけだけど、真剣での斬り合いをやったことがない上にすべての機会を避けてきた僕に弟子なんてできるわけがなくてね。見ての通り、山の中のあばら家で畑と(とり)の世話をしながらその日暮らしさ。きっとキミが最初で最後の弟子かな」

 弟子の頭を叩きながら、男は縁側から腰を上げて、

「さ、素振りの時間だ」

「また素振りか」

「基本をおろそかにするのはよくないよ。墨の磨り方や筆の握りも知らぬ者がよい字を書けるわけがない。剣の道も同じだ」


 道場、などないただの開けた空間で、二人分の素振りの音が響く。

「そもそも素振りをただの準備運動だと思っている者に剣の道を語る資格はない。これは決して儀礼的に行うものではなく、何千何万と繰り返し振ることで刀と一体となるための、刀を自分の体の一部のように扱うための鍛錬だ。足も腰も背も腹も肩も腕も、すべてを一体とすることで、それらすべてをただ得物を振るうために一体化させることで剣の道は開かれる。前に見せた技もそうして会得したものだ」

 〝前に見せた技〟というのは、一月ほど前に男が披露したものだ。庭から離れた山の中、そこにあった大岩の前で男は不動で気を練り、

「っ!」

 身心の充実を以って、刀を振り下ろした。その時の、言葉では例えようのない異様な唸りと、

「……!」

 何より斬りつけられた岩の有り様に、少年はそれまでの十四年で一番の驚愕を見せていた。声こそ上げなかったが、あまりの昂りに〝出なかった〟と言う方が正しい。

 頑強なはずの岩に、切り込みが入っていた。およそ一寸、人体であれば重傷となる深さだ。

 岩石を斬ったこともそうだが、何より少年を圧倒したのは、

「なん、で、木刀で……」

 師の振るう剣が、木製だというところにあった。

「剣を振る速さと、刃を走らせる速さ。その二つが合わさることにより、刀は音を超えて獲物を斬る。そうなった時、目には見えない刃が生まれる」

「見えない、刃……?」

「って、師匠にはそう教わったけど、僕もよく分からないんだ。『できるからできる』としか言いようがないね」

「俺にも、できるのか……? できるように、なるか?」

 弟子の問いに、師は微笑むばかりで答えなかった。


「そう、だ。俺は、ああいう、技を」

 弟子とともに一切の乱れなく規則正しく木刀を振るう男が話を続ける。

「達人というのは多くの技を持つ者のことではない。無限に繰り返すことで基礎が奥義へと昇華される、それが達人の域というものだ。僕の師匠がそうだった。『相手の太刀先が体から一寸離れていれば動じず見捨て、五分を切るならばこちらから斬り込め』。一つの太刀。あの人は本当に、その身に神でも宿しているんじゃないかって疑いたくなるよ。それができるくらい剣を極めていればそりゃ小手先の技なんて要らないはずさ。だろう?」

「そういう、ものか……」

 息が上がって返事どころではない弟子の、それでも必死に振り続けるその姿に、男は満足そうに素振りを続けた。


「そこまで。休みなさい」

 だいぶ経ってからの師匠の言葉に、弟子はこと切れるように倒れた。土の上で荒く息を吐きながら、

「あんたの、素振りは、長すぎる……」

「ふっふーん。まだまだだねぇ、愛弟子君」

「…………。いや、」

 伏したままの呆れた目、その眼差しの先で、

「あんたの、足も、震えているんだが?」

「……実を言うと、もう立ってるのも限界だったりする。こう見えて僕もう四十(しじゅう)だからね」

 半笑いで言い終える前に、男は尻餅をつくように座り込んだ。弟子と同じく息を切らし、

「あはは。素振りだけで一日が終わってしまったねぇ」

「笑い事では……」

「キミが弱音を吐かないからさ、年甲斐もなくムキになって張り合ってしまったよ」

 アハハと笑う師匠に。弟子は大きく溜め息を吐いた。


「さて、夕餉の支度を、ん? 手をどうした?」

「肉刺が潰れた」

「うわぁ、痛そ」

「誰のせいだと思ってる」

「薬を取って来よう。井戸水で傷を洗ってきなさい」

 師匠の男は持ってきた竹製の小物入れから傷薬を取り出し、それを塗った布を幹部に当てて別の布を巻き始めた。丁寧に巻きながら、男は悲しげに、

「もしも、もしも人を斬ってしまったら、弟子の手を取るこの両の手も冷たくなってしまうのだろうかね」

「師匠……」

「これでよし。夕餉は僕が作るから、キミは手を休めていなさい」

「手伝うくらいならこの手でも」

「無理をすれば治りが遅くなる。明日も一日中素振りがしたいなら、じっとしているんだよ、大和」

 そう言って(くりや)へと歩いていく師匠の背に、弟子の少年は小さく呟いた。

(師匠、あんたの手は、温かいよ)



「ナルガ?」

「! セシル嬢か」

 背後から声を掛けられ振り返った鳴河に、その素早さに驚いたセシルが、

「今日もお勉強、する?」

「そうだな。またお願いしよう」

「うん!」


「それでね、『CECIL』でセシル。『HAZLEWOOD』でヘイゼルウッドって読むの」

「なるほど」

「ナルガの字は? 日ノ本ではどう書くの?」

「字はこうだ。『鳴』とは獣が声を出すという意味の他に『音が出る』という意味もある。『河』はリバー、河川のことだ」

 ペンを借りて書いてみせた鳴河に、セシルが訊ねる。

名字(ファミリーネーム)はなんていうの?」

「ファミリー……、氏のことか」

「あっ、ひょっとして『ナルガ』が姓なの?」

「いいや。『鳴河』は本名ではない。師匠にもらった名だ」

「じゃあ、本当のお名前はなんていうの?」

 なんてことのない問いに、鳴河は一瞬詰まった。躊躇ったのでも拒んだのでもなく、

「……大和」

 まるでそうであったことを確認するように、その名を口にした。

「ヤマト?」

「日ノ本の古い名前だ。イスパニア人だった母がつけてくれたものだ」

「ナルガのお母さんイスパニアの人なの?」

「其方には話したことはなかったな」

 素直に驚きを見せるセシルが少し興奮気味に、

「セシル、ナルガの昔の話聞きたい」

「俺の?」

「うん。ウチに来る前のお話」

「話してもいいが、あまり面白いものでは」

「いいの! ナルガのこと知りたいの!」

 まじまじと見つめられ、鳴河はさほど迷わずに、

「承知した」


「俺の生まれは奥州、日ノ本の北の方にある土地で、そこの豪商の家に生まれた」

「お兄様みたいなの?」

「だいぶ趣は違うがな。ある日、海岸に一隻の船が漂着した。嵐で難破した商船で、母はそのたった一人の生き残りだった。海に投げ出されたか船の上で重傷を負ったか、他の乗員は皆死んだそうだ。寄る辺のない母を父が引き取り妾とした。やがて俺が産まれ、ほどなくして父は没し、母も病に伏した。そうなると俺の立場は微妙なものとなった。ただでさえ妾腹(めかけばら)である上に異人との混血。家督を継いだ兄等は俺という存在を持て余していた。そんな空気が嫌になって、母の死をきっかけに、俺は家を出た」

