89話 雨妹、教育する
しかしながら、潘公主の誤解を曖昧なままにしておいたのは良くなかったらしい。
ある時潘公主に呼ばれた雨妹が、お付きの人に頼んで誰も近付かないようにして。
念入りに人払いをされた部屋で言われたことは。
「ねえ雨妹。
夫婦というものは、皆どのように夜を過ごすものなのかしら?」
「……はい?」
雨妹は一瞬、なにを尋ねられているのかわからなかった。
そこへ潘公主がさらに言う。
「わたくし、色々疎いの。
だから雨妹が立勇殿と二人でどのように夜を過ごしているのか、参考にしたいと思って」
――いえ、どうにも過ごしていませんけど。
仮に立勇と一緒に過ごせと言われれば、雨妹が医療談義と甘味談義で一方的に喋っている気がする。
もしくは、立勇からの説教が延々と続くか。
そして眠くなったらお互いの間に衝立を立てて、とっとと寝るだろう。
この辺りの神経の持ちようは、雨妹と立勇で案外似ている気がする。
それにしても、何故この話題を雨妹にするのか。
「潘公主。
失礼ながらそのようなことは私に聞かずとも、
宮にいた頃に誰かしらから教えを受けたのではないのですか?」
いわゆる閨教育という奴である。
嫁ぐ公主に施していないはずがない。
この雨妹の疑問に、潘公主は困ったような微笑みを浮かべた。
「実はわたくし、夫婦で行うべきことについて、なにも聞かずにここへ来たのです」
潘公主曰く、この婚姻自体が突然持ち上がったらしく。
その中でも潘公主にまで話が回ってくるなんて、誰も考えていなかったのだそうだ。
なにせ黄家と言えば崔国でも有力氏族。
そこへ嫁ぐとなれば、当然有力な家の公主が選ばれるもの。
そして当時、潘公主よりも位が高く、美しい公主は幾人もいた。
だからそちらから選ばれるとばかり思っていた。
しかし黄家の特性ゆえに、誰もが黄家へ嫁ぐことを嫌がり、潘公主まで話が回ってくることになり。
短期間で婚姻の準備をしたせいで、色々な事が疎かになったことが否めないらしく。
「夫婦のことは、何事も黙って夫に従い、分からなければ尋ねればよい、と言われました」
雨妹は頬が引き攣りそうになる。
間違った助言ではないが、なんというざっくりとした教え方なのだろう。
「あの、では閨事については?」
雨妹が無礼を承知の上で、恐る恐る尋ねると。
「閨事、ですか?」
逆に不思議そうに問い返された。
――まさかの。
真っ先に教えておくべきことを忘れられているとか。
もしかして潘公主の周囲は、本人が後宮という「そういう場所」で成人まで育ったため、閨の知識がないとは想像もしなかったのだろうか?
「あの、では利民様との初夜は、どのように過ごされたのですか?」
怖いもの見たさ半分で、気持ち声を潜めて尋ねると、潘公主は普通の調子で答える。
「はい、初夜というのがどのような儀式かわからなかったので。
『わたくしはどうすればよいですか?』と利民様に尋ねました」
――聞いちゃったんだぁ……。
尋ねられた利民がどのような気持ちを抱いたのか、想像もつかないが、きっと驚いたことだろう。
「それで?」
「利民様は微笑まれまして、『なにも儀式などありません』と仰られて。そのまま二人並んで寝ました」
――うわぁ……。
雨妹は頭痛がしそうになってきた。
初夜で妻になった人から――しかも皇族から降嫁された公主から無邪気に尋ねられ、閨事について教えられる男がどれだけいるだろうか?
しかも二人並んで寝たとか。
女の雨妹でも、利民が不憫に思えてきた。
結果として潘公主は子作りの方法も知らず、「子どもは仙鳥が運んでくる」というおとぎ話を未だに信じていた。
――これは駄目な状態だわ。
もしや利民と潘公主の仲がこじれた大元は、この初夜にあったのではなかろうか?
家から足が遠のいて船に乗ってばかりいたのは、無垢な妻と顔を合わせ辛かったのかもしれない。
けれど、このままでいいはずがない。
子作りについて知っておかないと、いつか悪い男に騙されそうだ。
なにせ公主はお世話係に囲まれて育ち、着替えすら他人任せな生活である。
故に他人に肌を見せるという行為に対して、庶民よりも抵抗が薄いのだ。
そんな状況で悪い男に騙されたら、そのまま閨行為になだれ込んでしまう気がする。
「わかりました。
では不肖ながらもこの雨妹、公主殿下に閨事について語らせていただきます!」
かくして、雨妹はある種の使命感に背中を押され、潘公主に「子どもができるまで」を図解付きで熱弁することとなった。
――前世での、小学校の性教育を引き受けた時のことを思い出すね。
しかしこれが日本でなら、植物の雄しべと雌しべに例えて説明するのだが。生憎と潘公主はそうした植物の仕組みも知らない。
となれば、紙に男女の絵を描いて説明することになり。
絵でも分からないならば、女の身体は自らの肉体で知ってもらうしかない。
男の身体については、後日利民に見せてもらえばいいとして。
「殿方の身体には、そのようなモノが付いているのですね。
それが……」
図解によって閨事情を知った潘公主は、恥じらうというより、呆然とした様子である。
そして閨での行為をようやく知り、深刻そうな表情になった。
「ねえ雨妹、そのような事をして、身体を壊さないのかしら?
雨妹はどうだったの?」
どうだったのと聞かれても、現世での自分は清らかな乙女であるからして。
経験済みの前提で尋ねられても困る。
ここは百花宮ではないからいいものの、雨妹の身の清らかさを疑われるような事態になれば、色々と面倒な事態になるかもしれない。
前世の経験を語るのは簡単だが、医療の話とは違って、雨妹の実際の経験だと思われては駄目なのだ。
だからここまでの話でも、雨妹は万が一の時に言質をとられないために一般的な事実として語り、自分を主語にしていない。
しかし、ここで突き放して「わかりません」と答えたら、潘公主に恐怖しか植え付けずに終わってしまうのではないか。
そう思った雨妹は、慈愛の微笑みを浮かべて言った。
「大丈夫です、身体は壊れませんし、怖い事でもありません」
「そうなの?
でも雨妹が言うなら、そうなのよね」
断言する雨妹に、潘公主がホッとしている。
あとは、利民様に頑張ってもらうことにしよう。