「どこかへ行っちゃったの?」

「ああ。その時家の名は捨てた。母が、混じった血やこの目のことで要らぬ迫害を受けぬようにと、少しでも日ノ本人らしくあるようにとつけてくれた名前だけを持って旅に出て、十日ともたずに野垂れ死にかけた」

「だ、大丈夫だったの?」

「そうでなければここに俺はいない」

「あ、そっか」

「とはいえ確かに死んでいてもおかしくはなかった。食い物を求めて街道を外れた山中に迷い込んで、空腹で倒れた所を師匠に拾われていなければな」

「お師匠さんって、どんな人?」

「可笑しな人だったよ。間違いなく腕が立つはずなのに優男に見えて、飄々として掴み所がなくて、人を煙に巻くのが得意で、」

「優しかった?」

 短い問いに、鳴河は一瞬返答に詰まった。ややあって、その目に穏やかな色を浮かべ、

「……ああ。強くて、優しい人だった」

「そっか。よかった」

 安堵して息を吐いたセシルに、鳴河は続ける。

「その人の元で俺は剣を学んだ。と言っても道場なんてない森の中だ。晴れた日はひたすら剣を振って、雨の日は読み書きを教わった。家を出たのは十二の時で、元服、十五になるまで教えを受けた。それからまた旅に出た。各地の流派を学ぶための、武者修行というやつだ」

「どうしてお師匠様の所にいなかったの? 優しい人、だったんでしょ?」

 心底不思議そうに聞くセシルに、鳴河はわずかに間を置いて答えた。

「師匠が、死んだからだ」



「あー、そこのキミ達?」

「あ?」

「なんだてめぇは」

 往来のど真ん中で飯屋の店主に絡んでいた浪人二人が、呑気な口調の男を赤ら顔で睨みつけた。まるで動じることのない男が、

「見たところ何処(いずこ)かの戦場から落ち延びた(つわもの)のようだが、こんな昼間から酔って老人に絡むなんてやめなさいよ、みっともない」

「てめぇなんぞの知ったことか! ヘラヘラした軟弱モンの素浪人が!」

 言われた男はともかく、その一言は男の同行人の逆鱗に触れた。師に連れられていた弟子の少年は一歩前に出て、

「偉そうに吼えるな。逃げ出した臆病者が」

「な、何だとガキ!」

「戦場で命を張った俺らによく言えたもんじゃねぇか!」

「命を張った? どこにも傷一つ負ってないその身でよく言えたもんじゃないか」

 顔や首筋はもちろん、巻くって留めた袖から覗く腕や覗く胸元、さらには部分的に身に着ける甲冑にさえ一切傷痕のない浪人達がバツの悪そうな顔をして、少年はさらに、

野伏(のぶせ)りにもなりきれない半端者が。負けたのなら死んでこい。今からでも行いを恥じて腹を切れ。それくらいの覚悟もないまま戦場を穢すな」

「く、こ、このガキ!」

 堪えきれなかった浪人の一人が刀を抜いて斬りかかり、まるでそれを待っていたように、弟子の少年も木刀を構えて迎え撃つ。浪人があと三歩という距離まで近づいた段で少年は一歩踏み出しながら木刀を振り、

「待ぁーった!」

 双方の剣を、師匠の男が止めた。それぞれの刀を握る手に左右の(てのひら)を当てて留めている。

(動、かねぇ)

 渾身を一振りを受けて微動だにしないその手に、浪人はただならぬものを感じて冷や汗をかいた。改めて男を見遣るが、

「はぁ。危なかった。どちらもやめなさい。こんな所で流血沙汰なんて」

 そう言った顔つきは、先ほどとまるで変わらぬ柔和なものだった。

「そちらも退きなさい。こんな子供を斬っても蔑まれこそすれ自慢にはなりますまい」

「……チッ、行くぞ」

 納得はできていないようだが、浪人は刀を収め去っていった。絡まれていた老人が礼を言って去り、

「キミも、なんでそう危ない目に遭いたがるかな? 実力を試したいのは分かるけど、喧嘩吹っかけるのはダメだと言ったはずだよ」

「然り。だから連中からかかってくるように仕向けた」

「それも禁止! キミが腕試ししたいというからわざわざ出稽古に来たというのに。これから好きなだけ相手できるんだから」

「そいつらとは、真剣でやるのではないんだろう?」

「どうしよ、ウチの弟子血の気が多すぎる……」


「よくぞいらした。さあさ、こちらへ」

 しばらく歩いて着いた大きな道場で、二人は道場主に歓待を受けた。もっとも弟子の方はすぐに試合の支度を始めて、腰を下ろしてくつろいだのは師匠だけであった。

「おお、やる気に満ちておりますな。では早速始めますかな」

「どうぞよろしくお願いします」

 師範同士が穏やかに言葉を交わす中、離れた位置にいた門下生達が、

「あれが森の中で暮らすという道場主か」

「道場主など名ばかりよ。農夫と大差ない暮らしだと聞いているぞ」

「先ほども往来で戦崩れの浪人に剣も抜かずにヘラヘラ笑っておったわ」

「そもそも木刀を持ち歩くなど、金のない貧乏侍が」

「あの弟子も大した腕ではあるまい」

「可愛がってやればよいわ」

 小声でそんなことを言って笑っていたのを、師匠の耳はしっかりと捉えていた。師匠は笑顔で、よく見ると若干引きつった笑顔で、木刀を手に体をほぐすように動かしていた弟子に訊ねる。

「……愛弟子君? 今の聞こえてた?」

「? 何のことだ」

「あ、いや聞こえなかったんならいいんだ」

(あーよかった。爆発したらどうしようかと思ったよ)

 心底安堵した師匠であったが、弟子はそこで終わらせなかった。

「時に師匠」

「ん?」

「この鍛錬で、万一人死にが出ても、問題にはなるまいな?」

 普段のそれに輪をかけて殺気に満ちた目の弟子に、

(やっぱ聞こえてたよ!)

「殺すのは、駄目だからね」

「……〝折る〟のは?」

「それも駄目! 骨折ったりとか二度と剣を握れなくなるような怪我負わせるのも禁止!」

「承知した」

「ホントに? キミ真顔のまま激昂するから怖いんだけど」

「あいつら、俺を大したことないなどとぬかした。他はともかくそれだけは許せん」

「そこはせめて僕の方を気にかけてよ……」

「誰にも悪くは言わせない」

 冗談めかして落ち込んだ師匠へと、少年は怖いほど真剣な眼差しで言う。

「俺は、あんたの育てた弟子だ」


 壁際に大勢が腰を下ろした道場の真ん中で、少年と対戦相手が向かい合った。間に入った立会人が両方の顔を窺って、

「それでは、始め!」

 合図とともに動きだした相手に、少年は同じ姿勢のままでいた。間近まで迫った相手が上段から力を込め振り下ろす、その直前の〝溜め〟を見逃さずに一歩踏み出し、横薙ぎの前段階のように構えた木刀の柄を喉笛に叩き込んだ。相手は柄の先を思いきり食い込ませ、息を詰まらせ木刀を落として倒れてしまった。その後も何度も咽て咳き込み、

「ぬぅっ!」

 その首へ少年の木刀が振り下ろされた。刀身が触れる程度で止めていたが、真剣ならば首を取られていたことだろう。そう実感させるために、切っ先でスッと首筋を撫でた。

「そ、それまで!」

 一瞬の決着に他の全員と同じく呆気に取られていた立会人が宣言し、倒れた門下生が引きずられていく。弟子の少年は嬉しそうな素振りさえ見せずに佇み、

「っはぁ……!」

 代わりに師匠が大きく息を吐いた。初戦からいきなり死人を出すのではと不安に駆られていたのだが、少なくとも一戦目は杞憂に終わった。

(頼むから、最後まで抑えておくれよ)


「さっきのは小僧だと油断していたようだが、俺はそうはいかんぞ」

 二人目の相手も先ほどのとあまり変わらなかった。どこがと言えば、弟子の少年を見くびっている点がだ。油断しなければそれで勝てると、特に理由もなく妄信し、

「始め!」

「?」

 合図を受けて構えを解いた少年に歯を軋ませた。

「舐めるなよガキが!」

 勇ましく吠え一歩を踏み出した門下生だったが、二歩目の前に動きを止めてしまった。眼帯をした少年の片方だけの目で睨まれ、竦んでしまったのだ。

「っ! ええい……」

 始めの勢いは完全に失せ、摺り足で一歩迫る。だがその足も全身から滲む剣気に圧されて留まり、代わりに少年の足が動いただけで逆に後退してしまった。

「おい引くなっ!」

「打ち込まんか!」

 当然他の門下生から野次が飛び、さらに正面から凄まじい剣幕で迫る少年を目の当たりにして、その相手は誤ったことをした。特に策も勝算もなく突っ込んだのだ。

 少年もまた動いた。十分に引きつけてから、こちらの動きに相手が対応しきれない距離までおびき寄せてから、素早く前に出た。

 ますます焦る男の豪快な横薙ぎ。まともに受けていれば得物を弾かれるか体制を崩すかしていただろうが、ならば避ければいいだけのこと。鳴河は姿勢を低くしながら相手の懐に入り込み、ガラ空きの胴へと横に倒した木刀を叩き込む、

「ぅ!」

 ように見せかけて、直前で力を抜いてそっと宛がった。押しつけたままするりと走らせ、

「ま、参った……」

 相手は敗北を認めた。


「一度目とはまるで剣筋が違いますな。あれが新当流の型で?」

「いやいや、僕はまだ彼に型など教えていませんよ。あれは完全に我流。最近は素振りの後に太刀合いをしているのですが、その時僕から一本取ろうと毎回工夫を凝らしてくるのです。知らず知らずのうちに、戦術を組み立てているんでしょうね」


「次!」

 三人目の門下生が立ち上がり、弟子の少年はわずかに眉根を寄せた。相手が得物を持っていなかったからだ。

「組手にてお願いいたす」

 丁寧だが決して畏まっても遜ってもいないその様に、少年は無言で頷きを返した。三度目にしてようやく、

(油断できない)

 そう思えたのだった。木刀を置いて、さらに眼帯も外した。対峙した少年の瞳の色合いに、対戦相手も他の門下生達も声を漏らしたが、

「……いざ」

 向かい合う男は乱されまいと呼吸を落ち着け、少年も静かに構えた。


「あの構えは?」

 半身の体勢で軽く握った左手を体の前に出し、同じく拳を握った右手を腋まで引いたその構えに道場主が訊ね、

「あれも我流です。見ての通り、後の先を取るためのもので、彼の得意分野ですよ」

「ほう。それは楽しみ」

 どこか含みのある道場主に、師匠の男は小さく、

「僕はちょっと不安ですけど。あの子は、相手が強ければ容赦なく(たが)を外すからなぁ」


 そんな心配をよそに試合は始まった。開始と同時に、

「っせぇえええええい!」

 気勢のこもった声を上げる対戦相手に、少年はまるで動じず歩を進めた。相手も摺り足で近づき間合いを計り合い、やがて機を得て先に仕掛けた。

 伸びてきた右腕を少年は左手で横に捌いた。同時に右拳が喉笛へと繰り出され、相手の男は身を引いて躱す。もしも喰らっていたならば初戦の男と同じく息が詰まり、その隙に決定打を打ち込まれていたことだろう。

 男はすぐさま蹴りを繰り出した。脇腹を狙った重たい蹴撃。少年はそれを重ねた両腕で威力を殺し、そのまま足を掴んで倒しにかかった。男は体勢を崩しかけたが、その体を捻って跳び、あっさり手を離した少年を振り解いてから倒れることなく着地した。


「あの図体で機敏ですな」

「組手に限っていえば、うちでも一、二の実力者です」

「なるほど。それはよい経験になります」


 互いに立て直し再び睨み合う。少年はまた同じ構えに戻り、相手の男も身構えたままにじり寄っていく。

(型は分かった。前に出した左腕で捌き右で突く。……ならば、)

 拳がぎりぎり届く位置まで来て、男は初撃と同じく右手を出した。当然少年の左手に阻まれたが、その感触はあまりにも軽かった。思った以上に左腕が動いて、さらには反撃のために右手も引いて、一瞬とはいえ体の正面がガラ空きになった。

 それを誘った相手は当然そこを突いてきた。利き手ではないが左の拳を見舞おうと繰り出し、寸前で顔面に打撃を受けた。

 少年の、相手の拳を払った左手の掌底が叩き込まれていた。こちらも利き手でない上に無理に放った一撃で重みはないが、命中したのは鼻の下、『人中』と呼ばれる急所であった。一切手加減のないその攻撃で生まれた激痛に、男は一瞬意識が逸れ次に対応できなかった。

 少年は半歩前に出て男の足に自分のをかけ、右の掌底を鳩尾へと、体を捻りながら打ち込んだ。同時にわずかだが足を引いて、相手を床に叩きつけた。

 (いとま)などまるで与えず、少年の左拳が相手の眉間へと打ち込まれた。寸止めされたそれに立会人が『それまで!』と宣言し、それを確かに聞いてから、少年は手を引いた。相手の男も納得していたようで、

「御見事!」

 『参った』ではなく、賞賛の言葉を送った。鼻血を垂らしたその顔つきは晴れ晴れとしたもので、

「……次は俺が!」

「いや俺だ!」

 あれほど少年を見下していた門下生達が、我こそはと嬉々として立ち上がった。


「ずいぶんかかってしまったねぇ」

 夕暮れはとうに過ぎすっかり暗くなった道で、師匠の男が笑って言った。

「キミも満足したろう? お望み通りの実戦だったんだ」

「あんたこそ、機嫌がいいな」

「そりゃあね、自慢の弟子を見せびらかしたんだ。気分もいいさ」

 借りた提灯を手にする師匠は確かに上機嫌で、

「いやまあ実を言うと一回くらい負けて、己の未熟さとかを知って大人しくなってくれないかなぁ、なんて考えたりもしたけどね」

「あんたそれでも師匠か」

 ムスッとした顔で見上げられた師匠だが、いつものように悪びれず笑いながら、

「師として、僕がキミに望むのは勝利なんかじゃない」

 今度は意外そうにする弟子へと、優しい口調で言う。

「キミの生存と、成長だ」

「…………。気には留めておく」

 視線を前へと戻した生意気な弟子に、師匠の男はその頭をぐしぐし撫でた。

「にしても疲れたろう? 休憩を挟んだとはいえ十五人抜きだ」

「歳の数だけ相手にしたが、あんたの長々とした素振りのおかげでバテてはいない」

「はっは。なら存分に感謝したまえ」

 ひとしきり笑った後、師匠はふと感慨深げに、

「大和ももう十五、元服か」

「つい三日前になったばかりだがな」

「……よし、キミは先に帰っていなさい」

 来た道のだいぶ先を見遣って、師匠が言った。

「? 用事でも」

「買い物をしてくる」

「買い物? こんな時間にか? 米も味噌もこの間買ったばかりで」

「酒だよ。〝戦勝祝い〟と、元服の祝いだ」

「俺は別に」

「僕も久々に飲みたいんだ。すぐ戻るから、はい提灯」

 そう言い残して酒屋のある方へと駆けだした師匠の背中に、弟子の少年は溜め息一つ進み始めて、

「…………」

 何か感じるものがあったか、もう一度振り返った。今し方見送った背中は闇の中に紛れ、もう見えない。

 不安にも似た言い知れぬ感覚に苛まれながらもあばら家へと戻った少年だったが、『すぐ戻る』と言ったはずの師匠は、半刻待っても戻ることはなかった。



「店主と話してたら遅くなってしまった。きっとぐちぐち文句言われるだろうなぁ」

 徳利を提げての帰り道、師匠の男はぼやきながら夜道を進んでいた。うすぼんやりの月明かりを頼りに、住まいへの帰路についたのだが、

「あれ? むこうは明るい……、っ!」

 進む先が赤く照らされているのを見て顔色を変えた。慌てて駆け出し、脳裏を過ぎった嫌な予感の的中を知った。すなわち、

「火事だぁ! 皆起きろ! 火事だぞ!」

 燃えていたのは両替商を営む一家の屋敷だった。そちらは漆喰の白壁であったが周辺には木造の家屋が密集し、今はまだ火は小さいが燃え広がれば大惨事は免れない。

「っ?」

 その屋敷から数人が跳び出してきた。てっきり屋敷の人間かと思ったが、駆け寄ろうとした男はそうでないことをすぐに理解した。

 一人を除く全員が頭巾や布で顔を隠し、恐らくは金品の詰まった木箱を抱えていた。そうでなかった一人は寝間着姿の女の子で、どう見ても悪漢である男の一人に無理矢理手を引かれている。その男だけは頭巾がズレて顔のほとんどが見えていた。

「誰か騒いでたぞ!」

「さっさとずらかれ!」

「おい、んなガキほっとけ!」

「そうはいくかい! こちとら面ァ見られてんだ。生かしておけるか! あの丁稚が余計な真似を」

「いいからさっさとやれよ!」

 喚き合う中で女の子を引き倒した男が刀を振り上げ、怯えて声も出せないでいる子供へと容赦なく振り落とした。刃先は涙の溜まった泣きっ面へと真っ直ぐ下り、


 ガキャッ!


「がっ!」

 投げつけられた徳利を顔面に喰らった男がよろめいて、(すんで)のところで顔を逸れた。

「なんだっ?」

 割れた徳利の中身が沁みる目を何とか開いた男が、暗がりから木刀を構え突っ込んでくる道着姿の男を捉え、次の瞬間には肩と脇腹に連撃を受けていた。師匠の男は痛みに刀を落とし悶絶する男のそばにいる女の子に、

「逃げなさい。できるだけ遠くへ!」

 そう叫んだが、怯えた少女は立つことさえできず、涙ながらに首を振るばかりだった。

「……ならば私の背に!」

「なんだてめぇは!」

「! こいつ昼間の!」

 盗賊の一人が言って、少女の前に出た師匠の男も気づく。

「ということはあの浪人が」

「しまっ……」

「ボケが! こいつもやっちまえ!」

 号令一下誰からともなく略奪品を捨て斬りかかったが、師匠の男はどの斬撃も躱しながら、頭以外の箇所を狙って木刀を叩き込んでいった。ただし背後の少女を気遣いながらの立ち回りを強いられ、積極的に打ち込むことができずに手をこまねいている。そうしているうちに生まれた隙を突いて悪漢の一人が刀を振り下ろし、

「くっ!」

受けた木刀を断って男の腕に浅くない傷を与えた。追撃を半分だけ残った木刀を投げて躱した男がすぐに退いて、代わりの得物にと初めにのした悪漢の刀を拾う。先ほど損じた木刀と違い鋼造りの、そう簡単には折れも曲がりもしない代物。その代わり、加減の仕方をわずかに間違えただけで致命傷を与えてしまう凶器でもある。

師匠の男の手が微動し、それが刀へも伝わった。悟られぬよう構え、かかってきた悪漢の初太刀を避けて間を空けずに反撃、

「……!」

 できなかった。間違いなく斬り込む余裕があったにもかかわらず刀を引き、相手が怪訝そうにしていた。

 手はまだ震えている。そうさせているのは刀を振るおうとした瞬間浮かんだ、かつて両親を殺した辻斬りの目。そこに重なった、同じ目をした自分の姿。

「何してる! 早くやっちまえ!」

 いきり立った悪漢達が次々と斬りかかるが、男は反撃せずただただ避け続け、それが叶わない時には、弟子にはできる限りするなと教えた受け太刀で凌いだ。刃を返せば、峰打ちならばともちろん考えはしたが、(やいば)を、()のついた刀を振るうということを心と体が拒絶していた。

 そうしているうちに押し込まれ、気づけばやや離れていたはずの少女がすぐ後ろにいる。下手に攻撃を躱せば巻き込みかねない位置取り。

 それでも容赦なく斬りつけてくる悪漢達に、男は決意を固め、彼らに背を向けた。



(師匠……!)

 翳る月明かりの下を、弟子の少年は走った。急を知らせに来た者を置き去りに、未だ燻る家屋など気にも留めずに、かつてないほどの速さで町の医院へと駆け抜けた。

「師匠っ!」

 戸を開き開口一番の絶叫。こちらを向く人だかりのむこうに、床に伏した見知った顔を見つけた。そちらも少年に気づき、

「こらこら……、こんな所でこんな時間に、大声を出す、もんじゃない……」

 いつものように軽口を叩いてこそいるが、その弱々しい声と全身を血の滲んだ布に覆われた痛ましい姿に、尋常でない状態であることはすぐに察せた。息を飲み一歩後退った少年が、まるで悪い夢でも見ているような表情を見せる。

「いったい、何が……」

「あはは……、情けないところを見せたね。いやまったく」

「そういうことでは!」

 おどけて笑う師匠へと怒鳴る少年だったが、

「っ?」

 直後その腕を掴まれて、驚きでそちらを見遣った。

 幼い少女が腕にしがみついていた。涙目で大きく首を横に振っている。

「そのお方は、娘を助けてくれたんです」

 少女の親らしい夫婦が感謝と申し訳なさが混ざった顔をして、ことの顛末を語った。



「なんだこりゃ! 火事か!」

「違う! 火つけだ! 押し入りどもが火ぃつけやがった!」

「おいあいつらか!」

「番所だ! 人呼んでこい!」

「それより火だ! 広がる前にまずは火を消せ!」

 火と大声で喚く盗賊とに、さすがに周辺の住人達が目を覚まし集まってきた。賊達もそれに気づき、

「おい、退くぞ!」

「クソッタレが!」

 悪態をついて退散していった。残されたのは燃える屋敷と、

「こいつ、一味の仲間か?」

 一人の男だけだった。そばには刀と割れた徳利。

「いや違う。例の剣客だ」

「村はずれのか? やられたのか?」

 住人達が首を傾げるのももっともで、全身切り傷や刺し傷だらけの男はうつ伏せるでも仰向けに倒れるでもなく、地に膝をつき体を丸めた姿勢でいたのだった。生気はまるで感じられず、無残な死に様に皆目を背ける。

「かよ! かよはっ?」

 そこへ聞こえた女の声。一同がそちらを、寝間着姿の男女を見て、

「両替屋! 無事だったか」

「待ってろよ。今ありったけの桶持って井戸に水汲みに行かせたとこだ」

「かよを! かよを見なかったか?」

「娘さんがどうしたんだ?」

「いないんだ! どこにも」

「まさかまだ中にっ?」

「いや違う! 逃げ出す前に屋敷中探した! 外にいるはずなんだ!」

 そう叫んだ父親の顔も手も火傷や煤だらけで、髪は少し焦げていた。

「まさかさらわれたのか?」

「くそっ!」

「おい馬鹿待て! どこへ行く気だ!」

「廃堂だ! 行商からそこに浮浪人どもがたむろしていると聞いた! あいつらに違いない!」

「落ち着け! お前さんが行ってどうなるもんでもない。番所に報せて」

「それまで待っていろと言うのか! あんな連中にかよを預けたまま!」

 住人と怒鳴り合う夫の脇で、妻は耐え切れずに泣き崩れてしまった。何人かがそちらを向いて、いたたまれない気持ちでふと、死体に気を取られた。皆が死んでいると思い込んでいたその体が一瞬動いたように見えたのだ。さらにすすり泣くような声まで聞こえて、不気味がる声が上がった。

 しかし夫婦だけはその声を聞き分けていた。パッと顔を上げ、

「……かよ?」

「……っ! おっとう?」

「かよ! かよか!」

 屈んだ父親の前で男の腕が上がり、中から探していた愛娘が這い出てきた。怯えきって涙で汚れた顔で父親の胸へと飛び込んでいく。

「おっとう! おっとう!」

「よく、よく無事で……」

 負けじと涙を流す父親に、少女は倒れたままの男を指して、

「この人がウチを守ってくれた……! 盗人が何度斬りつけてもずっとウチのこと」

「そうか、そうか……っ!」

 父親が亡骸に礼を言おうとして、その瞼が動く様に驚愕した。うっすらとだが目は開き、父親の腕の中にいる少女を認識して、

「…………」

 無事を見届け辛そうに微笑んだ後、再び瞼を下ろした。気を失って、力なく崩れた。

「い、医者だ! 荷車、いや戸板でも何でもいい! この人を運ぶのを手伝ってくれ!」



「そういうわけなんだ。どうお礼を言えばいいか……」

 涙ながらに話し終えた父親から視線を外し、弟子の少年は師匠を見た。

「娘さんが無事だっただけでも、この有り様になった甲斐があったというものですよ」

 いつもの調子で笑う師匠に、少年は険しい顔をして、

「……師匠は、助かるのか?」

「!」

 その場にいたほとんどが戦慄した。答えられる者はなく、少年は薬師を睨むように見ながら再び問う。

「この人は、生きられるのか?」

 見据える目に誤魔化しは無意味と悟ったのだろう。薬師は重たい口を開き、『こちらへ』と少年を奥へと連れて行こうとした。だが、

「ああ大丈夫ですよ。なんとなく、察していますから」

 師匠の男がそう言って、薬師は再び踵を返して答えを口にした。

「まず助かるまい。ひとまず止血はしたがだいぶ血が流れておる。臓腑の損傷も酷い。正直に言えば、今生きていることすら奇跡に近い」

「……まあ、でしょうね」

 率直な返答を師匠はあっさりと受け入れた。抗ったところでどうしようもないことではあったが。

「惜しいなぁ。成長した弟子と酒を酌み交わすの、けっこう憧れて……」

 また呑気な口調で言って、直後師匠の男は『うっ……!』と唸った。苦しそうな顔を見せた後急に静かになって、薬師が慌てて駆け寄った。首筋に手を当て、

「……気を失っただけじゃ。じゃがそう長くはもつまい。夜明けを迎えられれば僥倖じゃろう」

「そんな!」

 誰よりも狼狽した両替商の男に、薬師は黙って首を振った。

「ウチにあるどの薬を用いようとも、もはやどうしようもない」

「…………」

 誰もが顔を伏せる中、弟子の少年だけは悲哀とは別の感情を宿していた。無言のまま出口へと向かい、他の者が慌てて訊ねる。

「ど、どこへ……?」

「町外れの廃堂、だったな」

「ま、まさか」

 少年は応えず外へ出た。止めようとした者はもちろんいたが、背中越しでも伝わる熱を持った殺気に、『立ち入ってはいけない』と思い知らされてしまったのだ。


 僕はね、人を斬るのが怖いんだ……。


(俺は……)

 道すがら師匠の言葉を思い出した少年が、足元に転がる刀に気づいた。近くには割れた陶器の破片があって、ひと際大きな欠片には一口分の酒が残っていた。


 弟子と酒を酌み交わすの、けっこう憧れて……。


「…………」

 少年はかがみ、刀とともに拾い上げた欠片に溜まる酒を一気に呷った。破片は捨て刀を握りしめながら、再び歩き出す。


俺は、あんたのようにはなれない。


「くそっ、あのガキ、殺り損ねた」

「ガキの一人くらいいいじゃねぇか」

「バカヤロウ! 番所にでも駆けこまれたどうすんだ! 俺ぁ面割れてんだぞ!」

「あの薄暗がりだ。はっきり見えやしねぇだろ。だがまあずらかるにゃあ(はえ)ぇ方がいい。夜が明ける前にはここを出るぞ。そしたらしばらく遊んで暮らせらぁ」

「ちげぇねえ。ほれ、お前も飲んで落ち着けや」

「……ッチ。あの男がしゃしゃり出なきゃ万事うまく運んでたってのによう。刀も振れねぇ腰抜けの分際で」

 忌々しそうに酒をかっ喰らう男が椀を投げ捨てた、椀は戸板に当たり、直後、その戸が蹴破られた。

「なっ! 何だっ!」

突然のことに慌てふためく賊達の前で、抜身の刀のみを携えた、群青に煌めく瞳を鋭利にした少年が敷居を跨いだ。その目で軒並み動じている顔を見渡し、

「……どいつだ?」

「あ? なんだてめぇは!」

「今、師匠を腰抜けだとぬかしたのは、どいつだと聞いている」

「こいつ、あの野郎と一緒にいた」

「殺れ! やっちまえ!」

 まず飛び出たのは匕首(あいくち)を持った男だった。少年へと真っ直ぐ突っ込み、

「……分かった」

 わずかな動作で躱した少年に、流れるように脇腹を斬られた。一瞬のことに何も理解できていない顔のまま、振り向きざまの少年に首を刎ねられる。

「全員斬れと言うんだな」

「このガキ!」

 大柄の男が体格に負けぬ大振りな刀を振り上げた。力任せに振り下ろそうとしたが、

「あっ?」

 決して広くない室内で大雑把に剣を振れば当然何かしらの障害に当たるだろう。この場合は切っ先が梁に引っかかり、動きが止まってしまった。

対する少年は鍔のすぐ下を握って刀を短く持ち、師たる男の教え通り、木々の乱立する森の中での太刀合いで学んだ通り、体の一部のように器用に動かした。振りは小さいがそれでも走らせた刃の威力は凄まじく、大柄な男は太い腕と首を一度に失った。

同時にかかってきた三人目と四人目、その一方に少年は刀を投げた。予想外の攻撃に相手は狼狽え、捌けはしたものの体制を崩す。その隙に梁に食い込んでいた刀を抜きながら振り下ろし、正面の脳天を打撃。頭蓋にひびを入れた後刃を返し短く横向きに薙いだ。

 刎ねた首が落ちるより先にもう一人の元へ距離を詰める。ようやく持ち直した男が斬りつけてきたが左を前にした半身で躱し、逆手に持った刀を腹部に走らせた。男が斬られたと実感した瞬間には次の一撃が、逆手のまま切っ先が繰り出され首筋を反対側へと抜けた。

「な、なんだこのガキは……」

 最後の手下も胸を突かれて呆気なく殺され、体中に血を浴びた悪鬼のような少年が迫る。残った首領は得物を手にしてこそいたが、そこも含めて全身をガタガタ言わせていた。

「お前で最後か」

「ま、待て! も、もう十分殺()っただろう? 分け前をやる! いいや奪った分は全部やるよ! だから」

「……師匠の剣だ」

「……は?」

 命乞いを遮られた首領が意味が分からず困惑し、少年の相貌が歪んだ。

「これが、これが師匠の剣だ! お前達が腰抜けと罵った男の剣だ! お前達を滅したのは俺の、師匠に学んだ俺の剣だ!」

「ひっ!」

 初めて荒げられた声に、首領は追い立てられたように刀を振り上げ、ようとして先に手首を斬り落とされた。

「ぎゃあああああ!」

「師匠の、鳴河の剣に斃されたと、あの世で閻魔に告げろ」


 首を飛ばした最後の一薙ぎを終え、少年は刀を床に突き立てた。自分以外生きている者は誰もいない死体だらけの空間を冷めた瞳で眺め、

「…………」

 満足感など微塵もない、ここに着く前にはあったはずの激しい怒りさえ失くした空虚な気持ちを抱えて去っていった。



「! 戻ってきたぞ!」

「まさか、もう始末したのか……?」

 信じられないといった顔で迎えた男達だったが、返り血塗れの少年に疑念は確信に変わった。

 医院へと入った弟子の少年が師の傍らに腰を下ろし、何度か躊躇いを見せた後口を開いた。

「師匠……」

「……やあ」

 青ざめた顔で力なく返した師匠の男が弟子の両の目を見て、悟ったように瞼を伏せた。

「そうか……、人を斬ったんだね、大和。キミも、〝その目〟にしてしまったか」

「俺は、」

 一度言い淀んでから、弟子の少年は言い直した。

「俺は、あんたのようにはなれなかった。斬ることでしか、晴らせなかった」

「大和……」

「師匠の両親を殺した辻斬りと同じになった。怨みを晴らすために、人斬りを拒む師匠の剣で人を斬った。もう、あんたのようには生きられない……」

「いいんだよ。僕みたいになってはいけない。人を斬れないくせに剣以外なんにもできないような、矛盾に振り回されるような男になんて、なるべきじゃない」

「師匠」

「何も恥じることはない。キミはキミでいいんだ。思うがまま、教えた剣は好きに振るうといい」

 まるで遺言のように言う師匠に、少年は言葉を返せずうつむいていた。そんな少年の手を、師匠の男は力なく掴み、

「驚くほど、冷たいだろう?」

「……いや、あんたの手は、やっぱり温かい」

「そうかい? なら、大丈夫だ」

「?」

「人の手を温かいと思えるのなら、温もりが伝わっているのなら、それはキミが冷徹でない証だ。キミもまた温かいということなんだ。大丈夫、キミの手は、とても温かい」

「! 師匠……!」

 感極まり涙を溜める弟子へと、

「これを」

 師匠は布団の脇にあった書状を差し出した。懐に入れてあった物らしく、端にいくらか切り込みが入り血が滲んでいた。それらで読み取りづらいが、どうやら『紹介状』のようだった。

「鹿島の、僕が学んだ道場への推薦状だ。キミは僕なんかが指導できる器じゃない。師として道場も刀の一振りも残せなんだが、せめてこれくらいはしてあげたくてね。本当は、キミの元服を祝った後送り出すつもりでいたんだが、……ガハッ!」

「師匠!」

 激しく咳き込み少しだけ喀血した師匠に弟子が縋りついた。男はいつものように優しく笑い、

「そんな顔をするな。黄泉の彼岸へ、父母(ちちはは)や大師匠達に会いに行くだけだ。いずれキミも来るのだろうが、」

 瞼は抗うようにしながらも降りていく。閉じきる寸前に、師匠の男は最後の言葉を口にする。

「キミは、のんびりおいで」

 糸が切れるように、とはまさにこの様のことを言うのだろう。末期(まつご)の言の葉を呟き終えた直後、男の首は力なく倒れ、弟子のそれを握っていた手は解けるように落ちた。

「…………」

 声を上げることなく、涙を流すこともなく少年は泣いた。握った拳を震わせて、それが収まった後には、まるで何事もなかったかのように立ち上がった。



 数ヶ月後、

「私が新当流二代目宗家の彦四郎であるが、其処許(そこもと)はいったい」

 鹿島は新当流の道場に、時ならず珍客があった。年の頃にして十四、五の男児で、目つきは鋭く、腰に得物はないがまるで躰躯(からだ)そのものが一振りの刀であるかのような雰囲気を持つ。

「これは?」

 差し出された血塗れの書状にただならぬものを感じてか、彦四郎は断りを入れて目を通し、

「なんと、永利の弟子。あやつは健勝か?」

 静かに首を振った少年に、彦四郎は『そうか』と無念さを隠さずに返した。

経緯(いきさつ)については承知した。元より同門も同じじゃ。当流派への入門、確かに認めよう」

 少年は無言で一礼し、

「まずは旅の疲れを癒すがよい。しっかと休んだ後、鍛錬を始めようぞ」

 彦四郎は道場内へと少年を招き入れた。少し進んでから、

「おお、そうだ。其処許名は何と申す?」

ふと思い出してそう聞いた。少年が顔を上げ、口を開く。


 じき住む者のいなくなるあばら家の庭。少年が手を合わせる、できたばかりの墓。

「これより鹿島へ発ちます。()(さら)ばです、師匠」

 名も刻まれていない墓石に告げ、三年を過ごしたその場所を発つ少年が一度だけ振り返ったその先。ただの民家にしか見えぬ家屋に掲げられた看板に、力強く記され名前。

(まだ未熟な俺だが、餞はいずれ、)

「いずれ必ず、この名を天下に……」


 その流派の名前を、少年は口にした。

「鳴河、鳴河大和」



 長い話を聞き終え、セシルは何と言ったらいいのか分からないといった顔をしていた。一方鳴河は、普段のそれと比べれば多少は穏やか、に見えないこともない表情で、

「やはり面白い話ではなかったな」

「…………」

 どうしても感想をまとめられないのだろう。セシルは口を開けても上手く言葉にできず黙り込んでしまった。

それでも、

「あれから十年か……。この手もすっかり凍てついたことだろうな」

「っ! そんなことない!」

 じっと手を見る鳴河の呟きに、セシルは強く反応した。小さな両手で大きな鳴河の手をぎゅっと握って、

「鳴河の手、すっごくあったかいよ!」

 必死な訴えに、鳴河は面食らった顔でしばらく固まっていた。その間も潤んだ目に見つめられ続け、

「左様か」

 どことなく嬉しそうに見える顔つきで、そう短く返した。

「この話をするのは其方が初めてだが、話してよかったと思う」

「ほ、ほんと?」

「ああ。……大和、そう名乗ったのもずいぶん久し振りだ」

「そう、なの?」

「新当流の道場を出た後はほとんど『鳴河』で通してきたし、こちらに渡ってからは一度も使ったことのない名だ。この地で知っているのは其方だけだ」

「セシルだけ、知ってる」

 わずかに頬を赤らめながら、セシルは顔を上げた。

「こ、今度からナルガのことヤマトって、」

 そこまで言いかけて、当人の目を見たセシルは言い淀んでしまった。尻すぼみな声で、

「ヤマトって、呼んでも……」

「かまわぬ。一人くらい、本当の名を知っていてくれるのもいい」

 返事を聞いて、セシルはパッと表情を明らめた。実に嬉しそうに、

「じゃ、じゃあ今度から、二人の時はヤマトって呼ぶね?」

「ああ」

 鳴河は立ち上がり、大中小すべての刀を抱えた。

「刀を研ぎに参る。其方も部屋に戻るとよい」

「うん。じゃあねナル、じゃなくて、ヤマト」

 手を振るセシルに見送られ、鳴河は部屋を出た。


「なんというか、恐ろしささえ感じる刃ですね」

 井戸のそばでの研ぎを見学していた料理人のハリーが思わず漏らした。研ぎ終えた刃に指の腹を当てたり光にかざしたりして確認する鳴河の背後から、恐々と覗き込んでいた。

「よい石を使われていますな」

 もう一人の見学者、グレイは石の方を見て言った。鳴河の依頼で、エドが長い時間をかけて探し出した一品である。

「先々代の頃は、私もまだ召使(フットマン)をやっておりましてな。器用さを買われ刃物の手入れを任されていました。いや懐かしい」

「グレイさんにもそんな時代があったんですね」

「当然のこと。しかし、武具の手入れをご自身でなさるとは意外でしたな。こちらの騎士のように従騎士(エクスワイア)に任せているものかと」

「俺もアランにやってもらってばかりだなぁ」

「職人に任せることも多いだろうが、生憎この地で刀を預けられる者がいなくてな」

「手厳しいですな」

 丁子油を引いた脇差を鞘に戻した鳴河の言葉に、グレイは肩をすくめるような口調で返した。

 結局研いだのはその一振りだけで、滅多に使わない短い方の脇差はともかく、普段使いの刀も刃を(あらた)めただけでそのままだった。

(この半年、かなりの数を斬ったが少しの(こぼ)れもなし、か。薩摩のあの鍛冶(たんや)、本当にいい腕をしていたんだな)

 日ノ本を発つ半年前、示現の太刀を学ぶ間に依頼して作らせた一品であり、英国でも、そこへ渡る道中でも、数多くの相手を斬り伏せてきた歴戦の愛刀、それを鞘に戻し、思いの外早く終わった作業に鳴河が、

「廚で使う包丁、よければ研ごう」

「え、いやお客人にそのような」

「こないだの心尽くしの礼だ。すぐに終わる」

「ぐ、グレイさん……」

「せっかくですし、お願いしなさい」

「わ、分かりました」

 渋々持ってきた数本の包丁を、鳴河は慣れた手つきで研いでみせた。すべて研ぎ終え鳴河が去った後で、ハリーは鳴河がやったように指の腹で切れ味を確かめ、その感触に、

「怖ぇ~」

 思わず身震いした。


「ねえシャーリー?」

「はい、何でしょうか? 旦那様」

 裏庭が見える廊下で、窓から外を見ていたエドがメイドを呼び止めた。

「あれ、ナルガ何してるの?」

 指さした先では、鳴河が丸めて紐で縛った絨毯を抱えて歩いている。

「物置の整理中にだいぶ昔の敷き物がカビているのを見つけまして、処分しようとしたところ貸してくれと。研いだ剣の試し切りをするそうで」

「へぇ。ちょっと見てこよ」

 暇だったのか楽しそうな足取りで階段を降りたエドが裏庭に出て、すぐに鳴河を見つけた。立てられた絨毯に長い方の脇差を向けて、

「…………!」

 特に掛け声や前触れもなく振るった。初めに袈裟斬り、返す刀で斬り上げ、一本だった絨毯を三つに分け、最後の唐竹で宙に舞っていた一つを両断した。

「おみごとおみごと。気合十分じゃないか。こんな分厚い絨毯を、」

 手を叩きながらやってきたエドが巻き藁代わりにされた絨毯に触れ、

「え?」

 元の三分の一ほどになっていたそれは、すんなりと横に倒れた。

「……固定してなかったんだ」

「何か用か?」

「べつに。ただ君が面白そうなことをしてたから、気になっただけ」

 飄々と語るエドに、

「…………」

 鳴河は何も言わず、ただその顔を見つめていた。

「え、何?」

 無言のままじっと見られ続け、エドが気まずそうに訊ねる。

「今気づいたが、お前、似ているな」

「? 誰に?」

 鳴河は答えず、屋敷を囲う壁の、一部崩れた箇所を向いて、

「あそこの壁」

「? ああ、キミが来る前にいつの間にか崩れてたんだよ。見苦しいし危ないから直したいんだけど生憎忙しくてずっと先延ばしに」

「ずいぶん立派な石だが、」

「おかげで動かすのも難儀な」

 愚痴ろうとしたエドを遮り、鳴河は問う。

「傷をつけてもいいか?」

「へっ?」


 形を整えられた直方体の石、それを前に、鳴河は普段鍛錬に使う刃のない刀を構えた。構えたままでいた。

「ねえ、まだ?」

 石のように動かないでいる鳴河にエドが痺れを切らし訊ねた、その直後、

「…………。っ!」

「おふっ!」

 先ほどのように前触れなしに斬りつけた鳴河に、エドが声を漏らした。聞きなれない音とともに石に切り込みが入り、さらに十倍は驚きを見せた。

「なんで剣で岩が斬れちゃうのさ? しかもそれ、ただの鉄の棒なのに」

 大仰に騒ぎ立てるエドに、鳴河は顔を向けた。いつもと同じ、目つきの鋭い無表情、のはずなのだが、どこか穏やかに見えなくもない顔で、

(俺も、できるようになったぞ)

 そこにいる人物にそっくりな、そこにはいない人物に向けて小声で呟いた。

「え? 何? なんて言った?」

 呆けた顔にかまわず、鳴河は道具をすべて持って屋敷へと戻っていく。後ろからエドが、

「ちょっと気になるじゃん! っていうか絨毯片づけていってよ!」


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